【共幻社公式作品】ジャングルに虎がいる

3-19 衣砂(いさご)

エピソードの総文字数=3,514文字

 箭波は瓦礫に埋め尽くされたクリニックビル5階に降りてすぐ、床にうずくまっている葉凪を見つけることができた。葉凪の傍には、その様子を探るように背を屈めている男の姿がある。

 すでに床が残っているのはナースステーション付近のわずかな部分だけで、それも崩れるのを待っているだけという有様だった。

(嫌なヤツがいる……)
 瓦礫に足を取られないよう用心深く歩み寄っていくときも、箭波は肌が粟立つのを押さえることができなかった。

 葉凪のそばにいるのは……ドクターと呼ばれる男だ。

 

 この大間に巣食っている連中と箭波の関係は決して悪いものではない。

 他の連中同様、無関心でいることが最上の友好関係であるというつきあいは箭波にとっても心地良いものだったからだ。

 だがこの男はほかの連中とは何かが違う。

 箭波がドクターの間にこれまでほとんど接点を持たずにいたのは、友好ではなく忌避の感情によるものが大きかった。おしなべて自己顕示欲の強い妖怪の中で、ドクターのような静かすぎる存在ははもっとも警戒すべき個体なのだと思える。彼に生命を救われた妖怪は数多いと聞くが、それも単なる善意ではあるまい。彼はいつも……何かを企んでいるように見える。

 大間に出入りする妖怪の間ではドクターの名前を知らぬ者はいない。だが箭波を含め、多くの妖怪が距離を置き、決して近づくことはしなかった。そしてドクターもまた、不必要な接触は一切してこない。

 向こうが自分をどの程度知っているのか……それさえも箭波には知りようがなかった。

葉凪、まだ生きてる?
……。

 箭波の問いかけに、ドクターは顔を上げた。

 同時に、弾かれたように葉凪からドクターの手が離れる。

 ドクターの表情には殺気めいたものは浮かんではいない。いつも通り……少し無愛想にも見える静かな表情だ。

(葉凪の首、絞めようとしてた……?)
 一瞬のことで確信は持てないが、そうであったとしても不思議ではない手の動きだった。

炎をまともに食らったようだな。かなりの深手を負っている。

直きに死ぬよ。

俺に、触らないでくれ。
 眉ひとつ動かさずに死の宣告を下すドクター。

 そして葉凪のほうも……肩に置かれたドクターの手を振り払う力さえ残っていないのに、その口調には激しい嫌悪の念が滲んでいた。

そういう言い方はいささか礼儀を欠いちゃいないか、葉凪?

一応心配してやってるんだよ。

君を助ける義理なんか、私にはないのに。

意外だね、俺に礼儀を期待するなんて。

 そう、ぴしゃりと言って、葉凪は目を閉じた。

 死ぬなら死ぬで構わない……とでも言いたげな表情だった。

 ドクターはその葉凪を見下ろし、小さく笑いを漏らした。

相変わらずだな。

ただ私は今君に死なれては拍子抜けだと言いたかっただけだよ。君たちの蒔いた種がこれからようやく花を咲かせるんだ。君だってそれを見ずに死ぬのは不本意だろう? 


――衣砂(いさご)がいない今、見届けるのは君しかいないんだからね。

 そう言うとドクターは立ちあがった。

 粘着くような視線で箭波を見つめ、そのすぐ脇を通り抜けていく。

君たちのゲーム、楽しませてもらっているよ。
 すれ違いざま、ドクターは箭波にそう言い残していった。

 だが箭波は、そんな型通りのご挨拶よりも、ドクターが葉凪に突きつけた言葉のほうに意識をとらわれたままだった。

……衣砂?

 小さく、その名を口の中で繰り返してみる。

 かつて大間にいた妖怪の名だ。箭波にとっては退屈凌ぎに繰り返されたゲームで幾度となく戦ったことのある女の名……でもある。

 思わせぶりなドクターの言葉は、葉凪ではなく箭波にその名を聞かせるために発せられたものだと思えるものだった。


 だがそれが箭波には不思議だった。

 衣砂とドクターに接点があったなんて話は聞いたことがなかったし、衣砂と葉凪にだってこれといったつながりはなかったはずだ。葉凪が衣砂に惚れてるらしい――という噂は10年前、大間では知らないヤツはいなかったが、衣砂がそれに少しでもなびいたなんて話は聞いたことがない。

 いずれにしても衣砂はもう過去の存在だ。

衣砂の名前なんか……今さら聞くとは思わなかったね。

ドクターとあんたが知り合いだなんて、初耳だけど?

知り合いなんかじゃない。

 相変わらず、葉凪は身じろぎひとつせずにうずくまったままだった。ほんのわずかな妖気も、呼吸さえ感じ取ることができない。

 返事が返ってこなければ『惜しい人を亡くしたわね』と、早々に背を向けているところだ。

そうは見えなかったけどねぇ……。

 そう言って、箭波は振りかえった。

 暗い廊下の向こうに、もうドクターの姿は見えない。

あいつが言っていたのはゲームのことだ。

君が聞きたいのもそのことだろう?

……え?

 その言葉に弾かれたように箭波は再び葉凪に目を戻した。

 動いた気配はまったくなかったのに、すでに葉凪は立ちあがり、箭波を見下ろしている。無数の蔓が取り巻いて、もはや瀕死状態の葉凪を支えているのだ。

果歩を使って王牙を召喚したのはあの男だよ。

そして対戦相手は衣砂だった。

だって、衣砂は……。

 死んだはずだ。

 10年前、あの王牙の暴走に巻き込まれて……。

 少なくとも箭波は、そう聞いていた。第一、箭波の知る限り、衣砂は王牙なんかを敵に回して戦えるほどの力は持っていなかったはずだ。

死んでない。

衣砂は今もここにいるよ。

 葉凪の表情が微笑を形作った。

 そしてゆっくりと箭波の前に蔓草に取り巻かれた手のひらをさらす。

 そこに、たまごのような形の小さな白い塊が握り締められていた。白い花びらを幾つも貼り合わせて作った子供の工作のようにも見える、不格好でちっぽけな塊。

……!

 その塊を見た瞬間、箭波は背筋が凍りつくのを感じた。押し固められた花びらの向こうに、うごめく気配が確かにあった。

 激しい苦痛にもがく、狂気に彩られた悲鳴のような気配。

 妖怪とは言え、実体を持つ衣砂という存在を……無傷のままそのちっぽけな塊に押し込めることなどできるはずがない。不要な部位を切り捨て、捻じ曲げ、引き裂き、圧縮しなければ……。

そこに……衣砂がいるの?
君なら分かってくれるだろう、箭波。この10年、俺がどれだけ満たされた時間を過ごしていたかを……。

君が獲物を狩る時に感じる高揚感を……俺はずっと抱きつづけている。

衣砂を憐れむ必要などないよ。彼女も同じだ。例え自分の生命と引き換えにしても手に入れたいと思うものを、彼女もまた見つけてしまったんだから。

 葉凪は白い塊を手のひらでもてあそぶように転がしていた。

 転がるたびに、悲鳴の気配がひときわ高まって周囲の空気を震わせる。

その中に衣砂を閉じ込めてるっていうの?

10年も?

生きたまま?

 言葉を失った。

 だがその凍りつく箭波の表情を見下ろして葉凪の微笑は少しも揺るがなかった。

始まりはあのお伽話と同じ、愚かな賭けだったんだよ。

お遊びのゲームじゃなく、魔界の獣を召喚する戦いは可能なのか?

――衣砂はずっとそれを知りたがっていた。

彼女がいつも操る魔界の土くれではなく、意志を持つ土の魔物・巨兵を呼びたがっていた。

まるで、恋をするようにね。

そして彼女はドクターという賭けの相手を見つけたんだ。

ドクターが果歩を使って王牙を召喚したように、彼女もまた巨兵を呼んだんだ。自らの身体を核として、妖力のすべてを注ぎ込んでね。

だが彼女は敗れた。

10年前、篤志と英司が果歩を殺したことで目覚めてしまったあの王牙の暴走で、その身を焼かれて……。

でも死なずに……封印されて生き続けている……?
死の目前のその一瞬にね。
 葉凪は白い塊を大切そうに指に包み込んだ。

 震える指先が蔓草の支えに促されて、その花びらの表面をそろそろと撫でていく。

こうしていると、彼女の痛みが伝わってくる。

あの美しかった身体が、外側から王牙の炎に焼かれ、内側からは自らの召喚した巨兵に突き破られてまるでぼろきれのようになった。

分かるかい?

その彼女の痛みが……どれほど愛しいか。

どんなことをしても手に入れたいと望んだ女を、完全に支配した時の高揚感が……分かるかい?

 葉凪の身体から伸びる蔓がゆっくりとその身体を包み込んでいった。

 発する言葉もなく立ちすくむ箭波の前で、蔓は葉凪を完全に包み込むと、今度はするすると解けながらコンクリートの隙間に吸い込まれるように飲みこまれて行った。

切り札を持っているのは、ドクターじゃない。

俺なんだよ。

あたしたちのゲームもまた、あのゲームの一部だったの?

 箭波は戦慄を覚えた。

 まだ何も終わってなどいない。

 ――いや、葉凪もドクターも、これからすべてをはじめようとしているのだ。

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