【共幻社公式作品】ジャングルに虎がいる

4-02 欠け落ちた記憶

エピソードの総文字数=4,325文字

 朝一番、駅に背を向けて所在なげに立っている由宇の制服姿が、駅へ向かう背中ばかりの光景の中でぽつんと浮き上がって見えた。

 そろそろ都心への出勤ラッシュにさしかかる時間だった。

百合さ~ん!

 駅前の横断歩道を渡ってくる百合の姿を見つけて、由宇は待ちきれずに大きく手を振りながら駆け寄ってきた。

 由宇の方から待ち合わせに指定した駅前のコーヒーショップはもう営業中だったのに、ずっとその前で待っていたらしい。

由宇ちゃん、おはよう。

……ごめんなさいね、朝から面倒なこと頼んじゃって。


中で待っててくれればよかったのに。

んー、やっぱり制服だとちょっと入り辛くって……。
(なるほど、これは確かにお一人様の女子中学生にはハードルが高いわ……)

 店内を覗くと、出勤前のサラリーマンでごった返している。圧倒的に男性客が多かった。特急の時間待ちのためか、すでに空になったコーヒーカップを前にスマホをチェックしたり雑誌を広げている客がほとんどだ。

 由宇が入るのを躊躇っていたのも無理はない。

保護者が一緒なら大丈夫でしょ?

ここ、プリンもアップルパイも美味しいのよ。お礼にご馳走しちゃうから、好きなもの。何でも頼んで?


学校の時間、まだ大丈夫よね?

 由宇を伴って注文のカウンターに並びながら、百合は時計に目をやった。

 今日は百合もいつもより大分早くに家を出ている。果歩だったら、やっとのそのそベッドから這い出してくる時間だ。

うん、ばっちり!

あたしシナモンロール食べたいなぁ。

ふふ、旅行でもないのに朝ごを飯よそで食べるなんて初めてでどきどきしちゃう。


百合さん、いっつもこういうとこで食べるの?

まっさか。果歩を叩き起こしながらコーンフレークかきこんで駆け込み乗車――そんなんばっかよ。

こんな優雅な朝なんてずいぶん久しぶりだわ。

でもびっくりしたー。昨日の夜、百合さんから電話もらった時。

あ、別に困ったってことじゃないの。

でも百合さんはお兄ちゃんのこと頼りにしてるみたいだったでしょ。あたしにできることなんて何にもないかなって思ってたから……。

うん、ちょっとね。

茂くんに秘密でこんなことするの、良くないかなとも思うんだけど……。

ね、百合さん、奥の席行こう?

 ふたり分のメニューの載ったトレイを掴むと、由宇は店の奥に進んで行った。

 狭い通路を気にせずにどんどん歩いていく。

 由宇の持っている鞄で背中を小突かれた新聞を広げた中年の男が眉を寄せているのにも、まるっきり気づいている様子はなかった。

あ、これ。渡しとくね。

 席に座るとまず、由宇は本屋の紙袋を差し出した。

 昨夜、山岸のところから電話を入れて由宇に頼んだものだった。なぜそんなもの……と由宇は不審そうだったが、特に深い詮索もせずに協力してくれると言ってくれた。

ありがとう。

 百合は紙袋を受け取って、中を確認した。

 本屋で買った品……ではない。袋は由宇が以前にマンガを買ったときのものを使いまわしただけだ。

 濃いえんじ色の合皮張りの表紙が覗く。金文字で「祝・卒業」の文字が打ちつけられているのが見えた。卒業アルバムの見本みたいな出来だった。

由宇ちゃん、このことなんだけど……。
うん、分かってる。

お兄ちゃんにも秘密にしとく。大丈夫、あたし、口が固いって有名なんだから!

ごめんね、変な頼みごとしちゃって……。

あ、隠れて悪いことしようとしているわけじゃないのよ? ただ、まだ確信が持てないから、茂くんに余計な心配かけたくなくて……。


調べてみて私の思った通りならその時は茂くんにもちゃんと話をするわ。

 百合は袋から卒業アルバムを出し、ページをめくっていく。

 それを由宇が向かいの席から覗き込む。百合がいったい何を調べようとしているのか、興味津々だった。

ね、何調べるの?

っていうか、どうして卒業アルバム?

お兄ちゃんのこと知りたいなら、家に来れば何でも見られるのに。2~3日帰らないって言ってたし、今ならパソコンの中まで見放題……。

え?

 百合は顔を上げた。

 そしてようやく百合も、由宇が誤解しているのだと気づいた。

 由宇の顔はロマンスへの期待でいっぱいだ。

ち、違う違う!

私が調べたいのは茂くんのことじゃなくって……。

あれ、そうなの?

なぁんだ。私、てっきり……。

茂くんと篤志くん、高校のとき同級生だったって言ってたでしょ?

だから……。

篤志さんのこと調べるの?

 アイスカフェオレのグラスに口をつけて、由宇は小首をかしげた。

 昨夜からあれこれと推理をめぐらせていた疑問が、また振り出しに戻る。

篤志くんは子供のころ、大間団地にいたのかもしれない。

そのことを調べたいの。

 百合に言えるのはそれだけだった。

 由宇をこれ以上巻き込みたくないという茂の言葉は尊重したかったし、由宇が自分で思っている通り、この状況で彼女にできることなど何もないだろう。

(でも……私だって同じか……)

 由宇の真剣な瞳を見つめて、百合は胸が絞めつけられるような息苦しさを感じていた。
『その篤志ってヤツのことを調べるのはそれほど難しいことじゃないよ。でもねえ……それで何か得られるものがあるのかい? 単なる覗き趣味ってワケじゃなさそうだし。軽い気持ちで他人のプライバシーに踏み込むと後悔するよ。見たくもないもの見ることにもなりかねないし……』

 昨夜、山岸にもそう釘をさされていた。

 実のところ、篤志の過去を探ったからと言って何が得られるという手応えがあるわけではない。中途半端に巻き込まれて何もできずにいる自分が歯痒くて、何かせずにはいられないというだけなのかもしれなかった。

でも……何かがひっかかる。

何かあるって思えてならない……。

 シナモンロールをぺろりと平らげ、「そろそろ学校に行く」と由宇が席を立ったあとも、百合はしばらくのあいだ卒業アルバムのページをめくりながら立ち上がることができずにいた。
(茂くんも篤志くんも、人気者だったみたい)

 体育祭、文化祭、修学旅行。どの行事の写真にも彼らの姿が見える。篤志は野球部に在籍していたらしい。百合の見かけたむっつりした篤志とは違い、写真はどれも明るい表情だった。

 山岸から借りてきた小学生の時の英司の写真を出し、見比べてみる。英司と一緒に映っている少年の姿は、やはり篤志に酷似していた。

(思い違いなんかじゃ……ない)

 百合にはその手応えがあった。

 そう考える以外に、納得の行く答えなどあり得ないだろうという気持ちさえある。

(篤志くんがあのお伽話を知っていた理由も。今、英司くんや果歩と一緒に大間団地に閉じ込められている理由も……)

 そして篤志の過去の影に義兄の姿を見出したとき、このもやもやとくすぶる気持ちの一切合財を終わりにできるような気がした。

 あの時、炎の中で力の限り叫んでいたはずの言葉。――今はもうその記憶はきれいに取り除かれて何も残ってはいないけれど、その言葉を、今度こそ口に出来るのかもしれない。

(良かった。住所……載ってる)

 卒業アルバムの巻末には生徒の名簿があり、住所や電話番号といった情報があった。茂が年賀状でも出すときにつけたのだろう。印がいくつもあって、篤志の名前にも下線が引かれている。家から持ってきたポケット版の住宅地図と照らし合わせてみて、住所の場所はすぐに分かった。

 地図に描かれた道を指でたどって最寄り駅を探しながら、もう百合には何かに突き動かされるようにいても立ってもいられない心地になってた。

(今日は出勤するつもりだった。でも……)

 茂の言う通り、果歩たちのことは彼に任せて、できる限り日常に近い行動をとろうと……そう思っていた。

 だがそれでも、百合はバッグの中から取り出した携帯電話を掴んでいた。

 すでに登録済の会社の番号がモニターに表示されるのを眺めながら、百合の気持ちはもはやありきたりの日常に戻って行くことのできない場所へと向かっている。

 電話は留守番電話につながった。

 まだこの時間では出社している社員はいないはずだ。

おはようございます、飯野です。

――すみません、まだちょっと具合が悪くて……。今日もお休みさせて下さい。明日には多分、出勤できると思いますから。

何かあったら電話下さい。本当に申し訳ありません。

 留守番電話にそう告げて、通話を切る。
(明日には出勤できると思います……か。平気で嘘つけるようになってるな、私も)

 明日自分がどうなっているかなんて、百合には想像もつかなかった。


 昨日も休んだから、デスクにはきっと未処理の書類やメモが積み上げられているだろう。

 以前は病欠した次の日、その山を確認すると充実感を感じたものだ。

 自分が必要とされている存在なのだと感じられるのは……振り返って見ればその時だけだったのかもしれない。

 だが今はそんなもののすべてが、どうでも良かった。

(トールペインティングの本、まだ読んでなかったな……)
 由宇が卒業アルバムを入れていた本屋の紙袋がテーブルの上に置いてあった。

 アイスコーヒーのグラスがテーブルに描いた水滴の輪が、クラフト紙の表面に輪染みを作っている。

 百合がトールペインティングの入門書を買ったのと、同じ本屋のものだった。

(もうあの本、読むことはないのかも……)

 茂の家を訪れた時に見たトールペインティングの表札が印象的で、暇を見つけて自分も作ってみようか……などと考えていたのだ。本を買ったのは、その第一歩のつもりだった。

私の名前と果歩の名前、きれいなアルファベットの文字で並べたかった。白い花を添えて……。

うちの玄関も少しは華やかになるかなって、そう思って……。

絵は得意じゃないし、美津子さんみたいに上手には作れないだろうけど……。でもきっと果歩は喜んでくれる。誰かが訪ねてきたときには、私の描いた下手くそな絵を見て微笑んでくれるかも。



そうすれば……。

(あの場所を、私と果歩の家だと思えるはずだったのに……)

 そんな風に考えていた平凡な日常のすべてが、きっと次にあの部屋に帰った時には百合の中から消えうせているだろう。

 いやもしかしたら、二度とあの部屋に帰ることもないのかもしれない。

 義兄の影に近づいて行こうとする気持ちは、百合にとってそんな考えを抱くに足りるだけの危うさを秘めていた。

 すべての真実を見た時に、自分が正気でいられるのかどうかも分からない。

 あのお伽話の女のように何もかも破壊し尽くしたい衝動にかられるのかもしれない。

 世界のすべてが、沈黙の砂に埋もれるその瞬間まで消えることのない憎しみが、欠け落ちた記憶とともに蘇ってくるのかもしれなかった。

(でもね、茂くん……。それでも私、自分の目で真実を見なければ納得できない)

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