【共幻社公式作品】ジャングルに虎がいる

4-17 ほらあなの3人の子供

エピソードの総文字数=4,637文字

 繰り返される果歩のか細い呼吸が、心地よく腕に伝わってくる。

 ぼんやりとそれを感じながら、英司は埃まみれになったリノリウムの床に、あのころと同じジャングルの光景を見ていた。

 ときおりうつらうつらしながら、もう数時間……その姿勢のままで過ごしている。

(なんで篤志さんは平気な顔してんだろうなあ……)

 傷は相変わらずズキズキと痛む。

 だがそれでも……身体の向きや力の加減で痛みを堪えるコツを英司も学びつつあった。大間という場の力にも助けられているのだろう。そうでなければ今もまだ篤志の足もとで無様にひっくり返っていたかもしれない。

 果歩が少し眉を寄せて身体を動かすたびに、思い出したようにその痛みが増すのは、それほど不快なことじゃなかった。

(こうしていると、あれから10年も経ったなんて夢みたいだ……)
 あのころ英司は、冷たい床の上に転がって同じお伽話を繰り返し果歩に語り続けていた。

 何度も何度も……。

 繰り返すたびに見えてくるジャングルの幻影は鮮やかになり、細部までが明らかになっていった。まるでその場に居合わせたかのように、虎の息遣いまでを感じ取っていたのだ。

 英司と果歩と篤志は、最初はたまたま顔を合わせただけだった。だがその遊びを繰り返すうち、用がなくても病院にもぐりこむようになった。

 周囲の大人たちだって気付いていたはずだ。医者、看護師、それに待合ホールにいた患者たち。多くの者が、その光景を目にしていたはずなのだ。

 誰もそれを止めなかったのには何故なのだろう。

(それもドクターの策略、だったのかな。俺たちが特別なコマだったから……?)

 だが英司にはいまひとつピンとこなかった。

 あのジャングルのほらあなで、英司はやっぱり平凡な子供だった。

 芝生広場を走っているときと同じ。

 バスの窓の向こうにもうすぐできる学校を見つめていたときと同じ。

 スイカの種をどっちが遠くまで飛ばせるか競争しているときと同じように……ジャングルのほらあなにいても、英司はその辺りにいくらでもいる大間の子供だった。

 あのお伽話も、ジャングルの光景さえ、日常のどうってことない記憶のひとつにすぎないものだった

 ――そう、少なくともあのころはそう感じていた。

 虎と戦う術など持たない、ただの無力な子供だと。

英司……?
 そう英司の名前を呼んだが、まだ完全に目覚めたと言うわけじゃないらしい。

 まどろんだ目がじっと英司を見上げ、果歩は緩慢な動作で手を上げると英司の首筋にしがみつくように抱きついてきた。

あのころかと思った。

ずっと、長い夢を見てたみたいに……。

 小さく果歩の唇が震え、その言葉を形作った。

 果歩の顔の動きに合わせて、白い髪が流れるように肩から落ちる。その髪のせいかもしれない。果歩はなんだか顔つきまで大人びて見えた。肌の色も、ずっと白い。その中に、濡れたように光っている唇の赤が、誘うように鮮やかだ。

あのころ……?
 果歩の顔を間近に見下ろしているのが息苦しかった。
あのままずっと、ここにいられれば良かったのに。

あっちゃんと、英司と……3人で

そうかな。

俺はそんなの、苦しいよ。

なんで……?

俺たちはもう、あのころのがきじゃないんだぜ。

だからもう……一緒にいられないの?

 果歩には、分からなかった。

 どうして篤志も英司も、あの頃のぬくもりを否定するのだろう。勝つとか、負けるとか。どうして3人の間にそんな競争が必要なんだろう。あのジャングルのほらあなで、3人はいつも一緒だったのに。

 兄弟みたいに。

 恋人みたいに。

俺が話してやったお伽話はさ、王子のその若い女房の話だったろ。

でもお伽話はそこで終わりじゃない。


俺たちの話もあるんだよ。

 眠っている果歩の身体を抱きながら英司が見ていたジャングルには、その光景があった。

 あのお伽話よりもっと深く、英司の胸をえぐる光景。

 あのころ英司が見るはずだった夢の続き――。

 そして英司が、果歩にも篤志にも語ることができなかったあの結末へと続く……もうひとつのジャングルの光景だ。

……ジャングルのほらあなに3人の子供がいるんだ。

ふたりの王子と、ひとりの女の子――俺と、篤志さんと、おまえ。


俺は、こんな風におまえを抱きしめてずっとジャングルの奥を見てる。

『誰かを食べれば、虎はきっと昼寝をする』。

怯えて泣いてるおまえに、何度も何度もその言葉を繰り返しながら、ね。

 『誰か』などと誤魔化しても、それが篤志のことであるのは明らかだった。

 果歩を抱きしめながら、英司はずっと、篤志が虎に食われるのを待っていた。

 だがそれは決して口にしてはいけない重く、苦い秘密だった。英司が卑怯な子供にならないために。そして……果歩をつなぎとめておくためにも。

でも虎は……昼寝なんかしなかったんだ。

子供をひとり喰っただけじゃ、その底なしの食欲を満足させることなんかできないと言わんばかりに、次の獲物を求めていた。

そして虎が選んだのは、俺じゃなくて……。

 それは、英司の選択ではなかった。

 英司は果歩をその虎の牙の前に差し出すことなどできるはずがなかった。

 ……しなかったはずだ。

 だが、自信はなかった。

 英司は、王にかしづく家臣のようにうやうやしく果歩を差し出す自分の姿を、忌々しいほど鮮明に思い描くことができる。

俺たちは負けるんだよ、あの虎に……。

 篤志が喰われて行くのを見つめていたように、英司はまた果歩が喰われて行く光景をじっと見つめている他にない。

 そんな状況に直面しながら、英司は果歩を喰ったら虎は満足するだろうかと考えている。

 もし虎がまだ満足しなければ、英司もまたなす術もなく喰われていく運命にある。


 だがもし虎が眠ってしまえば……………………。

そしたら ぼくは いえに かえれる
 それ以上、英司は語ることなどできなかった。

 例え生きてほらあなを脱出し、家に帰りつけたとしても、それは決して勝利と呼ぶべき結末ではないのだから……。


 それでもその光景は容赦なく英司の目前に映し出されていた。


 虎の前足が、果歩の小さな身体を押さえ込んでいる。

 泣き喚く果歩の声。

 虎の顔は、さっき喰った篤志の血で赤黒く染まっていた。

 虎は、嬲るように果歩の身体に何度も爪をつきたてている。

 虎はすぐに果歩を喰いはしなかった。

 その場では喰わずに、果歩をジャングルのどこかへ連れ去ってしまう。

 そしてそれっきり……英司の前から姿を消した。

 英司は果歩を喰う虎の姿をずっと見つめ続けていた。黄色と黒の毛皮に彩られたその狂気の獣の顔が、さっき喰われた篤志の顔に変化していくのを……ずっと見ていたのだ。

 篤志も果歩もいなくなって、英司はようやくジャングルのほらあなから解放される。

 息の詰まりそうだったせまっ苦しい場所から。

 そしてジャングルを抜ける橋へ、息もつかずに走っていくのだ。

 その橋を渡りきれば、もう虎の恐怖から解き放たれるのだと知っていた。虎は、追いかけてなんかこない。

 ――そう、喰いきれない獲物である果歩を連れ去っていくときにさえ、あの虎は英司には見向きもしなかった。

あのとらが…… あっちゃんが ほしかったのは

かほ だけだから。

 虎を倒せなかった英司を、誰も責めはしないだろう。

 果歩や篤志が喰われるのを、ただ拱手傍観するしかなかった英司を、誰も責めはすまい。

 ただ、口々に聞くだけだ。

 あのオウムのように。


『なぜジャングルへ行ったのか?』

『なぜジャングルから逃げたのか?』


 だがそのときに、なんと答えればよかったのだろう。


『ジャングルに虎がいるから』


 他に言えることなど何もない。

 虎と戦うことも、果歩を守ってやることも、3人で逃げることさえ選べなかった無力な子供にできたのは……それだけなのだ。

(本当は俺だって、もっと別の答えが欲しかった。虎と戦う力が……欲しかった)
 そして何度も繰り返されたお伽話と同じように、世界を焼き尽くす炎の虎が目覚める。
(そのときにも俺は、ただ見守るしかできなかった。果歩が世界を焼き尽くすのを……ただじっと……怯えながら)

 だからあの結末を、口にできなかった。

 記憶のずっとずっと深い場所にあの結末を封印したのは、他の誰でもなく英司自身だ。

世界を沈黙の砂が覆い尽くし、炎の虎がその動きを止めたとき、オウムは……見つけるんだよ。

地平の果てにたったひとつ残された森があるのを――。


『長い年月を熱風にさらされてオウムはすでに衰弱しきっていた。

だがきっと、あの森までなら飛べるだろう。

そこにきっと真実があるのだろうとオウムは悟っていた。

その森で、子供と出会う瞬間を夢想した。

子供は残された王子に似たおもざしかも知れぬ。あるいは〈虎の鋭い目をそのまなざしに受け継いでいるだろうか……』

泣いてるの、英司?
 それまでじっと英司の話を聞いていた果歩が、小さくそう言葉をもらした。
おまえはどう思う?
え……?
女が残した子供は……王子と虎と、どちらに似ていたんだろうな?

 英司の声が震えていた。

 その質問に、果歩は答えることができなかった。

 ただ英司の泣きそうな声が、辛くてたまらない。

(英司にとって、あの虎は……あっちゃんだったの?)

 嗚咽を漏らしている英司に、その言葉を投げかけることはできなかった。果歩は英司の首にしがみついている腕に少しだけ力を加えた。

(虎が食べるのはあの女の人だと思ってた。緑の目の……。ずっとそれを、待ってたのに……)

 ざわり……と、空気の流れが変わったのはその時だった。


 葉凪の結界に閉じ込められたあの瞬間と同じ、甘い花の匂いを、もう一度嗅いだような気がする。

 振り返れば、あのころと同じ光景があるんだと果歩には分かっていた。

 ジャングルに緑の目の女が立っている。

 今にも虎に喰われそうになっている……美しい女が。

 そして英司の腕にしがみつきながらずっと果歩が篤志を見ていたように、英司の視線はその女に注がれている。

 あの頃も……。

 そして、今も。

(お伽話は、英司じゃなく……あの女が見ていた夢だったんだ)


立てるか、果歩?

 お伽話をしていたときとはまったく別の口調で、英司が囁いた。

 もうその声は、嗚咽に震えてはいない。

 今まで果歩の身体を支えていた腕に、立ち上がることを要求するように力が込められる。

(くそっ。葉凪、死ぬのか……)

 ジャングルの光景の中に立ちつくす衣砂の姿を見つめながら、英司は舌打ちをもらした。

 ジャングルは幻影でも、衣砂はそうではない。

 むせ返るような強い花の香り。

 葉凪の蔓が衣砂の身体を雁字搦めにしていたが、それは彼女を囚えているのではなく、むしろ支え、守っているようにも見える。しかしその蔓もすでに力を失いつつあった。ぶちぶちと音を立てて蔓はいたるところで千切れ、力を失って解けていく。蔓を彩っていた可憐な白い花もはらはらとその花弁を散らし、隠されていた衣砂の姿は次第に露わになろうとしていた。

 衣砂の姿はあのころと同じじゃなかった。傷ついて、泥と血で汚された肌。

 そしてあのころ、英司がまるで作り物みたいにきれいだと感じたあの緑の目も、今は苦痛と憎悪に彩られて忌まわしい光を放っている。

フクスケさんが帰ってくるまで、もちそうもないな。

始まるぜ、果歩。

 決意を込めて言い放つと英司は果歩を背中にかばい、立ち上がった。

俺じゃ守ってはやれないかもな。

でも、今度こそ……。

(――俺は逃げない! こいつと戦う!)

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