ダーティエリー

彼らは犬を撃つ

エピソードの総文字数=7,161文字

聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。おそらく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
(口語訳新約聖書 マタイによる福音書 第七章)


                 ※ ※ ※


   彼らは犬を撃つ

 誰が蛇の頭を砕いたのか?
 一番疑わしいのはアダムである。蛇が危惧していたように、アダムが部下に命じて蛇を殺させたと仮定すると無難に筋道が通るように思われる。
 だが私はその考えをとらなかった。
 アダム本人の話を信用したわけではない。アダムの言葉を信用するくらいならロバのいななきに耳を傾けた方がまだましというものである。
 しかしアダムはギャングの元締めで、紳士のふりをした悪党で、押しも押されもせぬ人間の屑だが、血に飢えた殺人鬼ではない。彼が一文の得にもならないことをするはずがない。その点だけは彼を信用してもいい。
 とにかく、今はカードを集めるときだ。先へ進むには手札を増やす必要がある。
 検視局でもらった書類に蛇の住処が記載されていた。旧市内にいくつかある貧民街の一つだ。挫折した者たちが流れ込む逃れの町。
 私がそのアパートの前に立って建物を見上げたとき、時刻はすでに夕刻になっていたが、周囲はまだ明るかった。
 外から見ただけで臭ってくるような、古く薄汚い木造の建物だった。ぎしぎしときしむ階段を上っていった。
 蛇の部屋は三階の一番端にあった。
 鍵を開けると、よどんだ酸っぱい空気が私の鼻をついた。中は外観に負けず劣らず汚く、穴蔵のように狭かった。ゴミとガラクタがそこら中に転がっていた。
 老人の臭いのこもった暗い部屋。
 かびくさい孤独のしみついた部屋。
 そこは人間の住処というより、ほとんど墓場に近かった。おそらくこの部屋の主がまだ生きている頃からそうだったに違いない。
 老醜の無惨さというものに胸を突かれるような思いがした。
 私はこの部屋を訪れたことを早々に後悔し始めていた。
 しかしここまで来て引き返すわけにもいかない。
 とりあえずゴミとガラクタをかき回してみた。だが、どんなに漁ってみてもそれらはゴミとガラクタに過ぎなかった。蛇の死に関連するようなものは何も見つからなかった。
 私はベッドの隅に腰を下ろした。
 なぜ蛇の死がこんなにも私の心に刺さってくるのだろう、と考えた。
 思うに、彼とのやりとりが私の中心を成す過去の記憶と密接なつながりを持っていたからだ。
 頼りになる庇護者のエリヤ先生。まだ若く恐れ知らずだったかつての私。無邪気に慕ってくる愛らしい妹。
 そしてエリヤ探偵事務所に集められた、刺激的でやりがいのある仕事。活劇と冒険の日々――
 そういった私の人生における黄金期とも言うべき過去の一部分を、私は蛇の死によって失ったのだ。
 くだらない感傷だというべきだった。そもそもそんなにも蛇のことを気にするのなら、彼がまだ生きているときにもっと注意を払ってやればよかったのだ。本人もその方が嬉しかっただろう……
 そのとき、建物のどこか遠くで、誰かがぎしぎしと歩く音がした。このアパートの住人が帰ってきたようだった。
 私はいつの間にか外が暗くなっていることに気づいた。
 日が落ちつつある。室内は影に染まり始めていた。
 私は電灯を点けようとして、ふと手を止めた。
 廊下を歩く足音がこちらに向かってきているように思われたからである。
 私は静かに移動してドアが開いた時に陰になるような位置に立った。
 足音の主はもはや紛れもなく蛇の部屋を目指してやってくる。
 警官が来たのか。そんなはずはなかった。このような時刻に死んだ者の部屋へ忍び足でやってくる者がまっとうなわけがない。私自身も含めて。
 足音が部屋の前で止まると、鍵が金属音を立てた。鍵を回す音ではなかった。それは鍵を壊そうとする音だった。
 だがそれは途中で止まった。開いていることに気づいたのだろう。
 やがて、ドアノブが回り、ゆっくりドアが開き始めた。
 私は陰から身を出し、その出会い頭を捕まえるつもりで誰何した。
「誰だ」
 次の瞬間、何かが空気を切り裂く音がしたかと思うと、私の左目の下に激痛が走った。
 私はとっさに上半身をそらしていたが、そうでなければ昏倒していたかも知れない。
 フックを打たれたらしい、ということをやや遅れて私は理解した。目の下をかすられ、ただそれだけでめまいがしていた。すさまじい一撃だった。
 先手を取るつもりで逆に不意をつかれたのだ。
 上半身が揺れて倒れかかったが、かろうじて踏みとどまった。
 曖昧な視界の中で、ぼやっとした人影がこちらに突進してくるのがわかった。
 私の股間めがけてすくい上げるような蹴りが飛んできた。両腿を閉じてガードしたが、間をおかずに目突きが来た。手の四指を揃えて伸ばし、シャベルのような形にしたその一撃を、私は頭を動かし、額をぶち当てて迎撃した。
 それで相手の動きが一瞬止まった。
 私は左手でベアー・ガバメントを抜くと、銃口を相手に向けて引き金を二回引いた。ほとんど反射的な行動だった。波濤のように押し寄せてくる殺気に当てられ、身を守ろうとして体が勝手が動いたのだ。
 だがその時には相手は廊下に身を引っ込めていた。二発の弾丸は標的に触れることなく開け放たれたドアの中央にめり込んだ。
 廊下を走り去っていく足音がした。
 私は銃を手にドアから飛び出したが、廊下の向こうで身を翻すのがちらりと見えただけだった。
 足下がふらついた。殴打の衝撃から回復できていない。
 私は舌打ちして部屋に戻り、面通りに面した窓を開け放った。
 夜の帳が降り始めていた。
 身を乗り出して見回したが、不審な者の姿は確認できなかった。おそらくは路地裏を通っていったのだろう。
 諦めて窓を閉めると、再びベッドに腰をおろし、深呼吸した。
 一分にも満たない格闘ではあったが、私は全身に嫌な汗をかいていた。
 何者だろうか。
 鳩時計の鳩のようにドアから飛び出してきて、私を二発殴り、一回蹴り、即座に引っ込んでいった。尋常でない殺気、当身、身のこなし。そして恐るべき判断力。
 私はモーセの言葉を思い出していた。蛇を殺害した者について、彼はなんと言っていたか?
「犯人は何らかの武術や格闘技の経験がある奴だろうな……」
 アパートはひっそりと静まり返ったままだった。

 検死局に紹介された業者は万事そつなく葬式を進めてくれた。
 蛇の亡骸は共同墓地の片隅に埋葬された。
 弔問客はラハブだけだった。
 彼女は私の顔を見るとかすかに眉をひそめたが、その場では何も言わなかった。
 葬式は午前中のわずかな時間で終わり、私は彼女と並んで墓地を出た。
「コーヒーでも一緒にどうだ?」
 と、私は言った。
「午後から勤務だけど、まだ時間は充分あるわね。いいわよ」
 ラハブは腕時計を見てうなずいた。
「ところで額と目の下の絆創膏はどうしたの? 殴られた痕のように見えるわ」
「夜中トイレに起きた時、寝ぼけて柱にぶつけたんだ」
「二箇所も?」
「行きと帰りに」
「あなたが誰かに殴られるなんて、少し普通じゃない」
 ラハブは私の説明を無視して言った。
「その誰かは、普通の相手じゃないってことだわ。蛇さんのことと関係があるの? 蛇さんとアダムの間で何かトラブルがあった? アダムの依頼はまだ続いてる?」
 私としては蛇の死をともに悼むためにラハブを誘ったのだが、彼女は私とは別のアプローチで蛇について深く考察しようとしているらしかった。
「蛇も、アダムも、何も関係はないよ」
 追及を断ち切るために私ははっきりと言い切った。
 現時点では何もわからないのだから、こう言ってしまっても嘘ということにはならないだろう。
「今はまだよくわかっていないから、そう言っても嘘じゃないって考えてるでしょう?」
 ラハブは横目でじろりと私をにらんだ。
「あなたが嘘をついたり確信がないときはすぐにわかるのよ。変に自信満々なふりをするから」
 どうも身内はやりづらい。
 私たちは中央通りを北に向かい、バビロン貿易センターを通り抜け、サマリアンというレストランへ行った。
 ここはうまいチョコレート・バブカを出すと評判の店だった。以前二度ほど利用したことがある。
 私はチョコレートが好きだ。
 チョコレートを食べると空腹感がなくなり、そのうえ脂肪を減らす作用がある。さらに、科学的に実証されていることだが、頭皮に有用な成分を多数含み、髪の毛によい効果をもたらしてくれる。言うことがない。異国の神の与え給うた恵みの食物。唯一残念なのは、私自身では実証できていないということだ。
 テラス席に座り、私はカフェイン抜きのコーヒーとチョコレート・バブカを、ラハブはカフェラッテを頼んだ。
 風がなく、心地良い天気だった。
「この店はチョコレート系が得意なんだ」
 私は言ったが、彼女は首を振った。
「ダイエットしてるの」
「らしくないな」
「あなたこそ」
「何が」
「あなたみたいなしかめっ面の大男がチョコ好きだなんておかしいわ」
「それはセクハラに該当するよ。その言い方は政治的に正しくない」
 そこでしばらく会話が途切れた。
「あなたは蛇さんの仇を取ろうとしてる」
 やがてラハブが言った。
「父さんがいたら多分したことを、今のあなたもしようとしてる」
「その話はもう終わったと思ってたよ。蛇は物取りに遭ったんだ。違うのか?」
「あなたはそう思っていない」
 ラハブは私を見据えていた。
「私は有休をとってる。だから今はあまり仕事のことを言いたくないんだけど」
「仕事熱心なのは良いことだ」
「けど、言わなくてはならない。それって時代錯誤もいいところよ。あなたのやり方は正しくない。警察に任せてほしい」
「前も聞いた」
「前も言ったし、何度でも言うわ。あなたは父さんそっくりの方法で解決しようとする」
 私はかぶりを振った。
「それが問題なのか」
「問題よ。父さんは死んだ――」
 ラハブは言った。それは小さな声だったが、棺桶に打ち込む最後の釘のように重く響いた。
「だから、私は警察官になったの」
 私は立ち上がった。
 彼女は光る目で私を見上げた。
「ちょっと失礼するよ。式の間、ずっと我慢してたんだ」
 私はラハブから離れて奥のトイレに行った。
 洗面所で手を洗い、顔を洗い、ペーパーで拭って鏡に顔を写すと、絆創膏二枚を貼り付けた大男がこちらを見返した。
 右の頬骨あたりは鞭で打たれたようになり、青い痣を作っていた。
 額の傷はもっとひどく、相手の突きを正面から受け止めたために皮膚が敗れて血が滲んでいた。
 こんな顔では妹に言われっぱなしでもしようがない。どんな反論をしても説得力がない。
 ラハブの言い分もわからないではない。彼女はもう立派な大人で、社会人で、公務員だ。しかも部下を持つ立場だ。彼女の考え方、やり方があるのはもちろん理解できる。
 だが、私はエリヤ先生に探偵術を教えられ、それで生きていくために必要な事柄を仕込まれた。
 今では終始、プレイしているだけだ。しかも、私がしているゲームを、私のようにうまくプレイできる者はいない。そんなには。
 実際のところ、私は昨夜蛇の部屋で殴られたことよりも、抜き撃ちを外されたことの方に衝撃を受けていた。むしろ感嘆したと言ってもいい。
 私は右利きだが銃を両手で使えるように訓練している。単純な早抜きなら右手よりも左手の方に自信がある。それをかわされた――
 テラス席に戻る途中、トレイを持ったウェイスレスと行き会った。トレイの上には飲み物とチョコレート・バブカの皿が載っていた。
「それは外の?」
 私は尋ねた。テラス席には私たちの他に客の姿はなかった。
「そうです」
「じゃあ私のだ。もらっていくよ」
 彼女からトレイごと受け取り、バブカを一切れとってかじりながらテーブルに戻った。うまかった。バターがたくさん入った生地に、各層に練り込まれたチョコレートが豊かな風味を味わわせてくれた。
 ラハブは行儀の悪さをとがめるように私を見た。
 だが私は彼女を見ていなかった
 彼女の頭越しに大通りを見ていた。
 白のシボレーが交差点をゆっくり曲がり、こちらに向かってやってくるところだった。何かが頭の中で警報を鳴らした。
 車が止まり、ドアが開いて六人の男が降りてくるのを目にしたとき、頭の中の警報はより高らかに鳴り響いた。
 私はトレイをテーブルに置いたが、目測を誤って床に落としてしまった。
 しかし気にする時間はなかった。
 彼らは拳銃を手にし、明らかに私めがけて駆けてきた。
 その軌道上にラハブがいた。
 彼女は道路に背を向けていて男たちに気づかなかった。
「伏せろ」
 私は言った。チョコレート・バブカを頬張ったままだったので声がこもった。ラハブにはよく聞こえなかったようだ。
「え? 今なんて言ったの?」
 彼女は怪訝そうに聞き返した。
 私は返事の代わりにラハブの右肩に手をかけると、椅子から手前に引き倒した。
 六人の男たちはすでに腕を伸ばして銃を構え、私に狙いをつけている。
 アドレナリンが一気に血中へ流れ出るのがわかった。
 様々な思考が私の頭の中を一瞬にしてよぎっていった。
 隠れるか? 逃げるか? この場で迎え撃つか? 
 どの方法もとらなかった。
 私は転倒させたラハブをその場に残し、勢いよく歩いていった。男たちの方へと。
 両手を脇にだらりと下げ、やや後ろに引き気味にしながらサマリアン前の道路へ出た。
 神経を集中し、こちらへ殺到してくる男たちを見ていた。彼らの動向の全てを頭の中に写し込もうとしていた。特定のものに目の焦点を合わせず、視野の情報をフラットに読み込んだ。
 全部で六人。シボレーに残っている者はいない。装備は拳銃。ごく普通のもの。特殊な武器ではない。散弾銃でも、小銃でも、サブマシンガンでもない。
 今、射程距離に入った。私のではない。彼らのだ。私のベアー・ガバメントは小型拳銃で弾を正確に当てられる距離が極めて短い。それに小口径で破壊力にも乏しい。
 だが人を殺すのに大型の拳銃は不要だ。小さい弾を正しい角度で打ち込むと、中をかき回して止まる。最小限のエネルギーによる最大の破壊を人体に残す。
 先頭の男が撃ち、私は右斜め前に移動しながら半身となった。弾丸が私が元いたところを通過してサマリアンのショーウィンドウを砕き、そこに飾られていたチョコ菓子を台無しにした時、私は両手でベアー・ガバメントを抜き、左のジャブを放っていた。拳が伸びきる瞬間に引き金を引いた。
 手前の男は目をわずかに細めて息を吸い込もうとしていたが、その途中で頭ががくっと動き、額に丸い赤い穴ができたかと思うと、一歩後ろへよろけ、持っていた拳銃が落ちたとたん、あおむけに倒れた。まず一人。
 私は両膝を曲げ、右に重心を落として沈み込み、ダッキングで相手側の連射をかわした。一人目の後ろに続いていた男が二人、私に向かって続けざまに撃ち込んできたのだ。
 ダッキングから伸び上がると同時にワンツーを放った。左の銃で右の男を、右の銃で左の男を撃ち倒した。
 これで三人。
 残りの男たちが並んで一斉に撃ちかけてきた。
 私はフットワークを使って弾丸を左右にかわした。弾丸をかわした、というのはもちろん表現上の比喩である。人間は弾丸よりも早く動くことはできない。
 重要なのは、相手に引き金を引かれる直前だ。撃たれてしまってからでは遅い。その前に相手の銃口の向きを察知し、その弾丸の軌道を予測し、身をそらす。
 重要なのは、攻撃を持続させ、体勢を崩さないことだ。撃った反動に耐えられるよう、自分の体重を拳に集中させる。攻撃と同時に回避する。
 重要なのは、覚悟だ。弾丸飛び交う荒野(あらの)を身一つで進むという覚悟。
 エリヤ先生が創設した技術。ボクシングを主軸にした銃さばき(ガン=カタ)。
 これらの全ての呼吸を、私は先生にマンツーマンでたたき込まれたのだ。
 私は弾の軌道に自分をさらさないよう注意しながらボクサーの足運びで前に出続けた。彼らの目前で構えをスイッチし、右のフックで一人の側頭を撃ちぬいた。
 彼が倒れる前に左右のアッパーを繰り出し、残りの二人の胸骨を砕いて倒した。
 全ては一呼吸のうちに終わった。
 サマリヤンで誰か女性の金切り声の悲鳴が今さらのように響き渡った。
 私は銃を構えたまま、倒れている男たちに近寄った。
 五人はすでに事切れていた。彼らは倒れる前に即死していたに違いない。
 残りの一人は今まさに事切れようとしていた。
 彼は私を生気の失せつつある眼で見上げた。口から蟹のように血泡がごぼごほと盛りあがっていた。私の弾丸は彼の右鎖骨に命中して肉と骨をかき回していた。
 私が拳銃を尻ポケットに収めた時には、彼の眼から光が失われていた。
 膝をつき、六人の懐をすばやく探った。彼らの身元を示すようなものは何もなかった。 
 私は立ち上がると、口にくわえたままだったチョコレート・バブカを手に取り、一口分噛みちぎった。甘いパンを咀嚼しながらラハブの元に戻った。
 彼女は椅子の陰から身を起こすところで、顔は蒼白だった。
「すまない」
 私は言った。
「君のカフェラッテを落としてしまった」
(続く)

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