【共幻社公式作品】ジャングルに虎がいる

4-14 果歩の向こうにいたアイツ

エピソードの総文字数=2,600文字

あっちゃん、もうやめて、お願いだから……っ!

 視界が真っ赤に染まった時、英司は泣き叫ぶ果歩の声を耳の間近で聞いていた。

 取りすがる果歩を身体ごと引きずるほどの勢いで振り上げられた篤志の腕が、握り締めた鉄筋の切れっ端を英司めがけて振り下ろした、その瞬間だった。

(果歩……?)
 果歩がこんな風に叫ぶのを、英司は初めて聞いたような気がした。
(じっと見つめているだけだった。いつも誰かの行動を待っている。何かを訴えたがっているくせに言葉できずに悲鳴を飲み込んでその痛みに甘んじて……)

 それが英司の知っていた果歩だったのに……。


 振り下ろされた鉄筋の衝撃が、全身を震わせる激しい痛みとして自覚されるまでの何万分の一秒かの短い空白。英司は力の抜けていく浮遊感を味わい、そして床に叩きつけられた震動と同時に、身体を捻じ曲げられるようなすさまじい痛みと吐き気とが襲い掛かってくる。

あああああ……っ!

 全身の感覚がその痛みだけに反応している。

 間近にいるはずの篤志の荒い息。

 自分の身体の中で繰り返す鼓動。

 器官を流れる空気のわずかな動き。

 赤く染まった視界に映る映像のひとつひとつ。

 そのすべてが痛みを伴う過度の刺激となって英司の神経を刺し貫いていく。

か……ほ……。

 喉の奥の粘膜を切り裂きながら、その声が英司の口へと這い登ってくる。

 こみ上げてくる胃液と一緒にその言葉を絞り出して英司は鉛のように重い腕を伸ばした。

 全身の力が失われていくのを感じているのに、その行動を自分でも制御できない。

(果歩だけは……違う)

 果歩の手触りだけは違う。

 例え世界のすべてが痛みとなって襲い掛かってきても……果歩だけは、違うはずだ。

『俺が守ってやるよ、果歩』

 あのときと同じように果歩を抱きしめれば、きっともう一度立ち上がる力を手にできるはずなのだ。

果歩……俺が……。

 篤志の腕にしがみつきながら自分を見下ろして硬直している果歩を、ぐらぐらと揺れて焦点の定まらない視界に捉える。掴みかかったその最初の動作は、果歩までは届かずに空を切った。遠近感が狂っている。自分が身体を起こしているのか、それとも冷たい床をただ這いずっているのかさえ、英司には分からなかった。


 ただ、果歩が見えている。

 その手触りが、もうほんの少しで手に届く。



 届くはずだ。

……くっ!

 もう一度、英司は全身の力を奮い起こした。

 篤志の血で赤く染まった果歩の腕を、今度は確かに掴んでいる。

 だが英司が意識を保っていられたのはそこまでだった。指から力が抜け、血で濡れた肌をすべって手応えが失われていく。

 倒れながら英司は力任せに果歩の腕を引き寄せた。

 ほとんど同時に、篤志もまた掴んでいた鉄筋を放り出して果歩の腕を掴む。

英司ぃ――っ!

 叫びながら果歩は自分の身体を炎が包んで行くのを感じた。

 その炎の中で、身体をふたつに引き裂かれるような疼痛が湧きあがってくる。

 だが、そうなってもまだ、果歩には分からなかった。

 篤志を選ぶとか英司を選ぶとか……そういうことではなかった。どちらかの手を振り切って駆け寄ることだって、このまま引き裂かれていくのと同じくらい強烈な痛みを避けられない選択なのだ。

なんで?

どうして……っ!

 冷たいリノリウムの感触は、あの頃と何も変わっていない。

 そして今も篤志と英司は果歩のそばにいる。

 それなのに、あの頃は何より心地よかったはずの感触がなぜこんなにも痛いんだろう。

 今も同じジャングルのほらあなの光景が見えているのに、もう一度、あの頃みたいに篤志と英司の間にはさまれてお伽話を共有することができないのは……なぜなんだろう。

(他にはいらない。なんにも……)
 あの瞬間を取り戻すためなら、他の何を犠牲にしてもいい。死の砂に埋め尽くされてしまっても、篤志と英司がいてくれれば……きっとこわくなどないはずだった。


 篤志や英司を失わずに済むというのなら――

せかい なんて

かんたん に

やきつくして しまえる

果歩っ!
(誰……?)

 それは英司の声のようにも聞こえた。

 だが同時に、叫んでいるのは篤志のはずだ……とも思える。

 そして彼らが呼びかけているのは自分ではなく他の誰かなのだとも感じていた。もう失われてしまった、彼らの……本当の〈果歩〉。

(ここにいるのが……ホントの果歩じゃないから。だから……?)

 篤志の肌に食い込んで反り返った薄っぺらい爪の先から、とめどなく炎があふれてくる。炎に煽られた髪が、燃えながら中空に舞い上がって火花を散らし、英司に降りかかる。

 王牙が牙を剥くのが分かった。

 激しい耳鳴りが頭を締め付けるように鳴り響く中で、果歩はその炎に必死に抗っていた。もはや炎は歯止めを失って果歩の意思とは無関係に燃え上がり、篤志や英司に襲いかかろうとしている。

ぴーちゃん、ちがう

……だめぇぇぇぇっ!

 そう叫んでいる自分が誰なのかも、もう果歩には分からなかった。
やめろっ、果歩!

 篤志はもう一度怒号を発した。

 掴んだ果歩の手を通して、爆発的なエネルギーが体内に流れ込んでくる。

 ……と、同時に、リノリウムの床にだぶるようにジャングルの幻が周囲を埋め尽くす光景が視界に飛び込んできた。

 色濃い緑の木々のむこうに虎の姿があった。

 葉陰から覗く黒と黄色の毛皮が、足の動きに合わせてちらちらと揺れ動く。

 獰猛な黄色の目が、じっとこちらを睨んでいた。

 その口元が……赤く血に汚れている。

いろんな人が虎を捕まえようとするけど、誰も虎には勝てない。

逆にやられて食べられちゃうんだ。

頭からばりばり音を立てて、どんな強いやつだって食べるんだ。

全部食べると、虎は眠くなって昼寝をする。

そうしたら逃げられるよ。

だからここで待っていよう。

虎が寝たら家へ帰れるから……。


ぼくが連れて行ってあげる。

守ってあげるから……。

 10年前、ソファの下にもぐりこんで英司がくり返し語った光景が、今……篤志の目の前に鮮やかに再現されていた。
(ああ、そうか……英司。おまえは待っていたんだな。俺が虎に喰われるのを……ずっと)

 篤志は果歩の手を離した。

 ゆっくりと力を失って果歩の身体が床に倒れ込む。

 果歩を取り巻いていた炎は消え、篤志を睨んでいた虎の姿も、幻のジャングルの光景も……すべてが色あせて消えていった。

だからおまえにはあのジャングルが必要だったのか。

虎のいる……ジャングルが。

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