【共幻社公式作品】ジャングルに虎がいる

4-10 せかいのおわり

エピソードの総文字数=3,838文字

立てよ、果歩。

――第2ラウンドの始まりだぜ。

 わずかに腰を落として果歩の髪を掴み、篤志は怒号を発した。

 果歩が短く声をあげて目を開き、助けを求めるように英司へ視線を投げた。

やめろよ、果歩を放せ!

 英司もまた一歩、じりっと果歩や篤志の方へ足を進める。

 だがすでに篤志は英司には一瞥もくれなかった。

 うつぶせに倒れた果歩の顔を自分の足の間にはさみこむように片膝をつき、その顔を自分の方へ向けさせる。

おまえが自分で選べよ、果歩。

俺か英司か。

簡単だろう――その一言でケリがつく。

や……。

 果歩の身体が激しく震えていた。

 手のひらにすっぽりと収まってしまう華奢な顎。カチカチと歯の鳴る細かな振動が手のひらに伝わってくるのを感じて篤志は自分の口元が歪むのがわかった。果歩の指が、冷たい床を這うようにうごめくのを見下ろながら、その指を口に含んだらどんな味がするのかを知っているような気がした。

(今も何かにしがみつきたくてたまらないんだろう、果歩。おまえはいつもそうだ。俺でも英司でも……いや本当はもっと別の誰かでもいいのかもしれない。自分の存在を実感できる確かな手応えを求めている。


あのとき、ジャングルのほらあなでそうだったみたいに

やめろって言ってんだよっ!

聞こえないのか、このクソ野郎!

 その英司の声にようやく篤志は果歩の顔を押さえつけていた手を離し、その獰猛な目を向けた。

 英司は自分の手のひらに爪が刺さるほど強く拳を握り締めていた。汗ばんだ手のひらを小さな破片が擦りむいていた。床に落ちていたコンクリートの破片に過ぎないもの。

 だが今は……これが英司自身と果歩の命綱でもあった。

(この大間でなら、俺にはできる。このちっぽけな破片ひとつで、篤志さんを殺すことだって――)
 そう分かっていても。

 目の前でねじ伏せられている果歩を見ても。

 心を決めるのは簡単なことではなかった。

 これが誰かのゲームでも――英司にとっては紛れもない現実(リアル)なのだ。

 

篤志を殺って果歩を取り戻せ!

 閃くようにその言葉が英司の意識に響き渡る。

 だが同時に、10年前のあの夜、炎をまとった小石が果歩を撃ちぬいたその光景が英司の脳裏に鮮やかにフラッシュバックした。

 その手応えを、もう一度求めている自分がいる。

 この石つぶてを果歩めがけて力の限り投げ放ちたい。消えることのない傷を、あの柔らかな手触りに刻み付けたくてたまらない。

 はらわたの煮え繰り返るような怒りがこみ上げて、英司はその凶暴な気持ちをどうしても抑えることができなかった。

奪われたくないなら、果歩を殺すのよ

もうそれしか、道はない。

 果歩の着ている白い服が、大間の崩壊事故の後に収容された病院での光景を思い出させた。

 英司の母が入院したこともあるY市の総合病院。

 10年前、あの病院でも確か果歩はそんな服を着せられていた。

 無機質な白い壁ばかりが続く病院の片隅。床は薄汚れたクリーム色で、果歩がベッドの下にもぐりこもうとすると、看護婦はいつも目ざとく見つけて引きずり出した。

 だからかもしれない。

 果歩はあの病院でびくびく怯えてばかりいた。

 看護婦がいくら優しく声をかけても決して懐こうとせず、いつも英司にしがみついてお伽話の続きをねだるように見上げていた。少し首をかしげて丸っこい目を見開く。あの英司の見慣れた表情を浮かべて……。

 そのクリーム色の床には、大間の病院で見たようなジャングルの光景や虎の姿を見ることはできなかった。それでも果歩を抱きしめてお伽話をしているとき、英司はジャングルのほらあなにいたときと同じ心地に浸ることができた。


 死の砂に埋められていく世界に、果歩と英司のふたりだけが取り残されているみたいだった。

(あいつが、いなくなったからだ)

 小さな果歩の手を拳の中に優しく握りこんで、英司はあの時も篤志のことを考えていたような気がする。

 勝ち誇ったように。

 そして自嘲するように。

 身体の中に収めておくには大きすぎる相反するふたつの気持ちをもてあましながら、もう果歩には自分しかいないのだと悟った。

 果歩が可愛いと思ったのは、その時が最初だったのかもしれない。

 それまではいつだって果歩をはさんで感じていた篤志への疎ましさが消えて、初めて果歩そのものの体温を実感したのだ。その滑らかで弾力のある暖かな手触りが、心地よかった。

『僕が守ってあげるよ』
 そう耳元で囁くたびに捨てられた子犬のように身体を摺り寄せてきた手応えがたまらなく恋しかった。

 だから英司は十年も果歩を探し続けていたのだ。


 だが、今は違う。

 それは多分――。

 果歩が〈女〉に見えるせいだ。


 選べと迫った篤志の言葉の意味を、もう果歩は知ってしまっている。

 あの時と同じように自分を見上げている果歩が、女の匂いをさせていることにたまらない嫌悪感がこみ上げてくる。

 こんな風に果歩が自分を見つめる瞬間を、本当はずっと待っていたはずだ。

 それなのに今はそれが許しがたいほど汚い行為だと思えてならない。

そんな目で……篤志さんを誘ったのか、果歩!  

 叫びながら、英司は胸が切り裂かれるような心地だった。
俺を見るなよ、果歩。

あいつを誘ったのと同じその目で、俺に媚びるなよっ!

畜生っ、何でこんなことになったんだ。


こんなの、滅茶苦茶じゃないか!!

 口をついて出た、もつれた怒鳴り声。

 自分の声がまるで癇癪を起こした子供の悲鳴みたいだと英司は思った。

 果歩の強張った表情が、英司の内側で渦巻く嫌悪感を見抜いたことを訴えている。

 どうしてか、分からない。

 10年前英司の放った小石がその胸を貫いたときと同じ疑問を、果歩は今も発している。

 それが英司には辛かった。

 ――果歩を責めたいはずじゃない。

 だが、果歩の首筋に痛々しく残る指の痕、果歩の背中を切り裂いたから傷から目が離せなかった。

 白い肌に刻印されたそれらの印が、篤志を受け入れた証のように見えてならない。

(あいつをぶち殺して、果歩を奪いとればいい。それが俺に与えられた使命なんだから……)


 果歩を責める気持ちを必死に打ち消そうと自分自身にそう言い聞かせる。

 だが英司には拳の中に握り締めた小石を投げつけたい相手が、篤志なのか果歩なのか……もう分からなかった。

(俺は……こんな殺し合いじみたことなんか、望んでいなかったはずなのに……?)

 その白い背中を抱きしめたとしても、湧き上がってくるのは決して以前と同じ気持ちではあり得ない。10年前、あのジャングルのほら穴で果歩を抱きしめていたときの誇らしさも、離れ離れになって以来、名前も覚えていなかった果歩を探し続けたあの恋しさも、もう2度と感じることなんかできなくなる。

 そしてずっとその肌に染み付いた篤志の匂いを嗅ぎながら果歩を抱いてやればいいのだろうか?

 ガキだった頃と同じように、勝ったはずだとむなしく自分に言い聞かせながら、惨めな気分を引きずったまま?

 それでも、果歩を失うよりはずっとマシかもしれない。

 もう一度ここで負けを認めて篤志の前に膝を突くよりはずっと……。


 だが違う。何もかもが違う。

あんたどうかしてるぜ、果歩を放せ!

 英司の放ったコンクリート片が、これまでにないほどの巨大な炎をまとった。そして次の瞬間、その炎をまともに喰らって篤志は体勢を崩した。わき腹の肉がえぐられるのほどの傷を負って、さすがの篤志も表情が変わった。

 避けようと思えば避けられたはずだ。

 だが篤志は手にしていた鉄筋をわずかに構えたままで体勢を変えようとはしなかった。果歩を、庇おうとしたのかもしれない。

くそっ!

 低くうめいて、篤志は身体を起こした。

 出血が激しい。

 血に染まった篤志の身体を間近に見上げて、果歩は気が遠くなりそうだった。

 だが篤志は苦痛などまったく感じていないかのように見える。英司を睨み据え、手にした鉄筋を握り直して跳躍するようにその足が床を蹴った瞬間、果歩は撥ねるように身体を起こしてその腕にすがりついた。

やめて、あっちゃんっ! やめて、お願い……お願いだから……。

こんなのいやだ。お願い、何でもするから……!

 もつれる舌で必死に哀願の言葉を叫びつづける。

 だが、篤志の行動を止めることなどできなかった。

 振り上げた鉄筋の切れっ端が篤志のごつごつした拳ごと果歩の胸に当たる。

ん……っ。

 足から力が抜けていくようにバランスを崩し、息が詰まって目の前が暗くなった。

 篤志のわき腹から流れ出た血で、ぬるぬると指がすべる。それでも果歩は篤志の腕を掴んでいる手を離さなかった。

 今、手を離してしまったら……どうなるのかもう分からない。分からないけれど、何もかもが終わってしまう気がする。

 耳の奥であの呪詛の声が聞こえた。白濁する意識の中で次第に速度を増し、大きくなって繰り返している。

もういちど せかいが おわるんだ

 その予感を、確かに感じた。ひどい耳鳴りがして、頭が割れるように痛い。

 途切れそうな意識をつなぎとめているだけで果歩には精一杯だった。

 ペパーミントグリーンのリノリウムの床にだぶって、もう一度あのジャングルの光景が淡く見えてきたような心地にさえなっていた。

(ジャングルの、ほらあなだ……)

 耳の奥で虎の咆哮が聞こえている。

 その声は遠かったけれど、虎がどこか遠い場所ではなく自分の身体の中で身をよじってもがいているのが果歩には分かった。

(ぴーちゃんが……来る)

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