【共幻社公式作品】ジャングルに虎がいる

4-09 踏ん切り

エピソードの総文字数=4,018文字

 スマホの電源を切ってハンドバッグに投げ込んだあと、百合は改札へ向かう足を止めた。

(茂くんにあんな言い方するなんて……私、どうかしてる)

 後悔がじわっと滲み出してくる。

 大間に閉じ込められた果歩たちのことで手一杯になっているというのに、百合にまで子供の八つ当たりのようにあんな言葉を投げかけられて、茂はきっと困っているに違いない。

 それに……。

(威月の言葉に逆らったのなんて、初めてだった)

 それが、不思議だった。

 本当は今も威月の言葉に跪きたくてたまらなかったのに……。

 あの頃と同じ威月の口調で命じられたら、今でも素直に従っていたに違いない。


 だが現実は、もっと違う側面を百合の前に見せ付けている。

 威月がまったく別の、福島茂という大学生の姿で現れたのと同じように、百合ももう10年前の百合ではありえない。

 意志のない人形のようにすべてを威月に委ねていられたあの頃がこんなにも恋しく感じるのは、それがもう、取り戻すことのできない遠い場所にあるからだ。

全部、選んだのは私なのに……。

そうする以外になかったはずなのに……。

 威月の与えてくれたものを消えることのない痛みを伴う傷に変えていったのは自分だ。そしてその辛さから逃れたくて何もかも忘れたのも……自分だ。


 あのお伽話を過去の思い出に押し込めて、14歳だった自分も、威月の肌触りも、何もかもをひっくるめて自分の存在から切り離してしまったのは……他の誰でもなく百合自身の選択だった。あの頃威月に隷属することを自分で選んだように、果歩の死をきっかけに義兄の手で何もかも忘れていくことを百合は自分で決めたのだ。


 それを百合は成長なのだと思い込んでいた。

 私だっていつまでも14歳の小娘じゃない――そんな風に。


 悲しいのは、月日が流れたせいじゃない。その月日を、本質的なものから目を背けて生きてきたせいだ。例え多くの傷を背負ってでも手に入れるべき価値を持っていたものを全部捨てて来たからだ。

(平凡だけど幸せ――そう思ってきたこの10年まで、何もかも価値を失ってしまう……)
 もはや威月の顔さえ不鮮明な記憶だったけれど、威月の手が顔に触れた感触をかすかに思い出すことができる。

 滑らかな皮膚の手触り。

 作為的な構造物のように均整の取れた指の形。

 その指に触れられると、いつも百合は凍り付いたように身動きが取れなくなった。息を潜めて威月の行動を待ちながら、次第に自分が威月の思いのままになるただの物体に変わっていくのを感じていた。

(威月に命じられたような気持ちがしていたけど、それも本当はそうじゃなかったのかも。威月は……私にそんなことを望んではいなかったのかもしれない)

 ただ百合には、他のどんな方法も思いつかなかったというだけだ。

 そうして隷属することが威月を手に入れるための、たったひとつ見つけ出すことのできた方法だったのだ。

(バカだ……私)

 改札に向かうのをやめて、百合はホームのベンチに腰を下ろした。

 勢いに任せてここまで来たのだが、ひとりで行くのはどうしてもこわかった。

 ハンドバッグを開けてスマホを取り出し、そっと電源を入れてみる。

 もしかしたら茂から電話が入るかもしれないという期待とも不安ともつかない気持ちが湧き上がってきたが、電源を入れても着信はないままだった。

…………。
 本当は茂に電話をしたくてたまらなかったのだが、百合の指が押したのは別の番号だった。

……はい、山岸。

 呼び出し音5回。沈黙7秒。

 かすれて不機嫌そうな低い声が返ってきた。

 いい夢見てたのにこの電話のせいで起こされた。しかもまだ眠い。どうしてくれんだ、責任取れ! ……と、でも言いたげな口調だ。

あ……あの……。

 たじろがずにはいられなかった。

 電話の向こうから聞こえてくる声のあまりの不機嫌さに、さっさと通話を切ってしまいたい衝動にも駆られる。

(いやいや、通話切っても履歴残るし。かえって相手を怒らせるだけだから……)
誰。

 その一言を発するのさえ面倒くさそうだった。

 百合は慌てて腕時計に目をやる。

 午前8時46分。

 たった一度顔を合わせことがあるだけの相手に電話するのに適した時間とは言い難い。

 が、百合の感覚からすれば、電話1本でそこまで迷惑がられる時間でもないような気はする。というか、社会人として平日にこんな時間まで寝ていて大丈夫なのか。

あ、朝早くから申し訳ありません。

ええと、その……。

ああ、昨日の……。

由美ちゃんだっけ?

……百合です。
百合か……百合ちゃんね。『ええと、ええと』で思い出したよ。

で、何?


あ、悪ぃ、ちょっと待って。

 そう言って電話の相手――山岸はスマホを放り出したようだった。

 すぐそばでがさがさと何かを探る音が聞こえる。苛立った気配。物を投げたか、落としたかしているのだろう。それからまたがさがさと紙をこするような音が聞こえ、ライターの蓋をかちんと鳴らす金属音が響いた。

 それから受話器を取り上げて長く息を吐く。多分、煙草だろう。

で……? どしたの。

 声が少し落ち着いていた。

 そのことに百合はほっとため息を洩らした。煙草は好きではなかったが、こういうときは『お気になさらず100本でも吸って下さい』という心地になる。

あの……すいません、まだお休み中だったんですね。
すいませんかどうかは話によるけど……。

う、まだ9時前かよ。

今日はその……。

お仕事はお休みなんですか?

俺はね、朝のうちは動かない主義なの。

今んとこ夜の労働者って身分だし。

で?

世間話したくてこんな時間に俺をたたき起こしたわけじゃないんだろ。

ええと……実は……。
昨日の話の続き? 静岡育ちのダム屋の兄ちゃんがどうのって……。

実家の住所、分かったの?

はい。茂くんの卒業アルバム借りて。

それで……。

 矢継ぎ早に質問をぶつけられて、百合はまたしても口篭もった。

今、外から電話してる?
え?
そっちこそ仕事大丈夫なのかなって思ってさ。

あんたOLって言ってなかったっけ?

会社は?

そろそろ始業時間じゃないの。

まだ有給残ってるし、仕事の方はなんとか……。

それで……。

会社休んでダム屋の兄ちゃんの実家に殴りこみ、か。

 けつまづくように口篭もってばかりの百合の話に、少し退屈したように山岸はため息をついた。

 百合に話のペースを預けたのではいつまで経っても要領を得ないということは、昨夜のうちに身をもって学んでいる。今すぐにでもスマホなんか放り出して毛布の中にもぐりこみたい心地で、それをもう一度繰り返す気にはなれなかった。

 正直、山岸は百合がこんなに早く行動を起こすとは思っていなかったのだ。

殴り込みだなんて、私はそんな……。

ただ……ええと……。

あーハイハイ。

勢い込んで飛び出してきたけど、途中で怖気づいたわけね。

い……いえ……。

ええと……。

 鼻で笑うように図星を指されて、百合は言葉を失った。

 それがさも予想通りの反応だったと言わんばかりに山岸がまた笑いを漏らす。

別に責めてやしないけどね。

――その方がいいよ。相手が誰であれ、女の子が無茶すんのは感心しないし。

で?

俺にどうして欲しいの。

英司にも福島くんにも頼れなくって俺んとこに電話してきたわけでしょ?

 嫌味なほど自信たっぷりな山岸の言葉に、百合はカッと頭に血が登るのを感じた。

 多分山岸は、その百合の反応も予想していたのだろう。いや、期待していたと言った方がいいのかもしれない。

 山岸の善意とも悪意とも取れない口調は、多分相手が頭を下げて懇願するのを待っているからこそだ。そういう空気が会話の端々から滲み出していることに、さすがに百合だって気づいていた。

行ってやってもいいけど、こういうのってあんたが思ってる以上に高くつくぜ?

ホントにいいのぉ?

お願いできるんですか?

た、た、た、高くつくって、おいくらですか。

 このまま舐められているのはシャクに触る。

 そんな自暴自棄な気持ちも多少はあったが、やっぱり声は震えていた。

……………………。


 今度は、山岸の方が絶句した。

 それから電話の向こうに、さもおかしそうに噴き出す笑い声が響く。

朝っぱらからブチかましてくれんね。

眠気ふっとんだよ。

か、からかってるんですか?

私は真剣に……。

俺だって真剣に下心いっぱいだよ?

ヤクザもん相手にヒザ正して恐喝されてどうすんの。

世の中にゃ金じゃすまないことだって山ほどあるんだぜ、お嬢さん。

 心底嬉しそうに言って、山岸は百合の言葉を待った。

 次に出てくるのは多分『ええとええと』だろう。

 ……が、予想に反して百合は押し黙ったままだった。ひょっとしたら泣き出しているのかもしれない。

(あ、やべ……。俺、苛めすぎた?)
あ――、もしもし?
し、ししし、下心に応えればいいだけなら、いっそ安上がりじゃないですか!

お願いできるんですか、できないんですか?

 ほとんど決死の思いで口にした言葉だった。

 墓穴を掘ってるんだという自覚がなかったわけじゃない。

 だがその百合の言葉にもう一度盛大に噴き出して、山岸は危うくくわえていた煙草を取り落としそうになっていた。

似合わない台詞言うんじゃないよ。笑わせてくれるね、ホント。

どこまで言っちゃうか本気で聞いてみたくなってきたよ。


いやまあ、冗談はさておき、今どこ。

行ってやるから。

――安心しなって。まあ見境はない方だけど、俺も根はいいヤツってか、自分で言うほど悪党じゃないし、英司絡みの女に手ぇ出すほど飢えちゃいないからさ。

………………。

(根はいいヤツとか、自分で言うか???)

 その山岸の言葉をどこまで信用していいのか分からなかったが、とりあえず百合は今いる駅名を伝えた。

シャワーとお着替えの時間も入れると40分ってトコかな。

そこ、駅前に喫茶店があるからさ。お茶でもして待っててよ。

 あくまでも自分のペースを乱すつもりはないらしい。

 有無を言わせぬ調子でそう言って、山岸は通話を切った。

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