【共幻社公式作品】ジャングルに虎がいる

4-03 鮮やかな羽根

エピソードの総文字数=3,330文字

(昨夜、茂くん……何時ごろまで私を待っていたんだろう)

 いつもとは違う電車に揺られながら、百合はぼんやりと窓の外を見ていた。

 昨夜、山岸のところから戻ったのは深夜になってからだった。

 もう終電もなくなり、タクシーを拾うという百合の言葉を押しきって、結局山岸が車を出してくれた。

 部屋で待っている茂と顔を合わせるのがこわくて玄関の前で逡巡していた時間は、山岸の部屋で夢中でファイルをめくっていた時間よりずっと長く感じるものだった。


 だが、茂はもういなかった。

百合さんへ


おかえりなさい。

帰りを待つつもりだったけど、果歩ちゃんたちが空腹を訴えていると思うので戻ります。

百合さんはビールでも飲んでゆっくり身体を休めて下さい。


カレーご馳走様。

美味しかったけど、次はもう少し辛口希望!

 そのメモが、ダイニングテーブルの上に缶ビールを重石にして置かれていた。

 それだけだった。

 缶の表面にびっしりと覆った水滴。

 その水滴を指で撫でながら、百合は何だか泣きたい気持ちになっていた。

(これ、威月が用意したのかな。それとも……茂くん?)
 そんな疑問を抱いてもいた。
(どっちでも同じかな。でも威月はこんな風に優しくしてくれることなかったから……やっぱり茂くん? なんとなく、美津子さんから受け継いだ気遣いって気がする)
(威月、優しくなかった……よね。それなのになんであんなに好きだったんだろう。それとも私が気付いてなかっただけかな。私まだ子供だったし……)

 威月のことさえ満足に思い出すことができないのだと百合が気づいたのはその時だった。

(――これもお義兄さんのせい?)

 それはあの夜の記憶がすりかえられていたように、義兄が仕組んだことなのだろうか。

 それとも……。

 百合自身が自らの記憶から、他の雑多な記憶と一緒に捨ててしまったからなのかもしれない。

 それを認めるのはこわかったけれど。

 百合が覚えているのは、抱きしめてくれた威月の手の感触だけだった。

 目の前に鮮やかな色彩が舞うように揺らめく映像が、フラッシュバックするように蘇ったが、それが何だったのかを思い出すことはできなかった。


羽根の色……。
 それをかすかに思い出しただけだ。
お姉ちゃんの飼ってた鳥……?

 思いあたるのはそれくらいしかない。


 姉は長いこと鳥を飼っていた。

 鮮やかな赤や黄色や緑の羽根を持つ鳥が、窓際の鳥かごの中で鳴いている光景は、百合にとっては幼いころから見慣れたものだった。

『キレイよね……』

 姉は鳥かごの前で何時間もじっと鳥の動きを見つめていることがあった。

 百合は……鳥が嫌いだった。

 姉はいつもこまめに世話をして鳥かごは清潔に保たれていたけれど、いくら窓を開けて空気を入れ替えても、あの臭いが家の中から消えたことはない。

 鳥たちの姿は確かに美しかったけれど、表情を作り出すことさえなく、何年手元でエサを与えても姉にさえ決して馴れる事のなかったその生き物のどこに、姉が愛情を感じていたかは今も分からないままだ。

(本当はお姉ちゃんも鳥なんか、好きじゃなかったのかもしれない)
 鳥たちを見つめるときの姉の姿を思い出すと、百合はいつもそんな気持ちがこみ上げてくるのを感じる。

 きれいだ、美しい、心が癒される。

 繰り返される言葉とは裏腹に、鳥たちを見つめる姉の目がゾッとするほどに表情を失って空虚だったからだ。

(そうしなければいけないって……誰かに命じられてるみたいだった)

 結婚してから、姉の飼う鳥の数は驚くほど増えた。

 大間団地の家でも、奥の一部屋は完全に鳥のための部屋と化していた。鳥かごの数は10近くもあっただろうか……。

 その鳥かごの扉をひとつずつ開け放って行く姉の姿を見た記憶が、突然蘇った。

 部屋中に溢れかえる鮮やかな色彩。

 狭いかごから解き放たれた鳥たちが狂ったように飛び交う部屋に、姉は身じろぎもせずにじっと座っていた。

『何してるの、お姉ちゃん。鳥、逃げちゃうよ』
『もういいの』
『いいって……どうして? あんなに可愛がっていたのに!』
『鳥を飼っていると、赤ちゃんに良くないんだって。病気が伝染ったりするっていうの。だから……』
(あれは確か、果歩が生まれる少し前だった……)

 姉のおなかはもうすっかり丸くなって、赤ん坊を迎える準備が少しずつ整えられていたころだ。

(お義兄さんに言われたのかな。鳥、捨てろって……)
 今ならそう考えることができる。姉は果歩を妊娠する以前にも早期流産で子供を失ったことがあったから、神経質になっていたのかもしれない。

 だが、10年前の百合には姉の気持ちがまったく理解できなかった。

 鮮やかな色彩が飛び交うその真ん中にじっと座っていた姉の姿。

 飛んでくる鳥の羽根が何度も顔をかすめ、百合はそこに立っていることさえ困難だったのに、姉はそこに座ったままだった。むやみに飛び交っているように見えても姉に近づく鳥は1羽たりともいなかったし、むしろ姉から逃げようともがいているようにも見えた。

 何だかこわくなって、百合はそれ以上言葉を発することができなかった。

 でもあれほどこわかったのが狭い部屋の中を飛び交う鳥たちだったのか、その鳥たちにまったく無関心だった姉だったのかは今もよく分からない。

 あのとき、狂っているようだと感じたのは本当は鳥のことではなかったのかもしれない。

 開け放たれた窓から少し肌寒いくらいの風が吹きこんできて、タッセルの外れた真っ白なカーテンが踊るように翻っていた。

 その向こうに見えた抜けるように青い空の色と、団地を囲むように植えられた木々の緑が鮮やかで……。

 その窓の向こうに次々と消えていく鳥を見送った、この記憶は……。


この記憶は……本物?
 それともこれも……歪められた偽ものの光景なのだろうか。


 やがて目指す駅に到着し、百合はホームに降り立った。

 この駅もまた、出勤のための乗客が列を作っていたが、数はさほど多くなかった。通勤ラッシュも、そろそろ終わりだ。

 下車したのは百合ひとりだけだった。

 改札を抜け、階段を降り始めたときにスマホが着信を告げた。

 反射的にスマホを取り出すと、モニターに『果歩でーす☆』というメッセージが表示される。

もしもし……果歩?

果歩なの?!

百合さん?
 百合は思わず飛びついたのだが、電話の向こうから聞こえてきたのは果歩ではなく茂の声だった。
あ……ああ、茂くん。

ごめんなさい、果歩からかと思って……。

 そう言えば昨夜、茂に果歩のスマホを渡したのだったと思い出す。

 茂は電話帳に登録された百合の携帯ナンバー見つけて通話してきたのだろう。

すみません、期待させちゃって。

まだ果歩ちゃんとは合流できていないんですけど、百合さんのこと気になったんで……。

大丈夫ですか、今日は会社、行けます?

会社は……。

今日も休みとっちゃった。だから……。

具合悪いんですか?

なんか周りが騒がしいみたいですけど……。

今、家にいるんですか?

私、義兄さんに会いに行こうと思うの。
え……。
 電話の向こうで茂が息を飲むのが分かった。
百合さん!

 厳しい声。

 その声が威月の記憶に重なった。

 だが百合にとって、今はそんな感傷がわずらわしいものだとしか感じられない。

私……失った記憶を取り戻したいの。

果歩のことも、あなたのことも……。

 それだけを言って携帯の電源を切った。

 理解してもらうことなど不可能だろうと思った。だからいっそ、放っておいて欲しい。

 相手が茂だから……ではない。

 もし威月が10年前と同じ姿で現れたのだとしても、きっとこの気持ちは変わらなかったはずだ。

(今のままじゃ……私にとって威月もあのお伽話と同じだ)

 威月と関わった大間での記憶は多くの傷を百合に与えたかもしれない。

 だがそれでも……。

  百合という人間を形作ってきたのはその奪われた時間なのだ。

 そしてその傷の痛みさえも恋しいほど、あのころの百合は威月を必要としていたはずだった。

 ただの映像ではなく、お伽話ではなく。

 フラッシュバックするあの鮮やかな色彩でもない。

 百合が欲しいのは、あのとき捨ててしまいたいと思っていたもの。自らの内側に逆巻いていたどす黒い気持ちを実感する手応えだ。

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