【共幻社公式作品】ジャングルに虎がいる

4-05 手応え

エピソードの総文字数=3,880文字

 ホールの床はいたるところでリノリウムがはがれ、ぽっかりと口をあけたいくつもの穴に水がたまっていた。
…………うっ。

 手を差し入れてみると水はかなり冷たかった。

 ぬれた手を鼻先にかざしてみたが、さほど臭いはない。消毒薬の臭いもないから、やはり地下水なのかもしれなかった。

こんな状況じゃ、贅沢は言えねえな……。

このままでいるよりはマシだ。

 篤志は服を脱いで水に入った。深さは篤志の腰にまで届くほどだった。水の冷たさが肌に染みる。

 だが篤志は構わず両手で水をすくい上げてざばざばと頭から浴びた。シャンプーも石鹸もなかったし、こんな場所のたまり水がどの程度清潔なものかは分からなかったが、それでも汗やほこりを流せば、少しはすっきりするだろう。

(傷が、もう塞がってる?)
 服を脱いで初めてそのことに気づいた。小霧の操る水狐と戦ったときのものだ。

 すでにその色もできたばかりの傷跡の生々しさはなくなっているし、あの状況を考えればこんな小さな傷しか残っていないこと自体、納得の行く理由を見つけ出すことがむずかしかった。

(大間は妖怪に力を与える場だ――と、フクは言ってた。これもそういう現象のひとつなのか?)

 自分の存在を他人に弄ばれているなんて、不愉快だ。

 この廃墟に来て以来、ずっと篤志はそう感じ続けていた。だがそれも……今は必要なのかもしれない。

(果歩を守ってやるために……。そして俺と英司と果歩の3人が、無事にこの廃墟から脱出するために……)
 誰がそれを命じたのかは、今はもう篤志にとって意味のないことだ。
果歩を守ってやるために……か。
 反芻するように、篤志は小さく呟いた。

 その約束を交わした記憶は、今の篤志にはない。

 例えどれほど強く実感していても、10年前の光景を思い出すことはできないままだ。

 人間の記憶なんて不確かなもの――ただそれだけではないように、篤志には思えてならなかった。

(記憶を封じたいと願ったのは俺自身かもしれない。自分の弱さを認めきれずに……)

 お伽話の王子がジャングルに捨ててきた女のことを話せなかったのと、同じだ。

 王子は守りきれずに女を捨ててきたことを恥じていたのだと篤志には思える。

 ジャングルに虎がいるからだと偽りの理由を繰り返しながら、その言葉の影で虎に罪を転嫁しきれずに苦しみ続けていたのだと……。

(俺は、あの卑怯者と同じか……っ!)
 篤志は水から上がり、さっきまで着ていたシャツで濡れた身体を拭いた。

 タオルのような吸水は期待できるわけもなく、いくら拭いても肌は濡れたままだ。裸でいるわけにはいかないとまだ濡れた身体にジーンズだけは身につけたが、すっかり汚れて汗臭くなった上に水を吸ったシャツは袖を通す気分にはなれず、軽く絞って手近なソファに投げた。

果歩のところへ戻ってやらなきゃな……。

 だが、苦い思いが胃の底にわだかまっていた。どうしても行動に移ることができない。

(戻って、またあの寝顔を見下ろすのか。ただ指を咥えて眺めているしかできないのに……)
 そんなことにいつまでも堪えられるとは思えなかった。

 10年前、どんな気持ちであの寝顔を見下ろしていたのかは覚えていない。

 そして……10年経ってなお、果歩はまだ子供だ。


 そのことが、歯がゆくてならなかった。

 篤志はもうあのころと同じ子供ではないのだ。

■■■■■■■■■■■■■■■
………………。

 ソファに腰を下ろしたまま、少し眠ってしまったのかもしれない。篤志がふと目を開けたとき、間近に果歩の顔があった。

起きてたのか。
 そう声を発したとき、果歩の身体が怯えたように強張るのが見て取れた。
小霧……いない?

 果歩の手には、さっき小霧が置いていったチョコスナックの箱が握り締められている。

 少し震えた果歩の声は小霧に対する怯えのようにも感じられ、同時に小霧がいない場所で篤志と対峙することへの怯えであるようにも感じられた。

さあな。

 そのどちらに腹が立ったのかは自分でも判然としない。

 ただ果歩が小霧の名を口にしたことに苛立っただけ――かもしれない。

………………。
 果歩は困ったように周囲を見回した。

 その顔は、今にも泣き出しそうに頼りないものだ。

 果歩の白い首筋には、篤志が締め上げた手のひらの跡が、まだ痛々しく浮き上がっている。

(果歩を怯えさせているのは、小霧じゃない。俺だ――)

 分かっていても、認めたくない。

 そして次の瞬間、あの獰猛な鼓動が自分の頭蓋骨の奥深くで脈打つのを、篤志は感じた。

果歩……。

 立ち上がりながら果歩の腕をつかみ、引き寄せる。

え……?

 その篤志の突然の行動に、驚いたように目を見開いたまま、果歩は篤志の胸に顔をぶつけるように足元をふらつかせた。

 冷え切った篤志の肌の感触が頬に伝わる。その冷たさにたじろいで、果歩は一瞬身動きが取れなかった。

 逃げたい。

 しがみつきたい。

 相反するふたつの思いが果歩の中で同時に生まれ、絡み合っている。

まだ、痛むか?
 そう言いながら、篤志の指が果歩の首筋に触れた。
う……ううん、痛くな……。
 言いかけて果歩は言葉を詰まらせた。

 篤志が身をかがめ、果歩の首筋に唇を押し当てたからだ。

(10年前の俺は、果歩を女として手に入れる手段があるなんて、思いつきもしなかった。そんなこと思いつきもしないほど、俺はまだがきだった――)

(だから果歩を殺して、二度とあいつのもとへ行くことができないようにすることしかできなかった。例え果歩が泣いても――)

 それでもいいと思ったのかもしれない。

(泣きながらあいつの名を呼んだとしても、その声はすぐに埋もれていく。王の都を沈めた、あの沈黙の砂の下に埋もれて消えていくから……)

俺の女になれ、果歩。
 性的な衝動とは別の……もっと強い気持ちがその言葉を形作っていた。
…………。

 それは押し殺したような低い声だったのに、まるで恫喝のように聞こえて身がすくんだ。果歩は身体を支える筋肉が弛緩して、真っ白な闇が意識を侵食しはじめているのを感じ取っていた。

 篤志が何を要求しているのか、まったく分からなかったわけではない。

 だがそれでもまだ果歩には、自分がどうすればいいのか分からなかった。

(くそっ、こんなことをしたって、怯えさせるだけだ)

 それは分かっている。

 応える術などないほどに、果歩はまだ子供だってことも。

 そしてまだ〈女〉と呼ぶのも躊躇うような年齢の果歩を、本気で抱けるとも思えなかった。性的な目で見ることを考えるだけで罪悪感がこみ上げてくる。

(おまえにはできるのか、英司? 10年前じゃなく今、怯えている果歩を、何の手応えも求めずに抱きしめてやることが……)

 だが篤志には今もう一度、犬を抱くような心地で果歩を抱きしめてやることはできなかった。震えているその小さな身体に、誰の指も触れさせたくない。
あいつには……渡さない。

 耳元でもらされたその言葉に、果歩はずきりと胸の奥が痛むのを感じた。

 どうすればいいのか、分からない。だが篤志の言う「あいつ」が誰のことなのかは……分かったような気がする。

(ジャングルのほらあなでも、あっちゃんは同じことを言ってた……)

 10年前、母親に呼ばれてソファの下から飛び出していく英司を見送りながら、篤志が同じようにその言葉をもらした記憶。その光景が鮮やかな映像のように果歩の意識に飛び込んでくる。

 リノリウムの床の冷たい感触を頬に感じながら、ソファの下からのぞくわずかな視界に幻のジャングルが見えていた。

 それが果歩の世界のすべてだった。

 父の存在も、母の存在も、その世界では印象という色彩を帯びてはいなかった。

 ただそこにジャングルがあった。

 ほらあなの中で虎が眠るのを待ちながら篤志と英司に両側から抱きしめられているその感触が、果歩にとって自らの存在を感じ取るたったひとつの手段だった。

(お父さんとあっちゃんなら……迷わずあっちゃんを選んだ)

 ジャングルの幻に、緑の目の女が立っていた。

 あれはお伽話の光景ではなかったのだ。

 今なら果歩にもそのことが分かる。

 だがあのころ果歩は、彼女こそが〈お伽話の女〉なのだと思っていた。

(でも……あっちゃんと英司なら、どっちを選ぶんだろう)
 あのころも果歩は、あの女が虎に食われる運命であることを知っていた。
『虎は人間を食べる。頭からばりばり音を立てて、どんな強いやつだって食べちゃうんだ。でも、全部食べると、眠くなって昼寝をする。そうしたら逃げられるよ。だからここで待っていよう。虎が寝たら家へ帰れるから……』
(選べないよ。それに……選びたいんじゃない)
 あのころからずっと、果歩は女が食われる瞬間を待ち続けていた。

 だがそれは、家に帰りたかったからじゃない。同じように自分が食われる瞬間が来ることを知っていたからだ。

 虎に……なのか、それとももっと別の何かにか。

 それは今もわからないままだったけれど。

(選ぶんじゃなく、選ばれたかった。連れて行って欲しかった)
(あっちゃんが言ってるのはそういうこと? どこかへ……連れて行ってくれる?)

 激情に任せて奪い尽くされ、食い尽くされる瞬間を、もしかしたら待っていたのかもしれない。巨大な牙に縁取られた顎が肉を引き裂き、骨を砕いて内臓を引きずり出すその途方のない痛みに勝る何かしらの手応えがそこにあるはずだと淡い期待を抱いてさえいたのかも……。

 ただすがりつくだけでなく切望されたい。

 そう自覚できる、より強い手応えが欲しかった。

 あの時も。



 そして今この瞬間も……。

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