雨男 ~嘆きの谷と、祝福の~

淫雨-4 病は癒え、熱に浮かされた夢もまた

エピソードの総文字数=1,887文字

 虹子の部屋は、シンクから窓のサッシまで、ぴかぴかになった。
 もちろん、掃除のプロだからといって、プレイべートでも掃除にまめとは限らない――むしろ逆のケースが多そうだ――と思うのだが、(しゅう)は家でも掃除魔だった。
「だから、俺にとってかびは天敵(てんてき)なの。ヤツら、油断(ゆだん)(すき)もないからね」
 毎年、毎日、昼も夜も雨のなかにいるせいか、驟は清潔に人一倍こだわった。北綾瀬のアパートで、押し入れから出されたシュラフにも、かび臭さは微塵(みじん)もなかったくらいだ。それどころか、シュラフは(ほの)かにミントの香りがし、あ、驟の匂いだ、と虹子は喜んだものだった。
 けれども、盆を迎えるころになると、虹子はすでに知っていた。
 そのミントに似た香り――驟自身や彼の持ち物から、いつも漂っている――は、驟が掃除に使っている洗剤や、衣類や持ち物に吹きかけている除菌スプレーのためであると。
 つまり、全然、ロマンチックじゃないということを。

   ***

 明日から盆休みという連休前夜、虹子は突然、思い立った。
「地下街へ行こう!」
 風呂から出るなりそう言うと、リビングのローテーブルで、いつものとおり聖書を読んでいた驟は、未知の言語にでも触れたような――なにを言われているのか、さっぱり理解できないという――表情で、顔を上げた。
 虹子は湯上がりに、ピンク色のタオル地のショートパンツと、同素材の二分(にぶ)(そで)のカットソーを身につけている。驟は変わらず、Tシャツにカーゴパンツだ。
「だって、青山通りではじめて会った日、驟が地下から出てきたら、そのとたんに雨が降ったよね?」
 ああ、と小さく(うなず)き、驟はようやく話の筋がつかめたようだった。

 盆休みは、ローテーション的に山手で過ごすことになっている。
 休みの間じゅう、驟とふたりで部屋にこもり、〝寝正月ならぬ寝盆〟にするのも悪くないと、はじめは思っていた。
 しかし、そうすると、この周囲はずっと雨になってしまう。
 なんだかなあ――今日になって、風呂の湯につかりながら、虹子はどうにもぱっとしない気分になった。そして、はたと気がついたのだ。
 もしも虹子の推測どおり、驟が地下にいる間は、地上の天候に〝雨男〟が影響しないのなら、策はあるんじゃないか、と。
 連休中、昼は地下街へ遊びに行けばいいのだ。

 幸い、横浜駅にはポルタとジョイナス(旧ダイヤモンドを含む)という二大地下街があり、さらに、近年新しく、フードエリアのダイヤキッチンも誕生した。
「ダイヤキッチンのスイーツを、片っぱしから制覇(せいは)してみたかったの!」
 盛り上がる虹子と対照的に、驟は浮かない態度だった。虹子はバスタオルで髪を拭きながら、隣に座り、驟の顔をのぞきこむ。
「どうしたの? 行きたくない?」
「いや……確かに、俺が地下にいれば雨は降らないようなんだけど。でも俺、毎日街で遊ぶほど、金、持ってないからね」
「なんだあ、いいよ、そんなの。まかせなさい!」
 虹子は陽気に胸をたたいた。けれども驟は、冴えない顔で、曖昧(あいまい)にほほ笑んだだけだった。

 驟は金がないのを口実にしながら、ほんとうは、〝街で遊ぶこと〟そのものに興味を持っていなかったのかもしれない。
 また、虹子のほうも、まだミイラ病の最中で、顔は悲惨だったから、わざわざ人混みへ出かけようなどと、本来なら思いつきもしない方向で気分が盛り上がるなんて、あり得ないことだった。
 なんだか、おかしい。
 ヘンなほうに、気持ちも、事態も流れている?
 そんな、かすかな違和感を覚えつつ、しかしふたりは8月11日の山の日から、15日までの5日間、毎日、横浜駅の地下街へ繰り出した。なかば義務、なかば意地であるかのような、なんだか変なテンションだった。
 基本はウインドーショッピングをして、たまには買ったり(虹子は驟に、ブランドものの〝かわいい〟下着をプレゼントしたりした)、食べたり、お茶したり。
 精いっぱい、楽しいふりをして。

   ***

 8月も終わりに近づくと、だんだん顔が治り始めた。
 今年のミイラ病も、早2カ月が経とうとし、だんだんゴールに近づいている。
 その月日は、そっくりそのまま、驟と出会って一緒に過ごした月日に等しかった。
 虹子は、自分の顔の、白くかたく浮き上がった皮膚の下で、健康な肌が培われてきているのを感じていた。
 ひそやかに、〝夢から()めろ〟とささやきかけてくるように。

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