【共幻社公式作品】ジャングルに虎がいる

3-10 真実の姿

エピソードの総文字数=3,021文字

 炎の熱に炙られていた肌に、今は心地よい穏やかな風があたっていた。ビルの崩れて行くあの轟音も、もう聞こえない。燃え残った炎がくすぶるわずかな音がずっと遠くで聞こえているだけで、それはむしろ耳をくすぐる柔らかな音でさえあった。

 だがぼんやりと目を開けた時、果歩の目の前にあったのは……焼けただれ、崩壊し尽くされた悪夢の続きの光景だった。

 果歩の身体を支えるように、篤志の腕がある。力を失った腕が息苦しいほどに重く果歩の上にのしかかっていた。

 床は大きく傾いて巨大な地中の穴の暗がりへ落ちこみ、途切れている。そのちょうど中ほどに果歩と篤志は取り残されていた。

あっちゃん……。

 呼びかけてみたが、反応はなかった。ただ荒い息が苦しげに繰り返されているだけだ。

 わずかに果歩が身体を動かしただけで床は大きく揺れ、篤志の身体ごと、引きずられるように果歩もその斜面を2メートル近く滑り落ちた。

……!

 巨大な暗がりが、もう足元にまで迫ってきているように思えた。

 崩れかかった床のわずかな窪みに取りすがるように指をかけてなんとか落下を食い止めることはできたが、それは落下するまでの間に感じる恐怖と苦痛を、ほんのわずかだけ引き伸ばす行為に過ぎなかった。

 床の窪みは小さなもので、果歩の右手の人差し指と中指、そして薬指の半分がどうにか第一関節まで収まる程度のものだった。

 その3本の指で……果歩は自分の身体だけでなく、自分よりずっと大きな篤志の身体を支えているのだ。

 斜面はさほど急なものではなかったし、動きさえしなければずり落ちて行く速度も感じ取ることができるかできないかという微妙なものだった。だがそれでも、すぐに果歩の指には悲鳴を上げたくなるような痛みが襲いかかった。

 硬直した関節が震え、ちっぽけな窪みをとらえきれない。

 力を入れようとすればざらつくコンクリートの感触が、否応なく指先の皮膚をすりむき、爪を剥ごうとする。全身を濡らす脂汗が、指先にも容赦なく滲み出して手応えをさらに不確かなものにしていた。

あっちゃん、ねえ、起きて!

起きてってば!

 声はもう泣き声になっていた。

 あと数秒、この無理な体勢を保つことはできるのかもしれない。

 だが、それがなんだろう?

 どうせあの暗がりに落ちていくことに変わりはないのだ。篤志が目を覚ましたとしたって、この揺れる傾いた床を上っていくことなどできないだろう。

 果歩は怖くて堪らなかった。

 たったひとりで篤志の生命まで抱え込んだままあの暗がりに落ちて、焼け爛れた穴の底に叩きつけられて死ぬのなんて……怖すぎる。

お願いだから起きて……。

ねえっ!

 恐怖で全身の筋肉が萎縮していた。

 必死に叫んでいるつもりなのにその声は、か細い、かすれきったうめき声にしかならなかった。

 そして篤志は……ただ荒い息を繰り返すだけだった。

 もう果歩の指先には感触がなかった。

 痛みさえも感じない。自分の指とも思えない指が、震えながら次第に力なく窪みから離れて行く感触が伝わってきただけだ。

 必死に何かを掴もうとしたが、その指先は滑り落ちて行く斜面に空しく爪を立てただけだった。そして、止まった。まだわずかに、床の先端までは距離がある。

 じりじりと縮んでいくその距離が、長いのか短いのかもう果歩には分からなかった。

 いずれ落ちるなら……いっそ、今、一気に落ちてしまった方が楽なのだろうか。

 ふと顔を上げた時、果歩は床の斜面のずっと上の方でまだ燃え残っている炎を見つけた。

(ピーちゃん……)

 それはもはや床を舐めるように這う小さな炎だった。

 だが果歩の呼びかけに答えるようにその炎が揺らめいた。ゆっくりと身体をもたげるように膨れ上がりながら、炎が虎の姿を形作って行く。

 果歩がその姿を目にするのは初めてのことだった。これまではいつも、果歩は王牙の炎の中心にいて、その全貌を目にすることはなかった。

(ホントに……虎なんだね、ピーちゃん)

 王牙は完全に虎の姿を形作るとしっかりとした足取りで斜面を下ってきた。

 床にすがりつく果歩の方へ歩み寄り、炎の瞳で見下ろしている。

ピーちゃん……助けて。
 果歩の唇からきれぎれに震えながらその言葉が絞り出された。
ずっと一緒に、ピーちゃんと行くから……。

ピーちゃんがあのジャングルに帰れるまで、ずっと一緒に戦うから……。

 果歩は必死に床を掴もうともがいていた血まみれの手の一方を、王牙の方へ差し出した。

 炎が触れた瞬間、激しい痛みが身体を貫くように走った。

 指先から身体の中に巨大な灼熱の塊が押し入ってきて、果歩の身体を内側から焦がして行く。篤志に首を絞められた時に見たのと同じ、赤い視界の光景が鮮やかにひらけていく。

 見えたのは砂に埋もれた荒野だ。

 砂に埋もれた世界に……ひとりの女が寄る辺なく立ちすくんでいる、終末の光景。

あ……。
 激痛に耐えかねて、身体が撥ねるように痙攣した。
果歩……?
 篤志が薄く目を開き、果歩の方を見たのはその時だった。
ごめんね、あっちゃん。

 篤志の耳元で、ささやくように果歩の声が発せられた。

 腕の中の果歩の変化に、篤志は目を奪われた。あの時と同じように額に浮き出した赤い幾何学模様。そして細い髪が真っ白に変わって篤志の腕を撫でながら伸びて行く。

果歩……。

 篤志は息を飲んだ。

 それが〈果歩〉という殻に隠されていたもうひとりの果歩の、真実の姿なのだと悟る。同時に篤志は、その果歩の姿が偶然とは言いきれないほどに威月に似ていることの意味にも気づいていた。

ごめん。

もう、支えきれない……。

 果歩の身体から……すぅっと力が抜けていく。

 支えを失って斜面をずり落ちながらはじめて、篤志は自分と果歩の置かれた絶体絶命の状況を理解した。

ば……。

馬鹿野郎!

 そう怒鳴りながら篤志は果歩を抱えている腕に力を込めた。

 残る手で慌ただしく手がかりを探す。だが掴まれるようなものは何もなかった。滑り落ちて行く勢いは止まらない。

くそ、ダメか……!

 ぱっくりと口を開けている暗がりに、なす術もなく落下していく。

 わずかな浮遊感。

 そして次の瞬間、氷の床を突き破るような感触を味わった。冷たい水が篤志と果歩を包みこみ、沈めて行く。

 吐息がごぼごぼと顔を撫でるようにあぶくになって上昇して行くのを見て、篤志は穴の底にたまった水に落ちたのだと気づいた。幸いにも深さは十分にあり、落下の衝撃を和らげてくれたようだった。

(死ぬなよ……果歩)

 果歩の身体は力を失っていた。

 生死を確認する余裕はない。

 篤志もまた鉛を詰め込んだように重く感じる手足に必死に力を込めて水を掻いた。光る水面が……どこまでも遠いものに感じられる。

 もともと泳ぐような心の準備なんかしてはいなかった。

 篤志の口中に残っていた酸素はあっという間に吐き尽くし、代わりに水がごぼごぼと音を立てて流れ込んでくる。

 もう意識を保っていることさえ難しかった。

 そして意識が途切れそうになった瞬間、自分を包み込む水が渦を巻いて流れ始めるのを感じた。

 水位が急激に下がり、剥き出しのコンクリートの上に投げ出された篤志は、もはや身体を動かす気力もなくそのままぐったりと倒れていた。


 その篤志の頭上で、誰かがくすくすと笑っていた。

 かすかに頭を動かして見上げる。意識が薄れぼやけていく視界に、篤志は人懐っこい笑顔で自分を見下ろしている小霧の姿を見た。

一生恩に着ろよ、篤志。

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