【共幻社公式作品】ジャングルに虎がいる

4-12 喰い尽くされる女

エピソードの総文字数=3,927文字

何をしてるんです、百合!

 威月の鋭い声が、身体を震わせるように響いた。

 力強い腕が百合を抱きかかえ、極彩色の羽根が百合を包み込むように広がる。

(威月……)

 一瞬、すべての恐怖が百合の意識から消えた。

 思い出すことができなかったはずの手応えが、肌に鮮やかに蘇ってくるのを感じる。10年前、大間団地を焼く炎の中から、百合を救い出してくれたのは……この威月の手だった。炎の虎がすべてを食い尽くす光景を俯瞰して、あの時百合は威月の腕に抱かれていた。

 鮮やかな羽根の色がまるで姉の鳥かごから飛び立っていった鳥たちの羽根みたいだと、炎を見下ろしながら感じていたのだ。

 だが鮮やかな色彩が百合の視界を彩ったのはほんの一瞬のことだった。

 百合の身体を支えてドクターと対峙したのは、威月ではなく福島茂だったからだ。

彼女に手出しはさせませんよ。
おやおや、千客万来だね。

 ドクターはそう言って口元に笑みを浮かべた。

 それがさも愉快な光景だと言うように茂を見下ろす。その表情は勝ち目のない勝負に挑もうとしている茂を嘲笑しているようでもあった。

人間の女にそこまで入れ込むなんて、君らしくないじゃないか、威月。
………………。

 ドクターに言われるまでもないことだった。

 今や福島茂という人間の身体でしか行動することができない威月にとって、大間でならともかく、こんな場所でドクターとやりあうのは無謀な試みだった。

 ドクターは威月と同じく炎の使い手であり、炎による攻撃に強い耐性を持っている。そしてその妖力は、威月とは比べ物にならないほど強大なものだ。

 しかも百合を探し出し、本来の姿で飛翔したために……激しい疲労が茂を襲っている。

 山岸を吹き飛ばしたときと同じように、ドクターの手が茂の前にかざされた。

 わずかに触れさせるだけで、その指先は十分過ぎるダメージを茂に与えることができるだろう。

(やられる……!)

 茂もそれを覚悟せずにはいられなかった。

 百合を連れてもう一度飛翔するだけの力は、茂には残ってはいなかった。

意外だね、彼女を盾にするつもりかと思ったのに。

 せせら笑う声。

 ドクターは茂に触れる直前でその手を止めていた。

以前の君なら私と同じように、何の感情もなくその女を捨てたはずだ。

違うかい? 威月。

自分の生命を危険にさらすほどの価値を何の力もないこの女に見出していたはずはない。

――君はただ自分の思い通りになる玩具が欲しかっただけだ。

残念ながら、あなたと同じ趣味は持ち合わせていませんよ。

 茂の口から発せられたその言葉が不満だと言うようにドクターは口元をゆがめた。

 茂にぎりぎりまで顔を近づけ、その目をのぞきこむ。そこにわずかでも気弱な色が浮かぶのをドクターは見たがっていた。助けてくれと哀願してみろ。女を盾に生命乞いをすることでもいい。

 だが茂の目は動かなかった。

 勝てる見込みなど、万に一つもあるわけはない。

 そう分かっているずなのに、瞬きもせずにドクターを睨み据えて、微動だにしない。

ふ……っ。

 ドクターの口元から小さく息が漏れた。

君をここで殺しては後々の楽しみがフイになる。

決着は大間でつけよう。

君だってあのゲームの結末を見ずに死ぬのは心残りだろう? 威月。

 その言葉が終わるのと同時に、爆発的な炎がドクターを包んだ。

 燃え上がる火柱はあっという間に床を這い、壁を伝って天井へと伸びていく。

お義兄さん……どうして……?!

 百合は呆然とその炎を見つめて言葉を漏らした。

 床に散り敷いていた無数の羽根が熱風に煽られて舞い上がり、発火する。

 いくら目を凝らしても火柱の中にもう義兄の姿を認めることはできなかった。ただ炎の中でつぎつぎに燃え尽きていく中に、横たわっている姉の身体を見たような気がする。

百合さん、早く!


 倒れている山岸の身体を引きずり上げ、百合の手を引いて茂が叫んだ。

 だが百合は炎を見つめて凍りついたように立ち尽くしている。

お姉ちゃん……。

 つかまれた腕を、百合は力いっぱい振り払った。

 炎が、早く自分を飲み込んでしまえばいい。炎の中でまるで紙きれのように燃え上がる姉の姿を見つめて、百合はそう思っていた。自分もまた同じように紙きれのように燃えて消えていくのだろう……と。

 夢から覚めて現実の自分を直視する前に、すべてが焼き尽くされてしまえばいい。

『果歩がいないの。あの子……部屋で寝ていたはずなのに!』

 10年前に聞いた姉の断末魔の悲鳴が、もう一度耳の奥で繰り返される。

 その悲鳴に隠された姉の気持ちを、今ようやく理解できたような気がする。

(果歩がいなくなったら捨てられると思ってたの? お姉ちゃん。だからあんなこと言い出した?)

 威月と関係を重ねるうちに、自分の身体に起きた変化を、百合は誰にも言い出すことができなかった。

 だが果歩が死んだと告げられたあの朝、姉は百合の妊娠を知っていたのだと言っていた。

 その記憶が、苦く百合の内側に蘇ってくる。

あなたの赤ちゃんをちょうだい

ね? そうすれば……何もかも手くいくわ。

知ってるのよ、私。あなたがどうしてここへ来るのか、その理由を

あなたは要らないんでしょう?

困っているんじゃないの?

消えてしまえばいいって思っているんでしょう?

だったらその赤ちゃん、私にちょうだい

こわくなんかないわ。全部夢の中のことだと思えばいいの。

あの人が、全部うまくやってくれる。

あなただって……すぐに忘れてしまうわ。

赤ちゃんのことも、あんな男の子のことも、何もかも!

 怯えて泣いている百合にとりすがっていた姉の、狂気じみた絶叫。それが耳の奥で鼓膜を引き裂く大音響となって繰り返している。
(あんな言葉に……どうして頷いてしまったんだろう)

 果歩が生まれる前、鳥かごからつぎつぎに可愛がっていた鳥たちを放していった時以来、百合は姉が壊れていくのをずっと見つめ続けていた。

 あんなに赤ん坊を欲しがっていたくせに、その世話さえままならないほどに姉は壊れていった。

 そのことがこわくてたまらなかったのは事実だ。

 理由が姉を案じる気持ちとはまったく別のところにあったとしても……。

(赤ちゃんを上げれば、お姉ちゃんはもとに戻れるかもしれない。お姉ちゃんを助けて挙げられる……)

 あの時姉の言葉に頷きながら百合は言い訳のように考えていた。

 その瞬間にも、姉の言葉通り赤ん坊が消えてしまえばいいと思い続ける自分の気持ちから目を逸らそうと必死だったのだ。

(威月には……助けてなんて言えない)

 その生々しい感情が、記憶とともに溢れ返って百合の胸を詰まらせていた。

 あのころ、百合は現実から逃避できる場所を求めていた。

 家庭にも学校にも閉塞感を抱いて何もかも投げ出してしまいたかった。老いていく父。壊れていく姉。やがて彼らの庇護を失うときが来る手応えを日に日に強く感じていた頃……。

 威月と会ったのはそんなときだった。

 現実から切り離されて、自分の存在のすべてを委ねてしまえる相手。ずっと百合は、そんな相手を切望していたのかもしれない。

 その威月との関係が、自分ではどうすることもできない現実の問題をつきつけてくるなんて考えたこともなかった。

(そんなことしたら、きっと……捨てられる)

百合さんっ!

 もはや怒号ともとれる声が再び発せられ、百合は顔を上げた。

 振りほどいたはずの茂の手が、今も痛いほど腕を掴んでいるその感触をじわりと認識する。

どうして……?
百合さん、急いで!

 強引に引きずられて炎から逃れた瞬間も、百合には何もかもが遠く感じられた。

 炎も、茂の声も。

 何もかもが夢の中で聞いたお伽話の一場面のように現実感を失っている。

……連れて行ってくれなかったのに、何で今さら助けるの?

何もかも手遅れなのに、今さら優しくなんてしないで!

 茂の手にしがみついたまま、百合は小さく嗚咽を漏らした。

 同じ言葉を、10年前この腕に抱かれて大間を焼く炎を見下ろして叫んでいた。

 そしてあのときにも威月は、百合の言葉の真意をわからずに困ったように見つめていた。今、茂が同じ目で百合を見つめているように……。

………………。
 あの時も今も、彼は百合の怯えには気づいていないのだとようやく百合は悟った。

 妊娠を告げたら父はなんと言うだろう?

 そして、威月は?

 そんなことに百合が怯えていたことを、威月は知らなかっただろう。

 威月だって何もかもを悟りきっていたわけじゃない。百合がずっと隷属しながら切望していたほどに超越した存在だったわけではないのだ。

 百合が何を望んでいたかも、威月は本当は何ひとつ知らなかったのかもしれない。

 関係を重ねながらあのお伽話のジャングルへ連れて行ってくれるを百合がずっと待っていたことも……。

(威月なら……それができると思ったから……)

 現実とは切り離された場所。

 父も姉もいない。

 誰も自分を責めることのない場所へ威月なら連れて行ってくれる……と。

あの女のように捨てられる運命だったとしても、良かったのに……。
百合さん……?
あとは虎に喰われる道しか残されていなかったとしても、むしろ好都合だって思ってた。そうなれば……。

 そうなれば、百合が自分で選ぶ必要なんかない。

 何もかも虎が始末をつけてくれる。

 喰われていく百合を責める者はいない。そこにいるのは子供を産むこともできず男に捨てられて喰われていく名前もない、ただの可哀想な女なのだから。

(あの巨大な牙に切り裂かれて生きながら喰われることになっても、それでもいい。だってそれがどんなにこわくて、痛くて、苦しくても……私が悪い子だからじゃない。私のせいじゃない)
――ジャングルに虎がいるからよ。

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