ままならぬ日々

唯一の狂っていない人間

エピソードの総文字数=1,143文字

 ソファに座ってぼーっとしていると、リビングの掃き出し窓を開けて見知らぬ女が入ってきた。
あなたのお姉ちゃんよ
 女は中年の域に片足を突っ込んでいるように見える。私からすれば、姉というより母親だ。
……お姉ちゃん、久しぶり 
 そう答えなければいけない気がしたので、そう答えた。見知らぬ女は歩み寄ってきた。
あなたは私の妹よ
言われなくても分かっているわ。私はお姉ちゃんの妹よ
……本当に私の妹なの?
うん、そうよ。本当に妹よ
それは大変なことになったわ。だって、だって――
 女は懐中からバタフライナイフを取り出し、切っ先を自らの首に宛がう。
あなたは狂っているから、あなたの姉である私は、責任を取って死ななくちゃいけない
 刃が真横に動いた。鮮血が迸り、見知らぬ女は床に倒れた。体が小刻みに痙攣している。

 私はソファから立ち上がる。痙攣が収まったのを確認し、女の足首を掴む。

……片付けないと
 女を引きずりながら冷蔵庫まで移動し、ドアを開ける。中は人の死体で満杯だった。高齢の男女。
(この家の住人、だろうか)

 女から手を離し、家を出る。


 門を潜って道に出ると、すぐ近くにタクシーが停まっていた。後部座席のドアが開く。乗り込む。ドアが閉まる。走り出す。


 ……カーラジオから若い女の声が聞こえてくる。

んっ、あ、あっ、あん、いや、やだ、だめ、ああ、あんっ……
……あなたは狂っている
 吐き捨てるように呟く。バックミラー越しに運転手と目が合った。
お客さんこそ、狂っているじゃないですか
 笑いを含んだ声。私はあからさまに眉をひそめてみせた。狂っていると言われたことが不愉快だったから、そうしたのではない。
そんなことは誰にだって分かるわ。行き先、訊かないの?
大体の方向ならば、言われなくても分かるので
……あなたは狂っている
そうでしょうか
そうよ。この世に存在する人間、みんな狂っているの
みんなが狂っているのなら、狂っている人間は一人もいない、ということになりませんか
ううん、それは違う。みんな狂っているんだけど、この世にはたった一人、狂っていない人間がいて、その人間を基準にして考えた場合、みんな狂っている、ということが私は言いたいの
 自分で言っておきながら、自分で驚いてしまう。
(この世にたった一人、狂っていない人間がいる? そんなこと、今までに一度たりとも考えたことがなかったのに……)
つまり、その唯一の存在のもとにお客さんは行きたい、と
 笑いを含んでいない、恐ろしいまでに静かな声だった。「そうよ」と答えようとしたが、どういうわけか涙が込み上げてきて、その一言を口にすることは叶わなかった。


 運転手はもう話しかけてこない。タクシーは走行を続けている。カーラジオから聞こえてくる女の喘ぎ声は、いつになったらやむのだろう。

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