AAΛY みんなあなたに祈ってる。

◆02今日まで私はドレイだった-Ⅰ ミリアム

エピソードの総文字数=2,251文字

「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうりこめ」と、ファラオが命じた。
 あたしたち、エジプトに暮らすヘブライ人の赤ん坊に限っての話。
 この国では、あたしたちは生まれたときからドレイとして扱われる。いや、〝生まれる前から〟と言ったほうが正しい。それは、決まっていることだから。
 そう、あたしはドレイだ。だれが決めたの? ファラオが? ラーが? まさか、あなたがお決めになったんですか。
 ドレイ。奴隷。隷属(れいぞく)する(やつ)と書く。まったく、どうしてそんなことになってしまったんだろうか。

 この地の夏は、猛烈(もうれつ)に暑い。そして、乾いている。
 白茶けた土は干からびてかたく引き締まり、莫迦(ばか)みたいに濃い青空にのしかかられて窒息しているように見える。その上を、ときどき土埃(つちぼこり)が塊と化して走り抜け、汗まみれの肌にはりついてきて気持ち悪い。
 エジプト人は太陽神をラーと呼んであがめているけど、あたしは太陽の光を喜ぶ気になんかとてもなれない。あれはただ、痛いだけ。一日じゅう、粘土をこねたり、煉瓦(レンガ)を焼いたり、あらゆる農作業に従事したりの重労働を強いられているドレイにとって、夏の日射しは暴力以外のなんでもない。
 加えて、男子を絶てと言う。
「それって、あたしたちに滅びろってことでしょ」
 シッ。
 サドルカーンで小麦をすりつぶしていたあたしの声が思わず高くなったので、横にいた母がくちびるに人差し指を押し当てた。ちなみにサドルカーンっていうのは人力の石臼みたいなもの。平たい石に小麦の粒を盛り、その上に小さな石をのせて両手で押さえて体重をかけ、前後に動かしながらすりつぶす。
 あたしがうなずくと母は手をくちびるからおなかに移し、いまにもはち切れそうにふくらんだ大きなまるみを優しくさする。
「今度の新しいファラオは、直接ヨセフを知らないから」
「ヨセフって、あたしたちの先祖の?」
 二人とも、ひそひそ声だ。
「そう。ヨセフの時代は、ヘブライ人は、歓迎されていたのにね」
 すでに臨月(りんげつ)を迎えている母は、小刻みに息継ぎしながらようやくしゃべり、最後は投げやりに嘆息(たんそく)した。その話はエジプトにいるヘブライ人なら誰でも知っていて、もちろんあたしも、もう知っている。あたしたち民族の歴史だ。

 始祖は、あなたから〝祝福〟を与えられたというアブラハム。アブラハムは、それまで住んでいたハランから、あなたとの約束の地であるカナンへ――ハランもカナンも、あたしはまだ行ったことがないけれど――一族を連れて移り住んだ。
 そのアブラハムの子のイサクの子のヤコブの子のヨセフは、カナンから(なんと実の兄弟の陰謀で!)ドレイとして売られてエジプトに来た。けれどもヨセフはこの地で素晴らしい働きを見せて時のファラオに重用され、宰相(さいしょう)にまで出世した。
 おかげでヘブライ人は歓迎され、エジプトで子孫を増やしてこられたというわけ。
 それなのに、今度は増えすぎたためドレイにされた。
 エジプト人にとって脅威だからだ。
 一方で、虐待(ぎゃくたい)されればされるほど、あたしたちは増え広がった。
 そこでますます嫌われた。
 大人たちはそう語る。
 でも、ちょっと待って。それ、おかしくないですか? とあたしは言いたい。なにがどうおかしいのか、うまくは言えないけれど。

「ねえ、母さん」
 大事そうにおなかを抱えている母は、まるで卵を抱いた親鳥だ。
「妹だといいね」
 母は複雑な笑みを浮かべてうつむいた。もし生まれてくるのが弟だったら、ナイル川にほうりこまれ、殺されてしまうのだろうか。誰に? その場合、誰が赤ん坊をナイル川にほうりこむの。
 鳥肌が立ち、あたしは小麦をつぶす手に力をこめた。
 ドレイの子だから殺される。
 女だったら生きてもよくて、男だったら殺される。
 それっておかしくないですか? あたしはあなたに祈り続けた。
 そんなひどいこと、どうしてあなたはお許しになるの。
 死ぬってどういうことなのか、あたしにはまだわからない。
 あなたのもとへ行くってこと? 想像もできない。
 ナイル川で(おぼ)れるのは、ものすごく苦しそうだ。
 水の中で、ずっと、ずっと息が吸えないで、誰にも助けてもらえなくて、不安で、怖くて、泣きたくて、出口がどこにもなくて、暗くて。そんなの苦しいに決まってる。

 突然、産声(うぶごえ)が聞こえた。
 きっと三軒向こうの家からだ。この辺りはみんなヘブライ人のドレイの家で、三軒向こうには顔見知りの、母と同じくらいおなかの大きな奥さんがいた。
 赤ちゃんは元気よく泣いている。
 どこも日干し煉瓦を積み上げただけの家だから、互いの音は筒抜けだ。大人たちが喜ぶ声もいくらか聞こえた。何を言っているかまではわからない。しかし、やがて大人たちのささやきが悲しい響きを帯びてきて、あたしは憂鬱(ゆううつ)な気分になった。
 世界の憂いを吹き飛ばさんと、赤ちゃんは存在を主張して泣きわめく。命の限り、力の限り、自分をふりしぼっている感じ。まさに無敵だ。
 (はり)のかわりにパピルスの茎を渡してヤシの葉をのせた天井の隙間(すきま)や、ぼろ布を垂らしただけの吹き抜けの窓から、赤ちゃんの声と一緒に元気の粒が飛んできて、あたしの体にばちばちと当たって散っていく。
 母は目をつむって聞いていた。

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