【共幻社公式作品】ジャングルに虎がいる

3-14 なす術なく

エピソードの総文字数=3,241文字

 クリニックビル1階のホール。

 すでに原型をとどめているのは床だけだった。天井も壁もほとんどが崩れてしまっている。残された床もペパーミントグリーンのリノリウムが見えているのはほんの一部だけだ。降り注いできた瓦礫がいたるところに散らばり、半ば水に沈んでいる。

 篤志はその瓦礫の上に倒れていた。

 おそらく果歩を瓦礫の上に引きずり上げたところで力尽きたのだろう。自分は身体半分が水に浸かった姿勢のまま、死んだように眠っている。

………………。

 その篤志を見下ろし、それから果歩はゆっくりと周囲を見渡した。

 周囲は静まり返っていた。

 もう炎もすっかり消え、暗がりが沈黙に包まれている。

 地上まで通じる穴からかすかに光がさしこんでいるほかは、周囲には灯りは何もなかった。 

 そのかすかな光の中で、果歩は額から払っても払っても落ちてくる自分の髪が、真っ白に光って驚くほど長く伸びていることに気づいた。

 ふと指で触れた時、果歩は自分の額に刻まれた目の形の文様を、目で見た映像のように感じ取った。新宿の喫茶店から〈落下〉したとき、その底に見た男の白い髪、額の赤い文様の記憶とその映像とはぴったりと重なりあうものだった。

 ほんのかすかにだが、ホールのどこかに何者かの動く気配を感じたのはその時だった。

あっちゃん……。

 少し怖くなって、果歩は篤志の名を呼んだ。

 だが、その呼びかけにも篤志はほとんど反応しなかった。ほんの一瞬、眉がこわばってまぶたが少し震えただけだ。

 果歩は立ち上がった。

 吸い寄せられるように壁際へと進む。

 そこにはまだ、あの虎の絵が残されていた。

 天井も落ち、周囲の壁もすっかり崩れているのに……その絵の周囲だけが、炎に炙られた痕跡さえ感じ取ることのできない状態で残っている。

 この絵が無事であったことを奇妙だと思うべきか、それとも必然と思うべきか……果歩には分からなかった。この虎の絵がすべての元凶だなのだという気がする。

誰が描いたんだろう。

誰が……ここに飾った?

 もう一歩、絵に近付こうとしたとき、果歩はかすかな風の流れを感じた。

 そして次の瞬間、果歩の顔をかすめるほどの距離に極彩色の翼が羽ばたいた。熱風が果歩の髪を吹き上げ、爆ぜる火の粉が翼の軌跡を描いて舞い散る。

……熱っ!

 思わず顔をかばった腕に火の粉が降りかかり、果歩はその熱に眉を寄せた。

 幻影では、ない。

 火の粉は実際に果歩の肌を焼いているのだ。

 突き刺すような痛みを感じながら、果歩は周囲に視線をめぐらせた。暗闇に飲まれたその翼はすぐに旋回し、再び果歩めがけて飛翔する。

 ほんの一瞬だったが……激しい殺意が感じられた。

 果歩がその姿を完全に捉えたのはその瞬間だった。

鳥……。

 炎に包まれた鳳凰の姿が暗闇に映える。

 その輝きに、果歩は目を奪われた。棒立ちになったまま、まっすぐ降下してくる炎の鳥に身体をさらす姿勢となっていた。

……!

 一瞬、果歩の身体がこわばった。

 箭波の放った雷燕が胸を貫いた時と同じように、なす術もなくその攻撃を食らうしかない位置だった。

 そしてあのちっぽけな燕とは……比べ物にならないほどその炎の勢いは激しいものだった。

 だが果歩の直前で、鳳凰はくるりと身を翻した。

 そしてあれほど強く感じた殺気がが嘘のようにぷつりと消え失せる。炎の鳥は突然現れた時と同じように、暗闇に姿を消してしまった。

 その奇妙な行動が、別の気配を感じたせいなのだと果歩は気づいた。

あいつ、焔鵬ってんだよ。

 突然、暗がりの中にその声が響いた。

 その気配が篤志のものだろうと思った果歩は、振りかえりざま小霧の姿を認めて再び眉を寄せた。

そんな顔するこたぁないだろ。

俺、生命の恩人なんだぜ、一応さ。

……ふうん。

 興味なさそうに答えて果歩は周囲を見回した。

 焔鵬というあの炎の鳥が戻ってくる気配はない。

おまえ、案外鈍いんだな。

もうちょっと遅れてたらあいつにやられてたぜ。

お伽話のオウムかと思った。

話、できるかなって……。

 果歩はちょっと唇を尖らせた。

 

オウム……?

 小霧はそう聞き返した。

 だが果歩は何も答えず、小霧に背を向けて篤志の倒れていたほうへ歩き始めていた。果歩ははだしだった。床一面に散らばった瓦礫を避ける足取りも危なっかしい限りだ。小霧はすぐに追いついて果歩に手を貸してやった。

篤志のことなら心配要らないぜ。力を使いすぎて疲れきってるだけだ。

朝まで寝てりゃあ何事もなかったように目を覚ますからさ。

 果歩と肩を並べて歩きながら、小霧はそう話し掛けた。

 だが果歩は何も答えなかった。小霧のほうを見ようともしない。倒れている篤志のそばに座りこんで、ようやくおずおずと小霧を見上げる。

ええと……。
 この状況を、何から、どう尋ねるべきか。

 果歩には見当もつかなかった。

小霧だよ。
……何が?
俺のな・ま・え!
ええと……。

聞きたいのは、そいうことじゃなくて……。

 人懐っこい表情が、かえって困惑を深める原因となっていることに小霧はまるっきり気づいていないようだった。

 果歩は小さくため息をつき、もう一度周囲を見渡した。

(出口どこ? とか聞いたら怒られるかな。英司も、由宇ちゃんのお兄さんもいないみたいだし……)
 何を尋ねるのも愚問という感じだった。

 朝まで小霧以外に頼る者がいないという事実を、さしもの果歩も認めざるを得ない状況だ。

狐……出てこない?
え、もしかして俺、怖がられてんの?
だってあの狐、あっちゃんに怪我させて……。
気が小せえんだな。

自分はあんな化け物じみた虎呼ぶくせに。

怪談、キライだもん。
………………怪談?

 今度は小霧が眉を寄せた。

 あからさまにそれは不愉快だという表情を浮かべる。

心霊写真とか、トイレの花子さんとか……。
……んなもんと一緒にすんな。
……だって。
 似たようなもんじゃない……と言いかけて果歩はまた額から落ちてくる髪を払いのけた。

 今となっては自分も同じなのだと気付いて言葉を飲み込む。

これ……なんで白くなったのかな。

 その長い髪を指先でもてあそびながら果歩は呟いた。

 痛みはほとんど感じなかったが、その指先は爪が割れ、まだ血がにじんでいた。篤志と自分の生命を必死でつなぎとめようとしがみついていたあの時の感触が、その指先によみがえってくる。

それがおまえの本当の姿だからだろ。
本当の……って……。
なんだ、思い出したんじゃないのかよ。
『思い出してごらん、ジャングルの虎が、どんな風におまえを喰ったかを』

 一瞬、小霧の声に父の声がだぶったように錯覚した。

 篤志に殺されかかった時に見たあの赤い光景が、ほんの一瞬だったが垣間見えたように思う。

思い出したよ。

あっちゃんが、〈果歩〉を殺した夜のことを思い出した。
 そう絞り出すように言葉にした時、胸を締め付けられるような苦しさがこみ上げてきた。
(あれがこわい夢じゃないんなら……ここにいるのは誰かな。

果歩じゃない、別の誰か?

果歩じゃないのに、果歩みたいな気がしてるだけ? 

〈果歩〉が見たことや聞いたことを、どうして覚えているの?

どうしてあっちゃんが果歩を殺したときのことを思い出せるんだろう。果歩が泣いてたこと、こわくて堪らなかったことも……。

あの女の人がずっと待っていたのもジャングルに虎がいるからなんだって、〈果歩〉は死ぬ瞬間に思ってた。


――そんなことをどうして覚えているんだろう。

〈果歩〉はもう死んでしまったのに……)

 その憎悪の深さを初めて果歩は、痛みを伴う実感として悟った。

 逃げることだってできたはずなのに女はずっとジャングルにとどまった。王子を待つためだと、自分自身を偽りながら。

 自らの肉を喰う虎を、女は待っていたのかもしれない。

 奪い尽くされ、喰いつくされるその瞬間をこそ、震えながら、怯えながら、恋をするようにずっと焦がれて待っていたのかも……。

 世界を焼き尽くす力を持つ虎と、同じひとつの存在に溶け合うために。


 今、果歩が感じているように……。

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