ダーティエリー

プロローグ

エピソードの総文字数=16,302文字

彼はそこからベテルへ上ったが、上って行く途中、小さい子供らが町から出てきて彼をあざけり、彼にむかって「はげ頭よ、のぼれ。はげ頭よ、のぼれ」と言ったので、彼はふり返って彼らを見、主の名をもって彼らをのろった。すると林の中から二頭の雌ぐまが出てきて、その子供らのうち四十二人を裂いた。
(口語訳旧約聖書 列王紀下 第二章)


                 ※ ※ ※


   プロローグ

 蛇の泣き言はいつまでも続いた。
 そのあだ名の通り、蛇のごとく私にまとわりついて離れなかった。
「だから、誤解なんだよ。俺はそんなことしねえ。俺は誰もそそのかしたりなんかしてねえよ……」
 もう一時間あまり、彼は一人で愚痴をしゃべり続けている。
 私は内心うんざりしていた。
 そろそろ夕食時で、早く彼を追い払いたかった。
「あんたの言いたいことはわかったような気がするよ」
 と、私は適当なことを言って慰めようとした。
「だから、バーに行ってウィスキーでもひっかけてきたらどうだ。それで全て忘れるんだ」
 硬貨をいくつか出して蛇の手に握らせてやった。彼は酒に弱い。目がないという点でも、すぐに酔いつぶれるという点でも。
「違うよ。俺はそんなつもりで言ってるんじゃねえよ」
 彼はそう言って私をにらむように見たが、かといって手の中の金を押し返すということもしなかった。
「俺は助けてほしいんだよ」
 彼は硬貨を握った方の手の指で鼻の下をこすった。そしてその手をおろす自然な動作の中でさりげなくレインコートのポケットに金をしまい込んだ。見事な手腕だ。
「あんたに仕事を頼みたい」
「ほう」
 私たちは事務所の中で応接机を挟み、向かい合って座っていた。私の事務所だ。○○街○○通り○番地○ビル三階。
 蛇はかつて腕利きの情報屋だった。彼は一見大した男ではなく、事実大した男ではないのだが、はしこく抜け目がないという点に関しては一頭地を抜いていた。自分の冴えない外見を巧みに利用するすべを心得ていた。
 どんなに用心深い人々でもうっかり彼を見誤り、つい油断して、貴重な秘密を彼に漏らしてしまうのだ。
 先代のエリヤ先生は蛇のそうした天分を見抜き、彼を重宝して扱った。二十年近く昔、私がまだここで下働きを勤めていた頃だ。
 だが時代は変わる。人は年をとる。そして堕落し腐敗する。
 年老いた蛇は自分の商品を『喋る』のではなく、『黙る』ことで収入を得ようと思いついた。つまり、情報屋から恐喝屋へ鞍替えしようと試みたのである。その方が楽だし、ひとつの情報を消費することなく好きなだけ使い回すことができる。うまくいけば延々と金を搾り取れる。 
 うまくいかなかった。
 老いらくの転職はみじめな失敗に終わった。蛇は逆上した顧客の一人に手ひどく痛めつけられた。彼の右足はその時以来曲がったままだ。
 蛇の言葉に、しかし私は気乗りがしなかった。
 だが彼の頼みを断る口実も思いつかなかった。
 仕方なしに言った。
「あんたは、エバ夫人をそそのかしたと思われてる」
「そうだよ」
「誰に」
「俺の話を聞いてなかったのかい。アダムの旦那だよ。アダム一家の連中だよ」
 蛇は憤慨して顔をゆがめた。
「あいつらは、俺がファーストレディの駆け落ちの段取りをつけたと思ってるに違いねえ。俺は、あの二人が出て行くときにたまたま居合わせちまっただけなのに。俺はあの人に挨拶したんだけど、そこを旦那のところの若い奴に見られた。ついてなかったんだよ」
「夫人の相手は誰だ?」
「本名は知らねえ。でも確か、周りにはリンゴって呼ばれてたはずだ。○番街で見かけたことがあるよ」
「なるほど。さぞ甘酸っぱいマスクをしてるんだろうな」
 それから私は少し気になったことを尋ねた。
「あんたはエバ夫人とは知り合いなのか」
「あの人は俺に時々小遣いをめぐんでくれたから。それで、おじぎしたんだ。それだけさ」
「だったら、それをアダムに説明すればいいじゃないか」
「冗談じゃねえ。俺が旦那の前に出たら一言だって喋る時間も与えてくれねえよ。あっという間に殺されちまう。でも、あんたは旦那と親しいだろ?」
「そういうわけではない」
 私は言った。
 事実、そういうことは全くない。
 ただ、数年前に旧市街の勢力図をゆるがす事件が起きたとき、たまたま別の件で動いていた私は、その時もっとも都合がよかったアダムの側についた。それだけのことだ。
「なあ、引き受けておくれよ。坊や。旦那と会って話をつけてくれ。誤解を解いてくれ」
「蛇。二つだ」
 私は厳しい声を出した。
「一つ。私を坊やと呼ぶな」
 この事務所をエリヤ先生が取り仕切っていた頃、私は坊やと呼ばれていた。だが今の私はそう呼ばれるにはいささか歳をとりすぎている。
 蛇は傍目にはおかしなほどしょげかえった。そうしていると彼はいかにもみじめな老人に見えた。
「二つ」
 私は小さくため息をたいた。
「依頼料は前金で払ってもらう」
 蛇の顔が明るくなった。
 私が金額を告げると、彼はポケットからしわくちゃの紙幣を十枚取り出し、丁寧に皺をのばすようにして机の上に置いた。
 大して手間のかかる仕事とは思えなかった。
 アダム一家が蛇のような者をわざわざ相手にするはずがない――かつての蛇ならともかく。
 耄碌した心配性の年寄りを安心させるための手慰み。そのように思えた。
「明日の夜、遅くとも明後日の朝には報告できるだろう」
 と、私は言った。
 彼は心底ほっとした表情でうなずき、明後日の昼過ぎにまた来ると答えた。
「あんたが最も必要としているときに、神の光があんたに降り注ぎますように」
 別れ際、彼は柄にもなく祈りの言葉を口にした。
 私は事務所の窓際に立ち、愚かで哀れな老人が足を引きずりながら歩き去っていくのを見送った。
 彼は間違っている、と私は思った。
 神に祈るなんて。
 この卑しき街バイブル・シティはとっくの昔に神に見放されているというのに。

 翌朝、空は曇っていた。
 十月。夏はすでに彼方へ去り、秋が深まりゆく季節。
 空気が湿り気を帯びて膨らんでいた。
 こういう天気がもっとも対応に困る。
 傘を持ち歩くべきだろうか。
 帽子をかぶるのが手軽な方法の一つではある。
 しかし帽子は苦手だった。頭が蒸れる。頭が蒸れると重要な何かがゆっくり死んでいくような気分になる。
 それでも雨に直接頭を打たれるよりはましだった。結局、私はソフト帽をかぶることにした。
 アダムの屋敷は旧市街の東端にある。閑静な住宅街だ。
 だが今の時間帯はお気に入りのバーで朝食をとっているはずで、その場所は私の事務所から徒歩でも行ける。
 アダムがバベル・カッフェにいることはすぐにわかった。巨大なリムジンが横付けにされていたからだ。
 店内は貸し切り状態となっていた。奥のテーブルで新聞を読んでいるアダムの姿が見えた。
 三人の護衛が入り口付近の席に座っていた。
 私は彼らに対してうなずきかけ、無意味に刺激しないように両手が空であることを示しながら奥へ向かった。
 アダムのスーツは私の事務所の家賃半年分よりも金がかかっているにちがいない。
 彼はハンサムで、人好きのする善良な感じの中年紳士だ。
 しかし、それは表面だけだ。アダムに善良さはまったくない。いや、まったくないとは言い過ぎかもしれないが、ほぼないと言っていい。
 彼は旧市街に流れる麻薬をすべて取り仕切っているし、善良な紳士はそんなことはしない。
 彼は私が近寄るのを見ると、新聞紙を畳んで大げさに両手を広げた。
「たまげたな、エリシャ。いつぶりだ?」
「一年くらいだろう」
「どうした。俺に会いに来たのか?」
 彼は私に向かって手を差し出した。
「ああ」
 私はその手をじっと見た。自分の手は出さなかった。
 アダムは軽くかぶりを振って手を引っ込めた。
「調子はどうだ?」
 彼は鷹揚な口調で尋ねた。
「まあまあだ」
「そうか。俺もまあまあだ。座れよ。何か飲むか」
 私は彼の向かいに腰を下ろすと、帽子を取ってテーブルに置いた。
「話がある、アダム」
「実は、俺もお前に話がある」
 彼はコーヒーを一口飲んだ。
「この数日、あることでずっと悩んでた。だが俺に必要なのはお前のような人間だと今気づいたよ。でも、ま、そっちの話を先に聞かせてもらおうか」
 私は話した。
「確かに今、エバは外に出てる」
 と、アダムは苦い顔をして言った。
「男と一緒かどうかは知らんがな。仮にお前の言う通りだったとしても、俺は驚かんよ。あれはそういう女だ」
 あきらめきったような口調だった。
「問題は彼女じゃない。蛇のことだ」
「蛇だと? 蛇ってのは何だ」
「情報屋の老人だ。かわいそうに、死ぬほどあんたに怯えてる」
「かわいそうな老人なんぞ知ったことか。俺は他にやるべきことがたくさんあるんだよ。妻のことも後回しにするくらいにな」
 概ね予想していた通りの返事だった。だがそれを確認するためにここを訪れたのだし、それだけで一仕事終わるというのは考えようによっては悪くない。
「つまり、あんたは蛇のことなど知らないし、彼に危害を加えようとも思っていない。そういうことだな」
「わざわざそれを確認するためにここに来たのか?」
「仕事だ。あんたの言質をとっておきたかった。だが、これで終わったよ」
 私は立ち上がった。
「朝食の邪魔をして悪かった」
「待った。お前の用件は済んだな。じゃあ、次は俺の話を聞いてくれ」
 アダムは丹念に整えられた顎ひげを右手の指先で撫でた。目を細めて値踏みするように私を見た。
「お前に仕事を頼む場合、いくら払えばいいんだ?」
「それを聞いてどうする」
「身元を洗ってほしい奴がいるのさ」
「断る」
 私は言下に答えた。
 アダムの右眉がぴくりとはね上がった。
「どうして」
 私はアダムを見下ろすと、相手の気分を害さないよう慎重に言葉を選んで言った。
「あんたが大嫌いだからだよ。ギャングという人種は他人に迷惑をかけるだけの屑で、その中でもあんたは極めつけの屑野郎だ」
 アダムはにやりと笑った。
「俺はお前が大好きだよ、エリシャ。それでいいじゃないか。二人あわせるとバランスがとれてる」
 そして昔話をするような口調で続けた。
「そう言えば、あれは何年前のことだったかな。バアルの連中がくだらない絵図面を引いて街にちょっかいをかけてきたことがあった。お前は俺を助けてくれた」
 バアルとは郊外を縄張りにする無法者集団の一派だ。
 私は顔をしかめた。
「成り行きでそうなっただけだ」
「同時に、俺もお前を助けてやった。お前が今生きているのは、俺が多少フォローしてやったからだ。それは認めるだろう?」
 私は仕方なくうなずいた。
「多少は」
「そうだ。その多少に免じて、俺のささやかな願いを聞いてくれてもいいんじゃないかな。どうだ?」
 私は椅子に座り直した。
「――おおよその目安は一週間で三〇万。それと必要経費」
 アダムはコーヒーを飲み干した。
「問題ないな。エリシャ、この街のギャングの事情にどれほど通じてる?」
「人並み程度には」
「今のは愚問だったな。忘れてくれ」
 バイブル・シティは東西二つに分かれている。
 つまり、東の旧市街と西の新市街だ。
 この二つの市街は、そもそもの成り立ちからして系統が違うのだが、とにかく二つで一つの街として成立している。
 旧市街の支配者はギャングたちだ。彼らは表には出ない。傀儡の役人を仕立てて面倒ごとを押し付け、自分たちは甘い汁を吸っている。ギャングのファミリーには大小さまざまなものが存在し、その頂点の一つがアダム一家だ。
 新市街の裏世界は、まだそこまでこなれていない。成熟していない。わかりやすくいえば腐っていない。新市街では断然、市長ピラトの勢力が強い。合同公社も新市街の中央付近に固まって建てられている。
 新市街をうろつくギャングもいるにはいるが、それは基本的に旧市街からはじき出されたような小物だけだ。
「――俺たちは、新市街へ進出しようとはしていなかった。市長のグループを相手にするのはいささか骨が折れるからな」
 と、アダムは言った。
「だが、最近になって、市長の方が動き出した。旧市街のギャングたちを――俺たちを一掃するための大々的な作戦を水面下で進行させてるとよ」
「そいつは大事だな」
「確かな筋の情報だ。今年の春、若造が一人、市長の相談役として公社に入り込んだ。そいつが作戦の発案者らしい。ナザレから来たなんとかって野郎だ」
 アダムがそこまで言ったとき、バベル・カッフェの扉が開いて男が入ってきた。まだ若い。二十歳前後だろう。アダムによく似た顔立ちで、アダムと同じくらい高級そうなスーツを身につけている。
 用心棒たちには目もくれずに店内に入ってくると、彼はアダムに向かって声をかけようとし、そこで初めて気づいたとでも言うように私を見た。
 彼はアダムに言った。
「この禿のウジ虫は誰だ」
「客人に失礼はよせ」
 アダムは穏やかにたしなめた。
「急ぎの用だよ、親父。報告したいことがあるんだ。禿野郎、気を利かせて失せろ」
「失礼はよせ、と言った。聞こえなかったのか、カイン」
 アダムが静かに言った。
「話はあとで聞く。お前が出ていけ」
 カインと呼ばれた若者は何かを言おうとしたが、すぐに口を閉じた。
 彼は私をにらみつけると、どかどかと乱暴に足音を立てて店を出ていった。
「息子の無礼を許してほしい」
 アダムは言った。
 私は何も気にしていないということを強調するために肩をすくめてみせた。事実、何も気にしていない。
「頼りになりそうな跡取りがいて結構なことだ」
「不肖のせがれだよ」
 エバ夫人の話をしたときよりも沈んだ表情でアダムは言った。
「いわゆる武闘派って奴でな。当人も周りにそう呼ばれていい気になってる。困ったもんだ。頭も、腕力も、器量も、何かもかも足りていない」
 アダムは頭を振った。
「――話を戻すぞ。そのナザレから来た男についてだが、只者ではないらしい。市長だけでなく、一般市民たちにもえらく支持されてる。新市街の大手商人や木っ端ギャングどもも奴にしっぽを振ってるって噂だ。どうも奇妙なカリスマを持ってるみたいなんだ。それで、あんたには、そいつの身辺調査をしてほしい」
「何を調べる?」
「何でも。人種、性格、趣味、嗜好、出身、経歴、交友、すべて洗い出してくれ。どういう男なのか詳しく知っておきたい」
「なぜわざわざ私を雇う?」
 と、私は聞いた。
「自分の組の誰かにさせればいいだろう」
「まだ直接トラブルがあったわけじゃないからな。うちの組員が先に動くわけにはいかない。逆に、向こうにつけ込まれないとも限らない。ギャングにも大義名分が必要な時代なのさ」
 私は考えた。
 ギャング同士の抗争には関わらない。それがエリヤ先生の方針だった。私もそれを継承している。
 しかし今回の話は少々毛色が異なる。
 争うのは市長とギャング。私が請け負うのはその前哨戦の下調べといったところか。
 正直な話、ギャングどもがどうなろうと私の知ったことではない。アダムのような男の不利益はそれが何であれ世のため人のためになるだろう。
 だが、だからといって市長の応援をする気にもなれなかった。
 それに、この依頼にはどこか興味が引く点がある。
 ナザレから来た男。
 旧市街のギャングに戦いを挑もうとする男。
 市長を説得し動かすだけの能力を備えた男。
 さらに言えば、蛇の依頼を片づけた今、私にはさしあたって仕事がなかった。
 私はうなずいた。
「いいだろう。引き受けよう」
 料金について簡単に話を決めた。
「――エバ夫人の方はどうするつもりだ」
 私は尋ねた。
「別にどうこうするつもりはない。放っておくさ。そのうち飽きたら帰ってくる。いつものことだ」
 アダムは肩をすくめた。
「だが、そうだな。ついででいいんだが、もしリンゴって奴を見つけたら俺に教えてくれ。その分の謝礼も払うよ。奴にはぜひともお礼をしてやらなきゃならないからな」
 ほんの一瞬、紳士然としたアダムの上っ面を透かして、彼の本性がおもてにあらわれた。
 だから私は彼と握手する気になれないのだ。
 このような顔をする人間に利き腕をあずけるなど恐ろしくて私には到底できない。
「いつでも会いに来てくれ。俺がこのバベルにいるときでも、屋敷にでも」
 アダムは言った。元の善良そうな紳士の顔に戻っていた。
「息子が失礼をしてすまなかった」
「気にしていない」

 気にするべきだったのかもしれない。
 事務所に戻ると、タイプライターをたたいて蛇のために簡単な報告書を作った。わざわざ文書にまとめるほどの内容とも思えなかったが、どんな些事であろうとも仕事には変わりない。タイプした紙を機械から引っ張り出してインクを乾かしていると、ドアが開いてカインが入ってきた。
 彼一人ではなかった。見るからに凶暴な男たちが四人、その後ろについてきた。
「ちっぽけなビルだな」
 カインは部屋の中ほどに来ると室内を見回した。両親ゆずりの端正な相貌に生来の驕慢さをみなぎらせていた。
「ちんけな探偵にふさわしい、ちんけな事務所だぜ」
 そして私をにらんだ。
「禿のウジ虫。俺を覚えているか?」
「カイン。アダムとエバの息子」
 私が答えると、カインはにやりと笑った。
「その通りだ。オツムは上々だな。髪の毛の方はあらかた死滅しちまってるが」
 カインの軽口に、彼の背後に控えた四人の男たちがげびた笑いを漏らした。
「親父も焼きが回ったもんだ。こんな禿に仕事を頼むなんてよ」
 と、カインは言った。
「仕事を恵んでもらったろ? 今すぐ親父に電話して、断ると言え。それで命は助けてやる」
 彼らは全員、懐に武器を忍ばせている様子だった。おそらく拳銃だろう。だが今はそれを手にしていない。誰も武器を構えていない。
 私は何気なさを装ってゆっくり立ち上がった。
 カインの後ろに従っていた男の一人がめざとく言った。
「座ってろ、この禿」
 私はもちろん気にしていない。気にしてはいないが、こう何度も繰り返されるとさすがに少々気になってくる。
 彼らは私が立ち上がる前に撃つべきだったし、それを言うのなら、部屋に入ってきて即撃つべきだった。私に仕事をやめさせたいというのならそれが唯一の選択だった。
 彼らは判断を誤った。判断を誤った者に遠慮は無用だ。
 私は左手を動かした。ズボンの後ろのポケットに突っ込んだ拳銃を抜き、手を前に振りながら弾を放った。
 うめき声を漏らして、先ほど私を禿とののしった男が前のめりに倒れた。
 その時には右手でもう一丁の拳銃を抜き、残りの四人に突きつけていた。連中にとっては瞬きする間もなかっただろう。
 ベアー・ガバメント。
 小口径で、軽くて小さい。ズボンの尻ポケットに入れると外から見てもわからない。それに頑丈で、ナックルのように握りこんで人を殴ることができる。殴りながら撃つことも、撃ちながら殴ることも可能だ。
 頼りになる二頭の雌熊。
「頼みがある」
 ゆっくりと机を回り込み、前に出て私は言った。
「おとなしく帰ってほしい。血をこの部屋にぶちまけたくはない。掃除が手間だし、敷金に影響が出る」
 カインの右側にいた男が恫喝するような声を上げた。
「なんだと、この禿」
 左の銃でそちらを見ずに撃った。もんどりうって彼は倒れた。
 残りの二人が同時につかみかかってきた。
「禿野郎!」
 手前の男が叫んだ。
 拳銃を持つ者に対してあまりにも無謀な行為。
 正面から撃ってやってもよかった。屋外ならそうした。だがこのように激しく動かれては部屋中に血しぶきが飛ぶ可能性がある。そうなったら誰が掃除するのか? 私だ。
 銃を握ったまま、私は左フックで手前の男の顎を殴った。カウンター気味に入った。棒のように硬直した彼を向こうへ押し倒しながら、同じ左拳で二人目の男の鳩尾をすくい上げるようにして打った。その男も悶絶し、彼らは折り重なって地面に崩れ落ちた。
 私は左手の銃を少し持ち上げ、二人のうち、私を禿とののしった方を撃った。
 それで動く者は誰もいなくなった。
 カインだけが無傷で突っ立っていた。
「二代目。ひとつ教えておこう」
 私は言った。
「礼儀のなっていない奴はみんなに嫌われる。部下のマナー教育はしっかりしておけ」
 彼は明らかに混乱していた。喉仏が上下していた。
 このような状況に陥る可能性を彼は全く考慮していなかったのだろう。
 アダムの言葉を思い出した。
「頭も、腕力も、器量も、何かもかも足りていない」
 私はそこまで厳しいことは言わない。 
 ただ、彼には経験が不足している。
 ギャングとしても。人間としても。
 私は両手の拳銃をカインに示すようにゆっくりと尻ポケットにしまった。
「――で、どうする、二代目。お前はやるのか。それとも帰るか」
 カインの顔が赤くなった。右手を懐に入れてその中のものを出そうとした。遅い。左のジャブを軽く当ててやると、彼は鼻血を吹き出しながらあっけなく倒れた。
 私は眉をひそめた。血が絨毯にしたたったからだ。
 地面に倒れ伏している彼らの懐を探った。全員同じものを持っていた。マナ・スペシャル。粗悪なレプリカ拳銃だ。
 それらの武器をすべて床に投げ出すと、部屋の奥に蹴り飛ばした。
 そうしてからカインの胸ぐらを左手でつかみ、無理矢理立たせた。
「お前たちがここに来たことをアダムは知ってるのか」
 カインは鼻を押さえたまま、首を振った。目が怯えていた。
「お前が勝手にやったのか」
 うなずいた。
「なぜ断わらせようとする?」
 カインは目を伏せた。
 右拳で肋骨を打った。
「なぜ断わらせようとする?」
「新市街と抗争になれば、手柄を立てられる」
 苦悶の息を漏らしながらカインは言った。
「親父は手ぬるい対策を考えてる。お前をやめさせれば、抗争に踏み切ると思った」
 私はあきれた。ずいぶん短絡的な考え方だ。
「そんなに手柄がほしいのか? お前は大物ギャングのボンボンで、ちんけな事務所の家賃半年分より遙かに高そうなスーツを着ているのに?」
 カインは答えなかった。
 私が手を離すと、カインはその場に尻餅をついた。
「部下たちを連れてさっさと帰れ。パパには告げ口しないでいてやるよ」
 と、私は言った。
 全員命に別状はない。撃ったのは皆、利き腕の上腕だし、運が良ければ将来スプーンを使えるようにはなるだろう。
 ドアを開け放したまま、彼らはよろめきながら引き上げていった。
 最後、カインが入り口の陰から私をにらんだ。すさんだ目つきだった。
「覚えていろ。お前、面倒なことになるぞ」
「もうなっている」
 私は答えた。
 彼らの流した血が絨毯にべっとり染みついていたのだ。
 なんてことだ。

 それからずっと蛇が来るのを待った。外では雨が降り始めた。
 いつまで待っても蛇は来なかった。
 私は少々意外に感じた。
 彼のあの様子では、今すぐにでも事後経過を聞きたがるように思われたからだ。
 夕方、事務所を閉める時間になったとき、電話が鳴った。アダムからだった。
「すまない。カインが迷惑をかけたようだな」
 彼は全て知っているらしかった。
 特に驚くことではない。
 アダムは、旧市街の出来事で知るべきことをすべて知っている。そういう男だ。
 カインが今日のやりとりをアダムに伝えたとは思えない。おそらくアダム直属の誰かがカインに付いてその行動を見守り、随時報告しているのだろう。
「全くあいつには手を焼かされる」
「彼自身のせいではない」
 私は言った。
「たぶん彼の周りにはお手本となる大人がいなかったのだろう」
「そう皮肉を言うなよ、エリシャ」
「事務所の絨毯が汚れてしまった。その分のクリーニング代を請求書に上乗せしておく」
 それでかまわない、とアダムは言って電話を切った。

 翌日、小雨になっていた。小雨であっても雨は雨だ。外を出歩いて頭を濡らしたくはなかった。
 そこで近所のバーに行き新聞を読み込むことにした。ナザレから来た男についておおよその情報を得るためだ。
 ハングマンは私の事務所からビルを一軒挟んだところにある。バベル・カッフェのような高級店ではないが、ここでは各種新聞が取り揃えてあり、酒を飲みながらそれらを読むことができる。
 店内に入ると、老店主のモルデカイが私にうなずきかけた。酒を飲むにはまだ早いのでカフェイン抜きのコーヒーとドーナツを頼んだ。
 多くの人間が理解できていないことだが、カフェインは極めて危険な嗜好品である。不必要な覚醒を促し、頭部の表皮に深刻なダメージを与える。
 新聞を適当に見繕って席に座るとウェイトレスが料理を運んできた。彼女はモルデカイの姪で、この店の看板娘だ。
「やあ、エステル」
「はい、どうぞ。ゆで卵はサービスよ」
 私は礼を言い、コーヒーをすすりながら新聞の束に取り組んだ。
 ミニストリー・タイムスが一番事情に詳しかった。
 ナザレから来た男、名をイエス。三十三歳。
 ありふれた名前である。だが、経歴は大したものだった。
 ナザレ大学卒。
 ガリラヤ市で改革に着手、成功。
 ヨルダン河の治水に貢献。
 テュロスではさまざまな人材を登用……
 なんとも素晴らしい実績だ。
 新進気鋭、活発明朗、完全無欠の若手政治家。
 ただ者ではないというアダムの言葉を私は理解した。
 特に、ガリラヤは荒っぽいところだ。あそこで何事かを成したということは、単なる大学出のエリートではないことを意味する。
 過去半年分のミニストリー・タイムスを読み漁り、必要と思える箇所のメモを取り、何度も繰り返し読んで頭に入れた。
 イエスの写真も確認した。新聞に掲載されていたのはいずれも荒い画質のものばかりだったが、おおよその人相はつかむことができた。
 オールバックにまとめた髪、意志の強そうな眉、細いがたくましい顎。年齢よりも若く見える目鼻立ち。
 ふと気づくと午後一時になっていた。
 いったん事務所に戻ったが、入り口のドアに掛けている伝言板には何も書かれていなかった。蛇は来ていない。
 再びハングマンに行った。今度は酒を飲むためだ。雨足は弱まりつつあった。おそらく明日にはやむだろう。実際に動くのは明日からでいい。
 客が少しずつ増え始めた。昼から飲む本物の紳士たちだ。
 私はカウンターの隅に座り、ワイルド・ターキーの水割りをもらった。エステルが客たちの間を華麗に泳ぐように立ち働くのを眺めながら、ゆっくり時間をかけて飲んだ。
 外が暗くなり、四杯半ほど片づけたところで、誰かが私の後ろに立つのが感じられた。  
「もう飲んでるの。ずいぶん早いのね」
 そちらを見なくても誰かわかった。
「フリーだからな。いつでも飲める。公務員より優れた数少ない点だ」
 そう言って私は振り向いた。
 ラハブが立っていた。
 仕事帰りなのだろう。ぴったりした男仕立ての黒のスーツを身につけている。
 豊かな髪が肩にのり、銀のフレームの眼鏡が店内の照明を受けて光っていた。
 欲目がなくても彼女は美しい。もともと愛らしかったが、この数年でいっそう美しくなったように見える。
 だが容姿を誉めると彼女は怒る。新しい時代の新しい女なのだ。だから私は彼女の外見について何も感想を言わないようにしている。
 彼女は私の隣に座るとサラダとフィッシュフライとミネラルウォーターを頼んだ。
「質素なディナーだな」
「公務員だからよ。景気の良さに左右されないの」
 と、彼女は言った。
「どうかしたのか」
「忠告しに来たの」
「忠告?」
「エリシャ。今あなたが扱っている件から手をひいて」
 私は彼女の顔を見返した。
「何のことだかわからない」
「とぼけないで。私たちはアダムを張っていた。昨日、あなたが奴に会いに行ったことはわかってるの」
 アダムを張っていた?
「彼とはチェス仲間なんだ」
 私は答えた。
「その後、アダムの息子が手下たちを連れてあなたの事務所に行ったのを確認したわ」
「彼らもチェス仲間だ」
「ふざけないで。あなたがチェスをたしなむなんて聞いたことがない」
「人は変わるよ、ラフー」
 ラハブは紅海の悪魔のような恐ろしい目つきで私を見た。私は言い直した。
「人は変わるよ、ラハブ警部補」
 ラハブはため息をついた。
「――兄さん。お願いだから、言うことを聞いて」
 そのとき、ラハブの料理が運ばれてきた。彼女はエステルに礼を言い、二言三言じゃれあうようにやりとりした。
 エステルが去ると、ラハブは再び私に向き直り、小声で言った。
「あと数日で公表されることよ。市の主導でギャングの撲滅キャンペーンが始まるの。まだしばらくは様子見だけど、いずれ本格化する。市長は本気だし、警察も徹底的にやるつもりだわ。今のあなたがアダム一家とどんな関係なのか知らない。でも、市長が目をつけたら、あなたなんて簡単にひねりつぶされてしまうわ」
「そうかもしれない」
 私は控えめに言った。
「いい? あなたは確かにそれなりに実力はある。タフで、頭も切れる。偏屈な性格だけど、まあ、一応、信用できなくもない人よ」
「ありがとう」
「ほめてないわ。あなたは父さんの悪いところばかり受け継いでるもの」
 ラハブは私の目をのぞきこんだ。
「トラブルに首を突っ込んで、腕力にものを言わせて、無理矢理解決する。権力を馬鹿にして反発する。ギャング嫌いのくせに、ギャングと馴れ合う。朝から酒を飲む……。そういうスタイルは、父さんが生きてた頃にはまだ通用したかもしれない。でも、今はもうそんな時代じゃないの」
 バーの片隅で静かに過ごしているだけだというのに、どうしてこのようにひどく言われなくてはならないのだろう。
 私とラハブはエリヤ先生のもとで兄妹として育てられた。
 エリヤ先生に引き取られたとき、私は十五歳で、彼女はまだ二歳だった。
 当時二歳の小娘が、今は二十七歳の新しい時代の新しい女、警察組織を牽引する若く美しい警部補へと成長して私を厳しく問いつめてくる。泣きそうだ。昔は私の後ろを一生懸命よちよちついてきたくせに。
「バイブルは新しく生まれ変わる。旧市街ではなく、新市街がすべての物事の中心となる。市長はそうしようと考えてるの。そして、そのためにならない存在はまとめて排除するつもりなのよ」
 と、ラハブは続けた。
「だから、目立たないようにして。もしアダムに何か頼まれたのなら、それは断るべきよ。今、彼ら旧市街のギャングに関わるのは非常にまずい。あなたがキャンペーンに巻き込まれる可能性がある」
 そう言って彼女は私の手の上にそっと自分の手を重ねた。
「エリー。あなたのことが心配なの」
「その呼び方はやめてほしい。ちょっとかわいい女の子みたいじゃないか」
 ラハブは私の抗議を無視した。
 彼女は自分がラフーと呼ばれるのは嫌がるくせに私のことをエリーと呼ぶのだ。
「まあ、考えておく」
 私は無難に答え、水割りを飲み干した。
「ありがとう。忠告には感謝するよ」

 次の日、予想したとおりに空は晴れ上がった。朝、私が目覚めた時には通りはすでに乾き、清涼で心地よい空気を漂わせていた。見事な快晴だった。
 新しい仕事で動き回るにはうってつけの日だ。
 だが問題が一つあった。蛇が姿を見せないのだ。
 蛇の依頼を受けて二日たっていた。彼はどうして来ないのだろうか?
 自分が頼んだことも忘れて酒浸りになっているのだろうか?
 ありえそうなことだった。 
 もしそうだとすれば、私にできることは何もない。私は蛇の今の住所も連絡先も知らない。料金は前金で払ってもらっている。彼が来ないのなら、この件はこれで終わりだ。次の仕事に取りかかるべきだ。
 私はハングマンに行き、カフェイン抜きのコーヒーを頼み、肉厚のハンバーガーを食べた。
 食後、何気なく手に取ったミニストリー・タイムスの記事に目を通し、一瞬、体の血が薄くなるような錯覚を覚えた。
 旧市街の死海港に死体があがったという小さな記事があった。
 死体は頭を砕かれていたという。
 年齢は六十代半ば。
 身長は……で、体重は……ほど。
 白髪、痩身、小柄、右膝に古い大きな傷。よれよれのレインコート。
 それらはすべて蛇の特徴と合致していた。

 担当の検死官は顔見知りだった。ちょうどよかった。彼にはポーカーの貸しがあるのだ。
 私が検死局に行くと、彼は一階の事務机でトマトのサンドイッチをぱくついていた。
「モーセ」
「よう、エリシャ」
 彼は充血した目をしょぼつかせて私を見上げた。
 彼のように薄暗い地下室でいつも死んだ肉片を見ていると、ハム・サンドイッチを呑み込むのは勇気がいるだろう。
 モーセは私とほぼ同世代だが、白皙の美男子と表現してもさしつかえない風貌をしている。
 しかし肌が白いのは地下の死体安置所にこもりっぱなしのせいだし、目つきが思わしげなのは常に間近で冷たい死体を観察し続けているせいだ。検死の腕は一流で、彼の持つメスはどんな遺体もたちどころにまっぷたつにする。
「死海港の波止場に浮いていた死体について知りたい」
 と、私は言った。
「あのじいさんか。お前さんの仕事の関係者か?」
 モーセは目を細めるとめんどうくさそうにうなった。
「お前さんがここに来るってことはそういうことだろう」
「それを確認したいんだ」
 モーセは机の一番上の引き出しをあけると、写真を数枚まとめて取り出して私に寄越した。
 そこには蛇が写っていた。
 彼は安置所のベッドに仰向けに横たわり、うつろな目で空を睨んでいた。
 私は最初の二枚を見ただけでモーセに写真を返した。それ以上は見る必要がなかった。
「当たりか」
「ああ」
「仕事の関係者か?」
 私はうなずきかけ、思い直して首を振った。
「古い知り合いだ」
 モーセはサンドイッチの残りを皿に置いた。
「そいつは気の毒に。お悔やみ申し上げるよ」
「ありがとう」
 モーセは書類を引っ張り出して私に見せてくれた。
 蛇は海水を飲んでいなかった。殺された後に海に放り込まれたのだろう。
 死亡時刻はおとついの深夜二時。
 直接の死因は窒息。
 殺人者は蛇を絞め殺した後、続いて首の骨をへし折った。そして蛇を地面に寝かせ、頭をおそらく踵で踏みくだいた。なんという念の入れようだ。息を吹き返すのをおそれたのだろうか。本物の蛇を駆除するときだってこうはすまい。
「首を絞められたといっても、こうやって両手でしめあげたんじゃない。手のひらの痕がついていないからな」
 モーセが説明した。
「後ろから左腕を巻き付けて絞めたんだ。賭けてもいいが、犯人は何らかの武術や格闘技の経験がある奴だろうな。それと、死体の両手の爪の隙間に、皮膚のかけらが入り込んでた」
「つまり?」
「もがいて、犯人の腕をひっかいたんだと思う」
「その皮膚の欠片から犯人が特定できるか?」
「無理だ。でも、犯人の前腕にはひっかかれた痕が残ってるはずだ。そいつは確実な証拠になるだろうな」
 そこまで話したとき、若い事務員がやってきて、抱えていたずだ袋を床におろした。
「これ、どうしましょうか」
「ちょうどいい。こっちに持ってきてくれ」
 モーセは彼を手招きすると、私に顔を向けた。
「見るか。じいさんの遺品だ」
 私は袋を受け取って中身をのぞいた。
 レインコートとおぼしきものと、それ以外の小物が個別のビニル袋に納められているのが見えた。
「この荷物はどうなる?」
「本来なら、遺族に返さなきゃいけない。でも、たぶん焼却扱いになるだろうな。じいさんには身寄りがなかったみたいだから」
「私が引き取り人になろう」
 私は言った。
「遺族の代わりになるよ」
 モーセは私を見た。小さくうなずいた。
「そうか。じゃあ受付で書類を書いてくれ。葬儀の相談があるはずだ」
 私は彼が便宜を図ってくれたことについて礼を言った。
 彼はサンドイッチの残りを手にとって一口かじった。
「いいさ。この次にフルハウス以上の手ができたらドロップしろよ。それでチャラだ」
 そういうわけにはいかない、と私は答えて部屋を出た。

 自分の事務所に戻ると、私は机に古新聞を敷き詰め、モーセから受け取ったずだ袋の中身をその上にあけた。
 レインコート。
 手帳。
 財布。
 そして、アパートのものらしい鍵。
 蛇の私物はそれだけだった。
 全て一度海水に浸かり、その後引き上げられて乾かされたものだ。
 レインコートには血がついていなかった。息の根を止められてから頭を砕かれたために血があまり出なかったのか。仮に血が付着したとしても、死海港の冷たい海水が何もかも洗い流してしまったのだろう。
 手帳はぼろぼろだった。元々年季物だったのか、水に濡れたためなのかは判別できなかった。今は十分に乾燥してあり、ページをめくることができた。細かな蛇の字でびっしりと書き込みがなされていたが、それは蛇の日記や覚え書きらしかった。
 そして財布。ありふれた布製の長財布だ。
 私はふと違和感が胸の内にこみ上げてくるのを感じた。
 私は二日前の蛇とのやりとりを思い出していた。
 私が小銭を与えたときも、蛇が依頼料を払ったときも、彼は財布を出さなかった。彼は金をむき出しのままポケットに突っ込んでいた。
 あの時点で蛇は財布を持っていなかったのだ。
 中を開いたが金はなかった。空っぽだった。
 蛇の遺品を全てあらためてから、私はそれらを目の前にしてしばらく考え事にふけった。
 蛇は無害な老いぼれだった。
 お世辞にも善人とは言えなかったが、かといって悪人でもなかった。ほんの一時期、悪人であろうとしたことはあった。
 だが、だからといって、絞め殺され、首の骨をへし折られ、頭を砕かれて、海の中に投げ込まれるような末路を迎えるにふさわしい人間では決してなかった。
 今にして思えば、二日前の蛇の怯え方は尋常ではなかった。誰かにつけねらわれているのを肌で感じていたのではないか? 蛇には何か怯えるべき理由があったのではないか?
 もしそうなのだとしたら、彼を死なせてしまったのは私のミスだ。彼は私に助けを求めていたのだから。
 そこまで考えたとき、ラハブから電話がかかってきた。
「蛇さんの事、聞いたわ。モーセさんから連絡があったの」
 彼女の口調には疑惑の色があった。
「あなた、蛇さんの遺体を調べたそうね。何か心当たりがあるの?」
「別に。古い知り合いとして、彼の遺体の引き取り人を申し出ただけだ」
 私は話を変えようとし、彼女に葬儀の日取りを伝えた。ラハブは半休を取って参加すると答えた。
「――それで、蛇さんはあなたの依頼人だったの?」
 話を変えることはできなかった。
「それには答えられない」
 と、私は答えた。
「アダムが何か関係してる?」
「わからない」
「エリー、もし知っていることがあるのなら警察に言って。あなたは何もしてはいけない。余計なことはしないで」
「当たり前のことを繰り返して言う必要はないよ」
 私は送話口に向かってどなった。
「余計なことは何もしない。するわけがないさ」
 電話を切ると、私は椅子に座り込み、蛇の遺品をじっと眺めた。
 余計なことは何もしない。当たり前のことだ。
 私は必要なことだけをする。
 蛇の頭を砕いてとどめを刺した者を見つけ出し、相応の償いをさせなければならない。
(続く)

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