【共幻社公式作品】ジャングルに虎がいる

4-06 あのときと、同じ

エピソードの総文字数=3,317文字

あ……っ。
 合皮張りのソファに突き倒された瞬間、果歩は初めて篤志の意図を察して、逃げたくなった。

 篤志が男で、もう大人なのだという事実が……堪らなくこわい。

 ソファの背もたれに押さえつけられている右足のふくらはぎのあたりに、鈍い痛みがある。そのせいで果歩はほとんど身動きもままならなかった。

 だが、篤志はそこで動きを止めた。

 果歩の上に馬乗りになりかかった中途半端な姿勢のまま、苦痛に堪えるような表情で果歩を見下ろしている。

あっちゃん……。
黙ってろ。

……クソっ!


………………。
 篤志の怒号に吹き飛ばされそうな心地でふと視線を下げたとき、果歩はソファの座面に押し当てられた篤志の手の震えに気づいた。

 無骨な指。短く切りそろえられた爪が、食い込んでいるソファの貼り地を今にも突き破りそうだった。ひとつひとつの爪が厚く、硬そうで、果歩の指先の薄っぺらいピンク色の爪とは、まったく別の用途を持った異質な存在であるように感じられる。

 篤志が、要求を押し通すことを可能にする力を持った存在なのだと気付くにはそれで十分だった。例えそれが理不尽な要求であっても、果歩には決して太刀打ちのできない相手――。

何もしねえよ。

だから……そんな風にこわがるな。

 篤志の手が果歩の腕を掴んだ。

 懸命に声を抑えているのが、果歩にも分かった。だがそれでも……『こわがるな』なんて無理な注文だ。

俺は……ただ答えを聞きたいだけだ。

今すぐじゃなくていい。

もっと5年とか10年とか経って、おまえがおとなになってからでいいんだ。

俺のものになると言ってくれ!


そうすれば俺は……。

おまえを殺す必要なんてなくなるはずなんだ!

…………え……ええと。

 篤志が何を言っているのか、分からないわけではなかった。

 だがそれでも……返すべき言葉までを知ってるわけではない。

 何かを言おうと思っても、焦る気持ちは息苦しく喉を塞ぐばかりだ。ひとつとして言葉の形を成そうとしなかった。

 篤志の手のひらの力が、いつもよりずっと強く、激しく感じることがこわい。その指先の爪は、ソファに食い込んでいる右手の爪と同じように果歩の肌を突き破ろうとしているのだろうか。

 虎があの女を喰った時のように、その爪が皮膚の下にある赤い塊を引きずり出す光景が、白い視界に赤い染みを残して何度も繰り返される。

俺じゃ、嫌か?
(ちがうよ……そうじゃない)
(そうじゃない。そうじゃなくて……)
あいつがいいのか。

それとも……小霧か?

え……?

 果歩の表情が、わずかに動いた。

 驚いているようにも、見えた。

 どうしてそこで小霧の名前なんか出てくるのか納得行かないと言いたげな表情。

……っ!
 その表情に、篤志は心臓をわしづかみにされるような衝撃を受けた。

 英司の名を出すことさえ厭わしく感じている――そのくだらない嫉妬心の全てを見透かされている。

 苛立たしくて堪らないこのいじましい自分の弱さを、何があっても知られたくはなかったのに……。

足……ちょっと痛い。

 擦り切れた声が果歩の唇からもれた。

 見当違いなことを言ってると、果歩にもわかっていた。でも他に、どんな言葉を口にすればいいのか分からなかった。

 篤志の意識に内在する激しい怒りが滲み出し、触れ合った肌を通して果歩の身体の奥深くにまで染み込んでくる。

 他のどんな言葉を口にしても、その怒りを爆発させてしまいそうな気がした。

(あっちゃんが言いたいのは小霧のことじゃなくて……)
(いつも……今も、英司のことばっかりだ)
 そして篤志は果歩の言葉など聞こえなかったように、果歩の足を押さえ込んでいる靴に力をこめた。

 痛みに声をあげた果歩をさらに強くソファに押さえ込む。

 もし〈今〉でなく……果歩がもっと大人になってからこの状況に陥ったのなら、迷うことなどなかった。果歩をただの女として見られるのなら、罪悪感など抱くこともなかったのだ。多少抵抗されたとしても、女をひとり押さえつけるくらい篤志には造作もないことだった。

 迷うことなく抱けたはずだ。

 そして英司から奪ってやったと快哉を叫んでいただろう。


 だが果歩はまだ子供で……。

 そんな風に奪い取ることなんか考えつかないほどに、篤志にとって果歩は唯一無二の存在だった。

(果歩はもう分かってる。俺のくだらねえ独占欲も、10年前に俺がしたことも全部……。俺が今も思い出せずにいることまでなにもかも……)

 断片的な光景だけは苦々しく蘇ってくる。

 ジャングルのほらあなで英司のシャツにしがみついていた果歩の小さな手を、力づくで引き剥がしたくて堪らなかったこと。

 子供部屋の布団の中で、虎がこわいと身体を摺り寄せてきた果歩を抱きしめていたときの充足感。英司がいないと泣き出すまで……篤志はこれ以上ないほど満たされていたのだ。

 その小さな首を締め上げながら、もうこれで、果歩があいつの名を呼ぶことはないんだと感じたこと。


 あのとき抱いた殺意は、今篤志の身体を満たしている欲求と……あまりにも似すぎていた。

あっちゃん、足……。
……ちっ!
 腹立ちをぶつけるように座面に拳を叩きつけて、篤志は身体を起こした。

 果歩の身体がまたびくりと大きく震え、そのまましゃくりあげるように息を呑んで黙り込んでしまった。

 何もしないから安心しろ。

 そう言ってやりたいが、今は逆効果だろうと篤志もまた言葉をつまらせる。

 ただそばにいるだけで……果歩を怯えさせる存在であることが篤志には堪らなく辛かった。

食い物がないか探してくる。

おまえはもう少し寝てろ。

 果歩のほうを振り返りもせずにそう言い放って立ち上がる。

 危うく床に落ちているチョコスナックの箱を踏みそうになっていた。

………………。
 忌々しく息を吐いてその箱を拾うと、篤志は無言のまま果歩の前に突き出した。
あっちゃん……。

 果歩は篤志を見上げた。

 差し出された箱ではなく篤志の腕をつかむ。床に落ちた箱からチョコスナックが転がり出て、ばらばらと床に散らばった。

行っちゃ……やだ。

 振り払われるかもしれないと思いつつも、果歩は指先にぎゅっと力を込めて篤志の腕を掴んだ。

 その手を離すのがこわい。

 ここで離れ離れになったら……きっとあのお伽話と同じように2度と会えなくなってしまう。

 そうしたら……。


 すべてが終わるのだ。

果歩……。

 丸く見開いた果歩の目が、記憶の中の犬と重なった。

 そしてひとつの光景が、滲むように蘇ってきた。


 まだ早朝だった。

 朝というより、10年前には真夜中のように感じられた時間だ。室内もまだ暗く、天井から吊り下げられたペンダントライトの豆電球の灯りだけがひっそりと光っているだけだった。その薄暗い中で、篤志は、子供部屋の布団の中でぐったりと力を失っていた果歩を見下ろしていた。

 あのときも、果歩の白い首に赤く篤志の指の跡が残っていた。

 その篤志の背後に、誰かが立っていた。

『大丈夫。果歩は死なない』

 男の声だった。振り返って顔を見ることはしなかったのかもしれない。はっきりとは思い出すことができなかった。

 だが見知らぬ男ではない。

 当時の篤志にとっては、ずっと身近にいて……警戒することもなかった相手。

 同じ男の声を、篤志はあの大間崩壊の炎の中でも聞いた。

 残念だ、と言っていた。

 炎にあぶられて立つ篤志を見下ろしていた男の顔もまた、ぼんやりと靄がかかったように不鮮明だ。

『おまえなら適任だと思っていたのに。こんな中途半端な状態で果歩が目覚めてしまうとはね。残念だよ、これでは……』
 男の声は笑っているようにも聞こえた。

 篤志を笑っているように……。

 死んでしまった果歩を笑っているように……。


 そして敗北の瞬間が目前に迫った自分自身を嘲笑しているように。

『これではゲームに勝てない』

 篤志とその男がにらみ合うその周囲で、すべてのものが燃えていた。

 鉄骨が飴のように溶けて、人間が薄っぺらい紙のように燃え上がるその光景の中で、篤志とその男だけが炎の熱を感じていなかった。


 篤志にはどうしても男の顔を思い出すことはできなかった。

 だがそれが誰なのかは、はっきりと分かっていた。

そうだったのか。

あの男は……!

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