【共幻社公式作品】ジャングルに虎がいる

3-06 記憶

エピソードの総文字数=5,199文字

何やってんだろ、私……。
 出てくるのはため息ばかり。

 冴えない気分だった。

 朝からずっと、同じことを繰り返しているような気がする。出かける予定などないのに何度も時計に目をやって、見てもいないテレビがつけっぱなしになっていることに苛立ち、いつのまにか冷めてしまったコーヒーを流しに捨てて、コーヒーメーカーをセットする。

 そしてふと気づくと相変わらずテレビはつけっぱなしで、新しく淹れたコーヒーも飲む気を失っていた。

 リビングとは名ばかりでキッチンの延長に過ぎないその狭い空間で立ったり座ったりを繰り返しながら、百合はずっと茂が来るのを待っていたのかもしれない。

 昨日茂に渡すつもりだった果歩のスマートフォンが、まだダイニングテーブルの上に投げ出してあるのを見つけたのは――昼を過ぎてからだっただろうか。

そういえば平日の昼間にこうして家にいるなんて、引っ越してきて初めてかも。

 隣接する児童公園は日中はさぞかし賑やかなのだろうと思っていたのに、案外その声も遠く感じる。

 公園にいるのはまだ幼稚園にも上がっていない小さな子供がふたり。一方は砂場、もう一方は馬の形の遊具で遊んでいるだけで、歓声のひとつも上がらなかった。母親たちの方もベンチに離れて座って静かに子供を見ているだけで、親しげな会話はなさそうだった。

 この近辺に、小さな子供のいる家庭はそれほど多くはないのかもしれない。

大間とは……ずいぶん違うのね。
 大間団地の庭の一角にはブランコや滑り台も置かれてちょっとした公園程度のエリアがあり、小さな子供の姿があふれていた。

 歓声を上げる子供、オモチャの取り合いに負けて泣き出す子供の声が、うるさいくらいだった。そのエリアにつながる広場では、何度自治会が注意を呼びかけても小学生の男の子達がサッカーや野球に精を出し、駆け回る子供たちのスニーカーに削られて、いつも芝生は擦り切れたまま放置されていた。


 百合が姉夫婦の住んでいた大間団地に出入りするようになったのは果歩が生まれてからだ。

 一回り以上も年が離れていた姉は、母親が早くに亡くなったせいか百合のことを猫可愛がりしていた。百合にとっては母親代わりのような存在だったが、中学に上がり、姉の過保護を少し鬱陶しく思うようになっていたころだ。姉にも周囲にも早く一人前に認められたいと焦る気持ちが強かった。

(赤ちゃんが生まれたら、お姉ちゃんは私を頼りにするかもしれない。きっともう私のことを子供扱いはしなくなる)
 当時住んでいたY市の家から大間団地まで、バスと電車を乗り継いで40分程度の距離だった。

 百合も、ちょうどそのくらいの距離をひとりで行き来できる年齢にもなっていた。出産の後体調を崩した姉を見舞いに行って以来、特別な用事がない限り週末になると姉の家に泊まりに行って果歩の世話を手伝うのが、なんとなく習慣になっていた。

でも多分、そんなの口実よね。

私、大間が好きだったから……。

 大間団地には他とは違う雰囲気があった。

 百合はそれを、沼と藪しかなかった場所に忽然と街が築かれた不自然さなのだろうと感じていた。老人の姿を見かけることはほとんどなく、同じ団地の住人だという気安さから子供を遊ばせる合間に談笑しあうことも少なくはない――だがその気安さとは裏腹に、目の前の若い母親が何号棟の何号室に住む誰なのかを知らないことに、何の違和感も抱かない。そういう、新しい街にありがちな不自然さなのだろう、と。


 そういうしがらみのなさが、百合には好ましく思えた。

 百合がそこにいても誰も気にしない。誰も百合を疎ましい目で見たりしない……。


 行き交う人と人の間にいないはずの誰かの気配を感じたり、時として空気がぴんと張り詰めて、この団地がそっくりそのまま、何か見えない壁に囲まれているようだと感じることにもすぐに馴れてしまった。

 威月に最初に会ったのは、果歩が2歳の誕生日を迎えた頃だった。

 百合はちょうど今の果歩と同じくらい……中学に上がってすぐのころだ。それまでもやもやと形のない印象しかなかった大間という土地の特異性を、初めて百合が目の当たりにしたのもその時だった。

あのころ、多分……威月もまだ子供だったのよね。

新宿の地下で見たときには、びっくりするぐらい大人っぽくなってた……。

 10年前の威月は、外見上だけなら15~6歳の少年……のように見えた。

 だが威月が人間とは異なる存在なのだということは一目でわかった。

 それでも不思議なほど、怖いとか不気味だとかいう感情はわきあがってこなかった。〈妖怪〉などという呼び名も思いつかなかったくらいだ。


 小さな子供と若い夫婦ばかりだったあの団地で、百合にはむしろ威月が自分に近しい存在なのだと思えた。

『何を見てるの?』

 言葉が通じるのかどうか、その確信を持てないままに百合はそう声をかけた。

 返事は、すぐには返ってこなかった。

 長い沈黙を待つ間、百合はずっと視線をそらさずに威月を見つめていた。

『何も……』

 そうしゃべる時にも威月の唇は動いていなかった。

 その顔が作り物のようだと思ったのが、作為的なほどに端正なその顔立ちのせいではなく、見つめている間ずっと、ただの一度も瞬きをしていないせいなのだと気づく。動いていないのは唇だけではなかった。皮膚の下にある筋肉のほんのわずかな動きさえ、感じ取ることができないのだ。

『お伽話のことを考えていたんだ』
『お伽話……?』
『ここに住む子供たちはみんなその話を知っているみたいだ。きみは知っているかい? ジャングルに……』
熱……っ。
 コーヒーカップが口に触れたその熱を感じて、百合は我に返った。

『ジャングルに、虎がいるって』

 一瞬、耳の奥に威月の言葉が聞こえたような気がした。

 顔を上げた時、窓の下の児童公園が視界に映った。そこに、茂が立っている。遠目ではあっても茂がこの窓を見上げて、百合の様子を気遣っていたのだとわかった。

 たった今聞いた威月の言葉はただの記憶の反復ではなかったのかもしれないという錯覚が、百合の中にわきあがってくる。

(まだ私、忘れられずにいるんだ)
 自嘲するようにそう思いながら、それでも百合はダイニングテーブルの椅子に引っ掛けてあったカーディガンを羽織り、果歩の携帯を掴んで玄関へ走っていた。
(威月の指が触れた時の震えを……今も恋しがってる)

 百合の行動に、茂のほうも気づいていた。

 つまづきそうな危なっかしい足取りで百合がマンション正面玄関の階段を駆け下りたとき、茂は児童公園からマンション前の道路へ出てきたところだった。

大丈夫ですか?

 茂は駆け寄って、百合に手を貸した。

 百合は脱げかかったサンダルをもう一度履きなおして茂を見上げる。

いるのに気づいてたなら、どうして上がってきてくれないの?

 開口一番、百合にそう詰め寄られて茂は少したじろいだ。

 化粧っけのない素顔には、威月の記憶にある10年前の百合の印象が強く残っている。以前はまっすぐに切りそろえて額を隠していた前髪が、うねるようにカーブして白い額を縁取っている。眉は細く整えられ、頬の線が少し固くなって確かに大人びて見えるのに、その表情は以前のままなのだ。

……何も言わずに、行っちゃうつもりだったの?

 尻つぼみに気弱になっていく口調。

 その百合を見下ろして、茂はどきりとした。

 百合の目がすがりつくようにまっすぐに自分を見上げている。その目が見つめているのは福島茂ではなく威月だった。どんなに姿形が変わっても、百合のその視線は内在する威月の意志を捉えている。

迷ってたんです。

……今もまだ、迷っています。

 茂は言った。

 確かめたい、という気持ちは今も変わっていなかった。

 だがそれは百合が威月に隠していたかった真実を暴き出す行為なのかもしれない。

果歩たちに何かあったの?
いえ……そういうことではないんです。

ただ、百合さんに尋ねたいことがあって……。

 茂は言葉を濁した。自分の迷いが、もどかしくも感じる。

 以前の威月であれば、迷うことはない問いだったのかもしれない。あるいは第三者である茂ならば、もっと事務的にその問いを発することができただろう。

 だが今の茂は百合の傷に無関心でいられない。

 そのことが堪らなくもどかしかった。

上がっていって?

コーヒーでも入れるわ。それくらいの時間ならあるでしょう?

百合さん。

いえ……百合。

 茂は部屋に向かおうとした百合の手を掴んでひきとめた。
きみは子供を産んだのか、百合。

それが果歩なのか?


――果歩は、私の子なのか?

え……?
 振り返りざま、百合の百合の目が大きく見開かれた。
…………。

 唇がただ震えるだけで、百合の思いは言葉にならなかった。

 あの夜の光景が、まぶたの裏に鮮明な映像となって蘇る。

 いつも見ていた悪夢のように、全身を包み込む冷たい震えを呼び覚ます。

(なんで、私、忘れていたんだろう……)

 忘れられることなどあり得ない出来事だったはずなのに……。

 行方不明になった果歩が見つかったあの朝、果歩が見知らぬ女性に手を引かれて歩いてくる。その薄っぺらな光景がいつの間に記憶に紛れ込んだのだろう。

 畳の上に寝かされたまま、ぐったりと力を失っていた果歩の小さな身体。

 姉のすすり泣く声。

 それをふすまの陰から見ていたあの記憶が……どうしてあんな薄っぺらな光景にすり替えられてしまったのだろう。なぜ今の今まで手繰り寄せることのできない暗がりに埋め続けられていたんだろう。

『百合ちゃん……』

 隠れていたのに、そのふすまを開けて百合の前に立ちはだかった、義兄の姿。

 そしてあの言葉が、もう一度繰り返されるのを百合は確かに聞いた。

『果歩を生き返らせる魔法がひとつだけある。それにはきみの協力が必要なんだよ、百合ちゃん』
私の、という言い方は今はもう違っているのかもしれませんが……。


あなたは10年前、大間で威月という妖怪と関係を持った。

その時に――。

 茂の声が、記憶の彼方から蘇ってきた義兄の言葉に重なった。

 一瞬、百合は時間の経過を見失っていた。あれからもう10年も経ったのだという事実を見失い、今もまだ可愛い姪っ子の死に直面したあの現場に取り残されているような気がする。

それは……あなたの求めている答えの半分だけよ!

 その声が悲鳴のように茂の声をさえぎった。

 せめてその先を茂の口から言わせたくはない。

果歩と私の赤ちゃんを両方とも助けるにはそれしかないって……そう言われたの。

でもそれがどういうことなのか、私には分からなかった。その言葉にうなずくより他に、どうすればいいのかも分からなかった。

そしてそのことをずっと、夢の中で聞いた約束のように忘れてたわ。


あれはどういうことだったの?


あなたが茂くんの中に〈滞在〉しているのと同じこと? お義兄さんは〈滞在〉とは言わなかったけれど……。

 百合の言葉が次第に力を失い、もつれるように要領を得ないものになっていくのを、茂は呆然と見つめていた。
誰が、何を言ったって……?

百合さん、ちゃんと話して下さい。

百合さん!

 茂は眩暈を覚えていた。

 百合の肩を掴んで激しく揺さぶりながら、彼女の表情が、頼りなく世間知らずな14歳の少女に戻って行くのを責めるように見つめている。

お義兄さんが、言ったの。

そうすればきみは……って……。

『そうすればきみは、威月の子を殺さなくても済む』
だから……だから、私……。

 百合の声が切れ切れに涙でかすれる。

 もうこれ以上、彼女に思い出させたくなかった。

 だが、もはや自分の足で立っていることもできないほどに取り乱している百合の身体を支えながら、茂はどうしてもその百合の話をさえぎる言葉を見つけ出すことができなかった。

 そして百合は、見失っていた記憶がとめどなく溢れてくるのを自分でももうどうすることもできなかった。

私……その言葉に頷いたのかのかしら。

それとも、イヤだと言った?

でも本当は怖かっただけかもしれない……あなたの子供も、自分の身体の変化も、果歩の死も、義兄も……私の赤ちゃんを死んでしまった果歩の身体に封印することも……何もかも……。

 義兄の顔を見つめ、ぼんやりと意識を失いながら、赤ん坊の声を聞いたような気もする。そして目覚めたときには夕方になっていた。義兄の姿はなく、果歩は窓際のベビーベッドで何事もなかったように眠っていた。

 ただ姉は放心したように虚空の一点を見つめて動かなかった。

 その日の深夜、大間団地を崩壊させた炎が迫るまで……姉はずっとそのまま、真っ暗な部屋に膝を正して座ったまま、凍りついたように動かなかった。

あれが始まりだったのね。

そうでしょう?

 茂は取り乱す百合の肩を掴んで抱き寄せる。

 他にできることなど、何もなかった。

(ドクターは、そうやって王牙の核を手に入れたのか……!)

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