【共幻社公式作品】ジャングルに虎がいる

4-15 ガキだったころ

エピソードの総文字数=4,232文字

…………?

 周囲の静けさに、英司はゆっくりと顔を上げた。

 まだ視界がぼやけている。

 ほんのわずかに頭を動かしただけで、床がぐらりと傾くような不快感が襲い掛かってきた。身体が震えるほどの激しい痛みも変わらず感じていたが、意識ははっきりしていた。

果……歩は……。

 柔らかな肌の感触が手のひらにある。

 さっき掴んだまま、ずっと果歩の腕を握り締めていたのだ。

 果歩は床に倒れたまま、英司の方に顔を向けていた。

 目は閉じている。

 まるで死んでいるように見えて、英司は一瞬、息の詰まるような衝撃を受けていた。

果歩……。
 そう呼びかける。

 その声に反応して果歩は微かに動いた。瞬きよりも小さな……瞼の動き。果歩の瞼をふちどっているまつげが、筋肉の動きで震えるように動くのを見て、英司はようやく果歩が生きているのだと実感することができた。

(良かった。生きてる……)

 そのまつげの上にごく小さな白っぽいゴミがついているのを見つけて、英司はゆっくりと手を伸ばしてそっと払いのけてやった。

 焦点が定まらなかった。

 指先が震えて力加減も良く分からない。まつげのふちに乗ったゴミをただ払いのけるだけの作業に、果歩の目を気遣って指先に全神経を集中しなければならなかった。

 指先をくすぐるようにさらさらとまつげの感触が伝わってくる。

 激しい痛みに苛まれる中で、英司はそのちっぽけな感触に泣きたくなるような安堵感を覚えていた。

…………!
 痛む身体を動かして、英司は周囲の状況を探った。

 果歩の向こうに篤志がいる。

 さっきまで凶暴な衝動に突き動かされていたのが嘘のように、篤志は静かな表情だった。ひっくり返ったソファに背中を預け床に座り込み、英司と果歩を見下ろしている。

 脇腹の傷からはまだ出血しているようだったが、忌々しいことに痛みなどまるで感じていないように見える。


ガキだったころのことを思い出してた。

 英司が意識を取り戻したことに気づいて、篤志はぼそりとそう口にした。視線はじっと果歩に注がれていて、まるで独り言のようだ。

思い出せたのは、この床に俺とおまえと果歩の3人で寝転がってたときのことだ。

狭っ苦しいソファの下にもぐりこんで、おまえはいつも言ってただろ、ここはジャングルのほらあなだって、そう……。

…………。

 力を振り絞って身体を起こし、英司はジーンズのポケットに入れてあった煙草の箱とライターを取り出した。

 1本取り出してくわえて火をつけると、ライターを箱にねじ込んで残りを篤志の方へ投げる。


ありがてぇな。

 そう小さく言って煙草の箱に手を伸ばす。

 美味そうに一服吸って、篤志は吐き出した煙を追うように視線を泳がせた。


おまえにも……見えてたんだろう? 英司。
……え?
虎のいるジャングルの光景が……さ。
ああ……そのこと……。
おまえも果歩も指をさしてさ、言ってたろ。

鳥はあの木の枝で鳴いてるんだとか、葉っぱの陰に虎がいるとか、女が喰われてるとか……。

 不意に言葉が途切れた。

 篤志はもう一口煙草を吸い、少し腰を上げて座りなおした。その動作がわずかに辛そうだった。血に染まった脇腹を押さえ、顔を歪めている。

それが……?
俺には、ただの緑色の床しか見えなかった。
え……?

 篤志の言葉の意味がすぐには分からず、英司は言葉を失った。

 それは聞いている方が切なくなるような、無味乾燥な声音だった。

気づかなかっただろ?

……何があってもおまえにだけは絶対気づかれてたまるかって、隠し続けていたからな。

 英司を横目に、篤志は自嘲するように笑った。

あのころも、気付いていたんだよ。

おまえと果歩はただでたらめにそんな話をしているんじゃなく、その言葉通り同じ光景を見て、共有しているんだと……。

同じようにソファの下にもぐりこんでいるのに、俺だけが、本当はジャングルのほらあなになんかいないんだってことも……。

 それがずっと、腹立たしいほど悔しかった。

 あのころはおくびにも出せなかったほどに……悔しかったのだ。

でも虎が来たときに果歩を守ってやれるのは……アイツじゃない。

 だから篤志は負け惜しみのようにそんな思いにしがみついていた。

 いくら果歩と同じ光景を見ていても、虎が来たらおしまいだ。泣き虫の英司になんか、何ひとつできっこない。

 お伽話の将軍や盗賊や、あの哀れな王子と同じように……何もかも、果歩さえも捨てて逃げて行くだろう。

 英司を誰も責めやしないだろう。

 みんな仕方ないことだと納得し、英司に同情さえするかもしれない。

でもジャングルから逃げてきた理由を尋ねられて、英司が一度でも虎のことを口にしたら、そのときは――俺の勝ちだ。

ジャングルに虎がいるからじゃない。

負けたのは、アイツが弱いからだ。

臆病者の、泣き虫だからだ。

俺は負けない。

絶対に果歩を見捨てて逃げたりしない。

例え、ジャングルに虎がいても……。

果歩がさ、あんたのこと〈あっちゃん〉って呼んでるだろ。

俺は英司って呼び捨てなのにさ。それって何でか、考えたことある?


ホラ――腹減ってんだろ?

 突然英司が口を挟んだ。

 英司は荷物を探って惣菜パンとウーロン茶のペットボトルを取り出し、篤志の方へ投げた。

 茂が平和的な解決方法を模索した結果だろう。前回とは違い、今度のペットボトルはどれも500ml入りのものばかりだ。

さあな……。

 篤志は煙草を捨て、パンに手を伸ばした。

10年前、俺たちがそう呼び合ってたからだよ。


………………。

 袋を破いて取り出したパンにかじりついた篤志の動きが、一瞬止まった。

あんたは覚えてないのかもしれないけどさ。

……俺とあんたは大間団地で兄弟みたいに育ったんだ。

 英司もすべてを思い出したというわけではなかった。

 両親のこと。

 学校のこと。

 一緒に遊んだ友人たちのこと。

 事故の前の日常の生活の記憶は普通に残っているのに、まるで削り取られたように篤志の存在だけが消えていたことに気付いた――と言ったほうがいいのかもしれない。

学校に行くときも、広場で野球をするときも、いつも一緒だった。

新しい棟を作ってる造成中の工事現場にもぐりこんで、カブトムシ探したりとかさ。

あのころまだ少しだけ残ってた沼に、俺はどうしても足を突っ込めなくて……よく弱虫だって馬鹿にされてた。

あんたは、ザリガニ捕まえんのが一番上手かったんだぜ。

 いつも〈あっちゃん〉と呼びかけていたその少年が存在していたことは英司にも思い出せる。だがその顔をいくら思い出そうとしても、まるでノイズに消されたように記憶が不鮮明だった。

 

あんたの親父さんのことは覚えてないけど、お袋さんはこのクリニックに勤めてた看護師かなんかだったと思う。

きっと、忙しかったんだろうな。

うちのお袋が入院してたときに世話になったりとかして、そのお返しだったのかもしれない。よく俺の家で夜遅くまで一緒に遊んでたんだ。晩飯一緒に食ったりとか。

……夏にベランダで一緒にスイカ食いながら、どっちが遠くまで種飛ばせるかとか、くっだらないことでケンカになるまで競争したこともある。

なんだ、それ……。
競争はともかくケンカに勝つのはいつもあんたで、俺がべそべそ泣き出すと決まってうちの親父が止めに入ったんだ。

会社の休みが取れたらおまえたちを連れて海へ行ってやるぞとか……よくそんなこと言って俺をなだめてた。

……けど内心は多分、めちゃくちゃ苛立ってたんだろうな。

親父は、あんたみたいなガキ大将の息子を持つのが夢だったからさ。

まるっきり、そのへんの普通のガキじゃねえか。


そうだよ。

あの事故さえなければ、ただの平凡な小学生だったんだ。

俺も、あんたも……・

海……行ったのか?

あのころ、親父は仕事が忙しかったからな。

約束がのびのびになってるうちにあの事故があって、そのまんまさ。

――親父もお袋も死んだ。

………………。

 何か言葉を飲み込んで、篤志はまたパンを食べ始めた。

 カレーパンを2口でろくに咀嚼もせずに飲み込み、目の前にウーロン茶があるのにそんなものには目もくれずソーセージパンにかじりつく。

 見ている英司のほうが、息苦しくなるような食べっぷりだった。

俺はずっと――俺たちがこんなことに巻き込まれたのは、あのお伽話の因縁とか、ドクターとか言うやつの策略とか、そういうもんのせいだと思ってた。

でも本当は、そんなのきっかけのひとつでしかなかったのかもしれない。

今は……そう思う。

じゃあ、何でだ。
果歩はずっと、ジャングルのほらあなに戻りたがってたんだと思う。

俺も同じだ。

果歩が戻りたがってた理由とは多分同じじゃないけどさ。やっぱり戻りたかった。ここは俺の育った場所で……家族との思い出もここにしかない。ここが俺の場所だって気がするんだよ。

――たまたまここに来たのが俺たちだったんじゃない。もしここに来ることがなかったとしてもいずれ俺とあんたと果歩は、どっかでめぐり合って、おんなじことをしてたんじゃないか?

俺と決着をつけて、果歩を手に入れるためにか。
あんただってそうだろ?

ここに戻って、失った過去を取り戻したいとずっと思い続けてた。

だから俺たちはあのお伽話を忘れられなかったんじゃないのか。

そうかもな……。
別に、もう一度あんたと殺し合いみたいな真似したいって言ってるんじゃないぜ?
ああ。

――わかってるよ。

それ食い終わったら、少し寝てろよ。

じきにフクスケさんが戻ってくるだろ。

それに……多分あんまり猶予はない。もうひと波乱ありそうだからな。それまでお互い、少しでも休んだ方がいいだろ。

顔つき合わせてたんじゃ、またろくでもないことになるから俺は向こうに行くよ。

どうせあんたは動けないだろ、その傷じゃ……。

 英司はそう言って腰を上げた。

 ほんの少し身体を動かしただけで悲鳴をあげるような痛みが襲い掛かってきたが、それでも倒れている果歩を抱き上げてホールの反対側まで歩くくらいのことはできるだろう。

 衣砂が封印から解き放たれるまでにどれほどの猶予があるのかは分からなかった。

 だが……茂が戻ってくるまででもいい。

 少しの間だけでも果歩を篤志から引き離して落ち着かせたかった。

 果歩が目を覚ましたときに、もうあんな悲痛な声を上げさせたくない。

果歩……連れてくよ。
今度はおまえが抜け駆けをする番だとでも言うつもりか?
 篤志の口調は揶揄するように強張ったものだったが、何も答えず果歩を連れて歩き始めた英司を止めようとはせずに、じっと見送っていた。

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