パナギアの童女は茶室で微笑む ――その女は死を知らず、ただ眠るのみ――

ローマ字といえばヘボン式!ヘボンさんは元祖・中二病なのか?

エピソードの総文字数=4,315文字

 姐は茶室を去り、店に戻った。

 残った我々は、ようやく、長閑(のどか)な土曜の午後を取り戻すことができた。ようやく過ぎて、感涙が出そうなぐらいに。

 既に、瓶白手作りの茶菓子は尽きたらしい。だが、彼女の備えは万全だ。〝すみません、既製品になりますが〟の謝辞とともに、有名店製の一口薯蕷饅頭(ひとくちじょうよまんじゅう)を差し出してくれた。
 ひょっとして、このまま三日三晩ぐらい茶室に籠もっていたとしても、彼女は何か、永遠に茶菓子を出し続けることも可能なのかもしれない。

 俺の妄想はともかく、彼女は、目の前で宝瓶(ほうひん)を器用に使い、()()ての甘い玉露も追って差し出してくれた。茶碗を手にしたところ、湯温は五十度というところか。
 なお宝瓶(ほうひん)とは、主に玉露用を楽しむために用いる小型の急須である。ぬるま湯を使うため、また湯量が少ないため、一般的な急須と違って〝持ち手〟が存在せず、直接急須本体を鷲掴みにして用いる。喉を潤すためではなく、玉露の旨味を楽しむためだけの贅沢な茶器。通例、〝宝瓶・湯さまし器・茶碗〟の三点がセットになっているのが一般的だ。
 俺が、山城の〝雲林院文庫〟で古典書物を漁る途中、〝茶の時間だ〟と言っては、そこの庫主からよく頂いた記憶がある。何せ、宇治とは目と鼻の先という立地条件。
 とはいっても、宇治といえば、源氏物語宇治十帖の頃から、入水で即死できるほどの流れが急な〝川〟と、当時の現地人をコキ使い、西方極楽浄土を模した〝平等院〟があるぐらいで、茶の栽培にはそれほど向いていない。寧ろ、茶を育てるというよりは、淹れるのに向いた、名水があるぐらいの土地だ。
 宇治が茶で有名なのは、茶を扱い、卸しているからであろう。築地に魚が数多く居るのと同じ理屈。……やはり魚は〝海〟、茶の栽培は〝山の斜面〟でないと。

 しかもこの玉露というヤツは、この旨味のためだけに、収穫前の茶葉を黒布で覆い、
イジメ抜いて育てるという。聖書で言うならば、まるで〝ヨブ記〟のヨブのように。ヨブの魂の〝旨味〟は、試練を経て二倍になったのだろうか? 聖書の上では、ヨブ記全四十三章の内、その四十三章後半でようやく財産が二倍化するなど、無理矢理のハッピーエンド感が漂う記載なので、個人的には返って気になっているところだ。

 ちなみに、ヨブは〝ウヅ〟の地に住んでいた。玉露という茶葉のイジメに縁の深い〝宇治(ウジ)〟と発音が似ているのは、仏教徒でも知っている公然の秘密だ。

 俺が茶碗を握ったまま〝ヨブ記〟と〝玉露〟におけるイジメの関連性を一人アホ顔で妄想していた頃、瓶白が話しかけてきた。しまった、ホストを置き去りにしてしまっていた。

「私、饅頭は薄皮派ですが、金剛寺兄弟は如何でしょうか? それとお茶は、前回と同じ茶葉の、玉露になります。今回は、暖かいですが……」

 俺は慌てて感謝の言葉を述べてから、俺は、とろみのある茶を啜った。
 なお、俺は薄皮派というよりは、油脂(ファット)派だ。乳製品(クリーム)牛脂(ヘット)豚脂(ラード)の金剛寺式三位一体説は……黙っておこう。

 それはともかく、先刻の姐の非礼を俺は詫びてみた。

「……姐は、その、いつもあんな(・・・)感じなのだが、突然の姐の来訪に対応してくれてありがとう。
 飲食物の準備というよりは、なにせ、ほら姐の性格がアレなもんで、初対面(・・・)の瓶白は面食らったかも知れないがな」

 ――あの(・・)姐は、悪人か善人か――というカテゴライズでいうと、ギリギリで悪人側では無いのかもしれないが、物事を受け入れる幅に関しては……単に狭い。つまりは〝不寛容〟なのだ。それでいて心の奥行きは、意外と深い。ウナギ寝床のような精神構造とでもいえば良いのだろうか? 

 だがそのウナギの寝床構造が、姐が生きる上において色々なストレス、あるいは社会的軋轢を生じさせる原因となっているのは言うまでもない。そう、あの姐はピーキー過ぎて、俺には無理だよ、色々と。

 しかし考えようによっては、意図的に人を避けるために、姐はあのように振る舞っている、と考えることもできる。ウナギの寝床の深淵部までは、俺はまだ、覗き見たことがない……。兄貴とはまた違うタイプの策士なのかもしれない。

 というのも俺は、姐の思考、意志決定機構が読めない部分がある。――というよりは、彼女は予め、未来に何が起こるのかを知った上で、対策と方針を練っているとしか思えない時が、希にあるのだ。勿論、いかなる人間も、未来を伺い知ることはできないのだが……。

 また果たして、瓶白と姐さんの二人が初対面だったのかどうかは微妙なので、探りも少し入れてみた疑問文を投げかけたが……恐らく瓶白にはスルーされるだろう。何せ、二人とも、この話題に触れなかったのだ。初対面なのか、あるいは、二人とも初対面のフリをしているのか、俺には解らない。

「いえいえ、なかなか楽しい時間を過ごすことができましたよ。これは決して、リッピサービスなどということはなく」

 初対面か否かはスルーか。無難な受け答えだ。瓶白は続けて答える。

「普段、カトリックという集団に属している私としては、聖体礼拝について考え直さざるをえない、良い機会でした。ローマ・カトリックが封印していた二種陪餐(ばいさん)を復活させた〝銀鉱の(ストシブロ・ゼ)ヤコウベク〟さんの話は、恥ずかしながら、全く知りませんでした」

 そこは俺も同じだ。
 単に、ルターの宗教改革によって、ローマ・カトリックから分かれたのがプロテスタント、ぐらいに軽く思っていたのだが、その根底にはまだまだ俺の知らない歴史の流れありそうだ。
 特に聖餐の話とかは、普段、福音商店(エヴァンジェル)でも話題になることがなかったので、今日の姐の話からは、俺も得る物は少なくはなかった。

「……異教徒の金剛寺兄弟は、カトリックやプロテスタントの違いの話など、退屈ではありませんでしたか?」

「いやいや、退屈の正反対。この金剛寺は、国内に(あまね)く仏教諸派を取り纏める使命というのがあるので、かなり参考になったよ。
 〝異教の教義(ドグマ)、異教の極楽往生(ステアウェイ・トゥ・ヘブン)技術も良く知るべし〟という、古くからの寺訓がある。何せ〝金剛寺〟は、極楽往生のバーゲンセールで信者急増の歴史がある、浄土宗・浄土真宗からスピンアウトした寺だからな。
 とにかく、俺は小さい頃から新約・旧約の聖書もよく調べるように、と日々しごかれたものだ――例えば瓶白は、カール・ギュツラフの〝天神聖書〟は知っているか?」

「いえ、初耳です」

 ならば、俺が聞かせてやろう。

「〝ハジマリ ニ カシコイ モノ ゴザル コノ カシコイ モノ ゴクラク ト トモニ ゴザル〟とか。ヨハネの冒頭部分だな。読みにくくて、読みにくくて……」

「どうしてカタコトで話すのです?」

「聖書が全部、カタカナ表記なんだよ……」

 普段、漢字仮名交じり文章に慣れていると、仮名文字のみの、表音文字だけの羅列はかなり戸惑う。うっかり「オレサマ オマエ マルカジリ」等が挿入されていても、直ぐ気づくのは難しいだろう。

「そういえば全部カナの他に、全部漢文の聖書もある。〝神〟が〝上帝〟として訳されてる物とか……」

「さすがです、金剛寺兄弟……聖書の事なのに私よりも博識とか。どうして……」
 頂きました、略して〝さす(コン)〟の褒め言葉。

「いやいや、こっちは只の研究資料として見てるだけ。それに、読みにくいというインパクトが大きかったから、ついついおもしろ半分に読みふけってしまった記憶がある。
 ――そうだな、解りやすさや読みやすさという点でからみて、上質の翻訳聖書が日本で生まれたのは、プロテスタント宣教師にして医師、ジェームス・カーティス・ヘボン以降の翻訳かな? 〝元始(はじめ)言霊(ことだま)あり〟とか。ちなみにありえないルビを振るっていうのが、ヘボン訳、中二病テキストの真骨頂!〝本気〟と書いて〝マジ〟と読む、アレだよ。例えば、モーセの律法(おきて)!なぐさむるもの聖霊(みたま)耶蘇(イエス)キリスト……」

「J. C. ヘボンといいますと、あのローマ字における〝ヘボン式〟の方ですよね?」

 そう、ヘボン。御トイレにオシャレをしていないがゆえに批判される物品とは、少し違う。今風に言えば、ヘプバーン。女優オードリ・ヘプバーンも、この宣教師J. C. ヘボンも、ファミリーネームはHepburn、とスペルは同じ。
 昨今のラノベ小説家なら〝JCヘボンのおしごと〟とかで深夜アニメも狙える新作を書けそうな勢いだ。何せJCだから。何せJCだから。

「――彼こそが、金剛寺の〝寺〟を、訓令式のZIとするのか、ヘボン式のJIとするのか……幼い時の俺を悩ませる原因を作った、張本人!」

「私だと、〝瓶白〟の〝し〟を〝SHI〟とH入りで表記しますね……ところで金剛寺兄弟、本日の目的について、何かお忘れではございませんか?」

 そうだとも。そのまま忘れて、実はそろそろお暇しようと思っていたところなのだが、なかなかそうは問屋が卸さないらしい。

 名前に触れたのはまずかった。瓶白の名前を当てた理由と、この部屋の揮毫解読の解説を、俺は未だしていなかった。何せ、このお嬢様から依頼された、急ぎの謎解きがあったからな。

 そういえば確か、これを解説する事が、前回の飲食代金に相当する、という話だったような? 無銭飲食は良くないか……と俺は思い直し、渋々と解説を始めることにした。

 とりえあえずこの玉露を、もう一杯ばかり飲み干してから。

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ヨブ記 1:1 「ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」
ヨブ記 42:10 「ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された」

 掲載したギュツラフの天神聖書の一部「ハジマリ ニ カシコイ モノ ゴザル コノ カシコイ モノ ゴクラク ト トモニ ゴザル」は、ヨハネによる福音書1:1~1:2のようである。
ヨハネによる福音書 1:1 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」
ヨハネによる福音書 1:2 「この言は初めに神と共にあった」

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