【共幻社公式作品】ジャングルに虎がいる

3-09 幸せの結末を待ちながら

エピソードの総文字数=4,785文字

 百合のベッドルームはこざっぱりとした印象だった。

 ベッドカバーとカーテンは材質は違うが同じグリーンの市松模様の布地で、家具はすべてオークのものでそろえられている。6畳程度の部屋にいろいろ詰めこまれている割りに狭さを感じさせないのはその統一感のせいかもしれなかった。

 この部屋にもまだ引越し屋のダンボール箱が2つ、クローゼットの前に重ねてあった。行き場の決まっていないらしい雑貨の類が箱の蓋を押し上げている。

何か、冷たいものでも飲みますか?

 茂がそう声をかけたが、百合は返事をしなかった。

 ベッドに斜めに転がったまま、赤く腫れた目で天井を見上げている。

 その枕もとに、まだ新しい書店の紙袋が出しっぱなしになっていた。『フレンチカントリーに挑戦! トールペインティングの初歩』という煽りが、紙袋からはみ出した雑誌の表紙に躍っている。

 ベッドの脇に立ったまま、茂はその光景を見下ろしていた。

 どう言葉をかけていいものか……まだ迷い続けていた。

(百合さんは待っているのかもしれない。以前と同じように、威月に求められるのを……)
 いや……。

 百合が待っているのは、『もう終わった関係だ』と告げられることなのかもしれないが。

(目の前にいる〈私〉が威月なのか福島茂なのかわからない居心地の悪さに、戸惑っているんだろうな……)
 その自覚はあった。

 茂自身もまだ自分の存在の不確かさを完全には受け入れられずにいる。

 百合にとってはその茂の戸惑いもまた、困惑に拍車をかけるばかりだ。百合には手出しのできない場所で窮地に陥っている果歩のこと。威月に甘えたいという気持ち。福島茂に対しては強がって見せなければならないという大人の意地。様々な思いがぶつかりあって、前進も後退もままならない場所に百合を追いやっている。

私、ひとりでも大丈夫よ?

 ぽつりとそう百合がもらした。

 その口調は少し拗ねているようにも聞こえる。

明日から、会社にも行けるわ。だからもう私のことは心配しないで。

――スマホ、果歩に届けてやってね。


それと……さっきの話し、絶対に果歩にはしないで欲しいの。もしかしたら果歩は自分で気づくのかもしれないし、周りの誰かが気づいて言ってしまうかもしれないけど……。

でも少なくとも、あなたの口からは言わないで。

お願いよ。

言うつもりはありませんよ。
――あのお伽話でも、子供が生まれるのよね。

 また百合の目が天井を見つめた。

 ペンダントライトの取りつけ金具のあたりをじっと見つめて、まるで独り言のようにそう呟く。

え……?
王子が女の人と別れる時に言うでしょう? 

『私の子が生まれるより早く虎を仕留めて帰ってくる』って……。

ああ、そうですね。

でも……。

子供が生まれたという話は出てこない。

 茂が口を挟んだ。

 だが百合はその言葉を聞いてはいないようだった。

私ね、そのことを考えてたの。

子供は、どこへ行ってしまったんだろうって。生まれなかった? それとも……死んでしまったのかしら。きっとあの女の人は子供を失ったことでとてもつらい思いをしたんじゃないかって思った。だから……あのお伽話を忘れられなかった。


馬鹿よね。

お伽話なんかよりもっとずっと大事なことを忘れていたのに……。

――大間に、〈ドクター〉と呼ばれる男がいるんですよ。

素性はよく分かりませんが、王牙を呼ぶゲームに深く関わっていたんじゃないかと私は睨んでいます。

小霧にゲームに関する知識を教えたのも、おそらくドクターでしょう。私たちが大間でゲームを始めたのも、もともとは小霧の発案だったんです。

で、そのドクターですが……。

彼は人間の間に入って生活をするのが上手くて、いくつもの顔を持っているそうです。

威月が福島茂に〈滞在〉しているのとはまったく別の方法で、彼は人間の輪の中に入っていくんです。同じ姿形のまま、素性を偽ってね。

 茂が突然話を変えたのだと百合には思えた。

 なぜ今そんな話をしているのか分からないままに身体を起こし、茂の顔を見つめる。

そんなこと……できないでしょう。

ひとりぼっちで生活しているわけじゃないもの。周りの人が気づくわ。

例えば……外出中にひとりの男が死んだとしましょう。

病気でも交通事故でも、原因はなんでもいいいんです。

同行者がいなければ、身元の確認には時間がかかりますよね。その男に家族がいたとしても、すぐには男の死が分からない。数時間……場合によっては数日、ときには何年も、男は身元不明の死体となってしまいます。

――そういう家にドクターが来るんです。

いかにもその家の父親が何事もなく会社から帰って来ましたというようにね。

もちろん男の妻も、その子供たちだって、夫や父親の顔を忘れているわけはない。その日の朝まで一緒に生活していたんですからね。

それなのにほんのわずかに記憶を操られただけで、帰ってきたのが父親ではなく、ドクターだとは気づかないんです。

男は、仕事を辞めて引越しをしなければならなくなったと家族に告げます。新しい土地でやり直そうとか……理由はなんでもいい。

経済的な破綻。

精神的な行き詰まり。

人間が行き詰まって新天地を求める理由はいくらでもある。

別に精神的に追い詰められていたり経済的に困窮していたりする事実は必要ないんです。

ドクターが一言、『このままではやってはいけない』と言えば、家族はみんな無条件に信じてしまう。


ドクターはそういうことの得意な男なんです

催眠術……みたいなもの?
まあ、そんなところです。

――ドクターは10年前まで大間で暮らしていました。もちろんそれも〈催眠術〉で手に入れた身分です。小児科医として団地の外れにあったクリニックに職を得て、そのことで優先的に団地への入居を認められた住人だった。妻と生まれたばかりの娘がいて、週末になると妻の妹が訪ねてくる……そういう生活を送っていたんです。

まさか……。

 そう訊き返した百合の言葉が震えた。

 それは茂の例え話の続きだろうか。それとも……。

ドクターなら、あなたの記憶をすりかえてしまうことだって可能だったはずです。多分……彼にとっては簡単なことだったでしょうね。
お義兄さんが、生きているって言うの?
彼は事故のあとも頻繁に大間に出入りしている。

多分私たちがゲームに興じていたことも承知していたでしょう。


それに……。

待って……何が言いたいの?

 百合は混乱しながら茂の言葉を遮った。

 だがその百合にぐっと顔を近づけて、茂は容赦なく言葉を続ける。

これはもう、私たちのゲームじゃないんです。

ドクターはおそらくずっと機会をうかがっていたんでしょう。自分の目的を果たすために、私たちに繰り返しゲームをやらせていたのかもしれない。苦心の末に手に入れた果歩ちゃんという絶好の核の成長を待ちながらね。果歩ちゃんを自分の手元に取り戻せば、今度こそ彼は目的を達成することができる。

目的?

……目的って何?

彼の目的は10年前も今も王牙を呼ぶことですよ。

呼ぶだけじゃない。

自分の意のままに王牙を操って、戦いを楽しむためです。

もう一度、大間を舞台に。

 それは推理ではなく、確信だった。

 茂は百合の横に腰を下ろし、その肩を静かに抱いた。かすかに手が震えたが、もう迷ってはいなかった。威月であれ、茂であれ……百合を支えたいという気持ちに変わりはない。

どうしてそんなこと、私に話すの?

お義兄さんが生きていたからって……あの人が果歩を使って何かをしようと企んでいたとしても、私には何もできやしないわ。

それなのに……。

これがあなたが知りたがっていた答えだからです。

あのお伽話に子供は出てこない。

生まれなかったか……生まれても、育つことはできなかった。

虎のいるジャングルはそういう過酷な場所だったんだ。

それだけです。

だからもう、気に病まないで下さい。

――あなたが赤ん坊のことを忘れていたのはあなたの問題ではないし、あなたが負うべき問題でもなく、彼らの都合に過ぎなかった。

あの当時あなたはまだ子供で、予備知識もなく、ただ彼らのゲームに利用されたんです。

……何の慰めにもならない話だわ。
 ぽつりとそうもらし、百合は自分から茂の手を振りほどいて立ちあがった。
あのお伽話のこと、百合さんは……どう思います?

なぜ王子は妻や子を捨てて逃げたんでしょうね?

王子は逃げたのかしら……。

私はそうは思わなかったけれど。

 百合はゆっくりと部屋の出口へ向かっていた。

 その足取りはまだ少しふらついていた。

 リビングへ1歩足を踏み出して、それから迷うように足を止め、茂の方を振りかえる。

逃げたとしても、私にはどうでも良かったのかもしれない。ただ……あんな風にお伽話が終わっていくことが寂しいと思ってただけ。

いつか王子が王国を捨てて女の人を迎えに来るようなハッピーエンドが、やっぱり私は好きなのね。


――女の人はきっとずっと待ってたんだと思うの。

王子の言葉を信じて、奇跡のような幸せな結末をずっと待ち続けていたはずよ。

でも次第に待つことに疲れていったのかもしれないわね。王子が死んだかもしれないと疑ったり、自分が捨てられたのかもしれないと疑ったりし始めて……やがて待ち続けていたその時間が大きな憎しみに変わったのかもしれない。

あのお伽話の最後がそんな風に思えて、私……とても怖かったの。

自分の恋人も、その王国までも焼き尽くすほどの憎しみなんて、どんなものか想像もつかなかった。

でも……いつか自分もそんな思いを抱きそうな予感がしていたから……。

あなたにとって、お伽話の王子は威月だった……?
多分ね……。

 百合は案外にそっけなくそう返事をした。

(ここにいるのは威月じゃなく茂くんだと思ったほうがいいのよね。そうすれば私は辛くないし、茂くんを困らせることもない。きっと、そのほうがいい。私はもう10年前の子供じゃないし、威月だって、もうあのころの威月じゃないんだから)

 あの惨劇以来ずっと長い間威月を待ち続けたのはあんな風に肩を抱いて慰めてもらうためではなかった。だが今更、それを期待するのは子供じみたことなのだと思えてならない。

(威月はきっともう二度と私を抱いてはくれない。だから……)
私が威月のままここに現れたら……お伽話とは別の結末があったのかもしれませんね。でももう、私とあなたには先はあり得ない。

 茂はまだベッドの脇に腰を下ろしたままだった。じっと百合を見上げている。

 百合を引き寄せて、抱きしめたいという気持ちが身体の奥からわきあがってくる。だがそれはできないという思いもまた、ずっと消えることがなかった。

 抱き寄せれば百合はきっと拒まないだろう。あの頃と同じように、威月を受け入れるに違いない。

(だがその時百合に触れるのは福島茂の腕であり、福島茂の指や唇だ。私ではなく――)

 馬鹿げた嫉妬--かもしれない。

 そう自分でも自嘲するように思いながら、威月としての意識が、茂と百合の出会いの光景を忘れることができなかった。


 果歩の保護者だという百合が、意外にも自分とさして年齢の違わない若い女だと知った時に、茂は百合に興味を抱いていた。

 それは……例えば通りすがりの見も知らない女をつい振りかえってしまう心理、雑誌をめくりながら取りたてて意味もない広告の写真に目を奪われる行為と大差ない些細な感情の動きに過ぎないのかもしれない。別に運命の出会いだとか好みのタイプだとかいう大げさなものではなかった。交際が日常化して行けば最初にそんな思いを抱いたなんてことは忘れてしまうし、逆にその後出会わなければ忘れ去って思い出すこともない……そんなもの。


 感情というよりは気分と言ったほうがしっくりと馴染むような思いに、威月は嫉妬している。

福島茂があなたを抱くところを、私は見たくないんです。
(もう、終わったことだと諦めた方が……ずっといい)

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