(If I Could) Change The World

エピソードの総文字数=5,817文字

 ラハブ号がイベリア半島に沿うように航路を取り、イギリス海峡に到達したのは明治42年12月14日だった。船長が言うには、最も幅が狭くなるドーバー海峡を通り抜ければ、目的地であるオランダのロッテルダム港までは一日足らずで着くという。
 空は雲一つなく、日差しが仄かであるために驚くべきほど白かった。波の立たない海は鏡となり、白を反射していた。風は止んでいたものの、大気が冷えており、俺は船に常備されている饐えたとうもろこしの臭いのする外套を着ていた。
 イギリス海峡に入ったあたりで、東の方角に大陸の突端に突き出た港が見えた。遠くから見る限りでも、多くの船舶が停泊しており、その奥に城壁らしいものも認められた。俺は航海士の一人を捕まえて、あの港町はどこの国のものかと聞いた。その航海士が教えてくれたところによると、あそこはフランスのブレストで、有名な停泊地とのことだった。大昔から続くイギリスとの幾度にも渡る戦争のために軍港としての歴史を持ち、ブレスト城という城塞もあり、観光名所になっているという。俺が見た城壁は鎮守府として建立されたものだったのだろう。
 俺はようやく自分が西洋に辿りつき、これからその文化や歴史に触れるのだという実感が湧いてきて、日本を離れてから久しぶりに上機嫌になった。この三か月のあいだ、不慣れな水上生活や停泊した土地での見知らぬ風習に辟易して、ふさぎ込むことが多かったのだ。俺の父は文明開化の影響を強く受けた人物で、日本文化よりも西洋文化を好み、一族の人間から反感を買うほどだった。西洋のものならば、どのようなものでも賞賛する危ういところもあったが、教養を得るためならば金に糸目を付けぬ気質のために、俺はその恩恵を受けることも多かった。特に洋書に関しては、どれほど高価なものでも取り寄せて、買い与えてくれた。俺が大学で英文科に進んだのも、その影響が大きい。西洋主義の考えを持つ父の下で育ったことで、西洋の文化や風俗には幼いころから通じていたが、洋書から仕入れた知識ばかりで、やはりこの身体で直にその気風に触れたわけではなかった。俺はこれから西洋の地に足をつけることに興奮を覚えていた。
 ラハブ号はまだ日が天頂に来る前にドーバー海峡に入った。ドーバー海峡はイギリス海峡の中で、最も狭い隘路となる地点のことを指しており、通り抜けるのは一瞬のことだった。そしてロッテルダム港が面している北海に出た。ところが見張りをしていた一等航海士が不穏な報告を船内に告げて回った。ドーバー海峡を過ぎたあたりから、1マイルほどの距離を置いて二隻の船が追ってきているという。船内が俄かに慌ただしくなり、これまで暢気にドローポーカーで賭け事をしたり、マンドリンを演奏していたりした航海士たちがそれぞれの持ち場についた。船尾から海を眺めると、確かに遠くに鉛の点のように見える船が二隻見える。俺はあの船は何なのかと船長室(キャビン)から出てきていた船長に聞いた。
「間違いなく海賊船だ。ドーバー海峡を抜ける前から狙われていた可能性が高い。イギリスのサウサンプトンかフランスのル・アーヴルの岬の影に隠れていたのだろう。そして通りかかった貿易船を尾行して、頃合いを見て襲撃をかける。あの二隻を振り切らないと非常にまずい。奴らに乗り込まれたら、こちらの戦力では勝ち目はない。まともな武器も積み込んでいないからな。このままロッテルダム港まで逃げ切るしかない」
 海賊船による追跡は目的地を目前とした最後の試練というべきものだったが、現実は非常かな、ラハブ号はこの危機を乗り越えられそうになかった。俺は船尾に陣取って、二隻の船の動向を窺っていたが、初めのうちはぼやけた点でしかなかったその形は徐々に具体的になっていき、細部が明瞭になっていき、何よりも大きくなっていった。
 風が止んでいることが致命的だった。九枚のマストをすべて張っても、風を捕まえることができなかった。さらに貿易船だから当たり前だからなのだが、ラハブ号は荷物を多く積んでいることが裏目に出た。どれだけ航海士たちが渾身の力を振り絞っても、船自体の重さのために思うように速度が出なかった。一方、海賊船は襲撃することを目的としているのだから、船足も速く、ついにはラハブ号に追いついた。
 海賊船はラハブ号を両側から挟み込む形になり、こちらはなすすべもなく係留されてしまった。三隻の船は索具で繋がれ、一つの生き物であるかのように船足を合わせて航海することになった。係留されたとなると、もはやラハブ号には対抗する選択肢もなく、甲板にウィンチェスターライフルを持った男たちが雪崩れ込んできた。
 海賊たちは英語で喚き散らし、こちらの乗組員を全員前甲板に集めるように指示した。俺たちは抵抗の素振りも見せず大人しく従った。船長からそのように命令が下っていたのだ。白兵戦となれば、間違いなく戦力の劣るこちらが惨殺される。その事態を避けるために、積み込んでいるものはすべて渡し、命だけは助けてもらう算段になっていた。
 俺たちは両手両足を後ろ手にロープで縛り上げられ、甲板に寝転がることになった。外套は最初の略奪品として脱がされていた。ラハブ号の乗組員の身動きが取れなくなると、海賊たちは船艙へと潜り込んでいった。金銭や貨物を物色するためだろう。俺たちの見張りとして甲板に残った数人の海賊は話しかけてくることはなかったが、頻りに俺の方に目線をくれた。白人の中に一人だけ混じっている東洋人が珍しいらしかった。見張りの男たちは暇つぶしにウィンチェンスターライフルの銃床でやたらとこちらを小突いてきた。
 一人の男が船首楼(フォクスル)に続く梯子から顔を出した。その表情は興奮を抑えきれない様子であり、見張りの男たちに近づくと、早口でまくし立て始めた。その手には丸められた絹織物が抱えられていた。
「絹だ! この船は絹の貿易をしていたらしい。それも多分、上質のものだ。俺には正確なところはわからないが。こいつは大当たりだぜ! 売りさばけば豪遊だってできるだろうよ。どこの国のものだろう?」
「そこの東洋人に聞いてみたらどうだ? おそらく志那人か日本人だ。そいつの国から持ってきたのかもしれない」
 見張りの男の一人がそういうと、こちらに近づいてきた。
「Do you speak English?」
「ああ、話せる。あなたたちの今の会話も理解している。俺は日本人だ。この船は日本の絹織物をオランダに輸出するところだ」
 俺の話を聞くと、海賊の男たちは喚声を上げ、互いの肩を叩き合い始めた。それほどに日本の絹織物は西洋で価値があるのだ。
 俺たちが寝転ばされているあいだ、甲板には次々と略奪品が持ち運ばれてきた。そして目ぼしいと判断されたものは片っ端から海賊船の方へと運ばれて行った。その中で、見覚えのあるものが甲板に持ってこられた。それは俺がベッドの下に隠していた柳行李だった。行李を持ってきた男は周りの仲間を集めて、中身のことの相談を始めた。
「金なのは確かだが、どこの国のものかわからない。漢字が書かれているから東洋のものだろうが」
「そこにいる東洋人のものだろう。そいつは日本人だ。だから日本の紙幣だと思う」
 しばらく柳行李の中を確かめたあと、先ほど話しかけてきた男が再び俺に質問を始めた。
「これは日本の金か? どれくらいの価値がある? 紙幣はかなりの量だが」
「おおよそ2700円だ。ただ、西洋の金銭に換算すると、どれくらいになるかはわからない」
「あと金と一緒に奇妙なものが入っている。ワインボトルに似ているが、中身は酒ではないようだ。臭いを嗅いだが、明らかに酒の臭いではない。これは飲むものなのか? それとも塩酸か硫酸みたいなものか?」
 男の言っているものは一升瓶に入った醤油だった。俺は航海中に故国が恋しくなると思い、醤油を持ってきていたのだ。俺はどのように説明するべきか思いあぐねたが、率直なところを言うことにした。
「それは醤油(Soy sauce)と呼ばれる日本では重宝されている調味料だ。だからそれだけを舐めても塩辛いだけだ。祖国の味を忘れないために船に持ち込んだ。西洋人の舌に合うかわからないから、味を試さない方がいいかもしれない」
「なるほど。嘘を吐いているとも思えない。これがSoy sauceか。聞いたことはある。しかしこれは俺たちには必要のないものだな」
 一升瓶は俺の隣に寝転がされることになった。
 一通り略奪を終えると、海賊たちは前甲板に集まり、一人の男から何か命令を受け取っていた。そして海賊たちが再びそれぞれの役目につくと、命令を出していた頭領らしい男がこちらに近づいてきた。黒い蓬髪であり、頬や顎ももじゃもじゃの髭に覆われた野性的な男だった。船長はその男が頭領だと見做すと、寝転がされたまま英語で交渉を始めた。
「このあと、俺たちをどうするつもりだ? 俺たちはオランダ人で、ロッテルダム港に向かうところだ。目的地はすぐそこまで来ている。略奪品についてはすべて大人しく渡す。だから俺たちを解放して祖国の地を踏ませてくれないか?」
「そいつはできねえ相談だな。俺たちは良心と福祉のためにこんな仕事をやってるんじゃねえんだ。お前たちは全員、海に突き落とす。手足は縛ったままな」
 海賊の頭領は嗄れた声で無慈悲なことを言った。
「殺すのは俺だけにしてくれ。俺は船長だ。部下たちの命を守る義務がある。俺だけを海に落として、残りの奴はオランダまで行かせてやってくれ」
「許可できない相談だ。ただし、命乞いをする許可は出してやろう。俺たちにではなく、神様にだがな。ひょっとしたら天使が降りてきて助けてくれるかもしれんぞ」
 船長はまだ交渉を続ける素振りを見せたが、海賊の頭領は身を翻して、無理やり話を打ち切った。そして海賊たちに命令を出すと、二人の男が船長を抱え上げた。そして荷運びをするように作業的に甲板から海に放り投げた。水が跳ねあがる音が聞こえた。あまりにもあっけなく物事が進んだために、船長は遺言を言い残していくこともなかった。船長が海に投げ出される一方で、別の乗組員も手足を縛られたまま抱えあげられていた。観念したというよりも、むしろ突然襲い掛かってきた絶体絶命の状況に呆然としていたために、声を荒げたり、暴れたりするものはいなかった。海賊たちの投棄は迅速かつ機械的だったために、実際には誰も命乞いをする暇もなく、海に投げ出されていった。あるいは心の中では神に祈りを捧げていたのかもしれない。俺もこの奇妙な運命から救い出してくれる存在を考えたが、自分には祈るべき神はいなかった。
 ラハブ号の乗組員も俺ともう一人だけになった。俺はその男の瞳を覗き込もうとしたが、そのときにそいつは抱え上げられ、最期のときに何を考えているのか読み取ることはできなかった。このときにはすでに海賊たちが意図的に俺の処刑の順番を最後にしていることに気がついていた。ついに甲板に寝転がされている人間も俺だけになり、周りにはウィンチェスターライフルを持った海賊たちが立っていた。にやけた顔をした男たちの中から頭領が歩み出て、こちらに話しかけてきた。
「部下から聞いたが、お前さんは日本人らしいな」
「そのとおりだ。日本の京都というところの生まれだ」
「実は俺たちは全員イギリス人でな。日本とイギリスというのは同盟を組んだ、言わば戦友だ。ここは俺たちの祖国の絆に敬意を表して、お前さんの命だけは助けてやろう」
「本当か? イギリスまで連れて行ってくれるということか?」
「いや、そういうことではない。今は使っていないが、俺たちの船には捕鯨用のボートが積んである。そいつにお前さんを乗せて、海に流そうと思う」
「それじゃあ流刑じゃないか! こんな大海原に一人で漂流して生き残れるわけがない。それならいっそ、手足を縛ったまま海に投げ出された方がましだ」
「そいつはわからんぞ。運が良ければ陸地に辿りつけるかもしれん。捕鯨ボートはすでに下ろしてある。拘束を解いてやろう」
 頭領は腰に付けている革製の鞘からナイフを抜くと、俺の両手足を縛っているロープを切った。俺は恐怖ではなく、外套を脱がされた上で長時間冬の海の寒気に当てられていたために両足が震えて立ち上がることができなかった。感情はすでに鈍麻していて、恐怖を感じることもできなくなっていた。両脇から相変わらずにやけた男たちに抱えられ、無理やり立たされた。そして甲板の縁まで進むと、縄梯子が垂れ下がっており、その先に捕鯨ボートが繋ぎ止められていた。俺は縄梯子を下りるように指示された。ウィンチェスターライフルを持った男たちに囲まれた現状、反抗の態度を見せるわけにはいかなかった。そのような態度を取れば、命数を短くするだけだろう。
 俺はかじかんだ手足をぎこちなく動かし、滑り落ちないように慎重に縄梯子を下りた。座席のための板が二枚張られた、一人で乗るには少々大きいボートだった。俺がボートに下りると、海賊の頭領が縄梯子を使わず、甲板から飛び乗ってきた。その着地の衝撃でボートが揺れ動き、転覆するかと思うほどだった。頭領はなぜか片手に醤油の入った一升瓶を持っていた。
「こいつはお前さんの国の調味料らしいな。祖国の味だ。餞別として持っていけ」
「それよりも、このボートには櫂が備え付けられていないようだが?」
「そうだったかな? 部下がど忘れしたのかもしれないな。まあ、俺たちの祖国の絆に免じて許してくれよ!」
 頭領は一升瓶をボートに据えて、ナイフを抜き艫綱を切った。ボートは少しずつ船から離れ始めた。距離が開きすぎる前に、頭領はボートから縄梯子に飛び移った。そして縄梯子をよじ登りながらこちらに振り向き、「Bless the Lord!」と叫んだ。
 このあたりは海の流れが速いらしく、みるみるうちにボートは船から離れていった。俺は醤油の入った一升瓶だけを持って、見知らぬ大海原に放り出されたのだ。三隻の船がすっかり小さくなったころ、海賊たちが声を合わせて「God Save the Queen」を歌っているのが海風に乗って聞こえてきた。

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