(If I Could) Change The World

アイスランド人の命名法について

エピソードの総文字数=3,514文字

 俺は居間へと通された。ハルトール先生が洋灯の火を暖炉に移すと、少しずつ部屋がぼうっ、と明るくなっていった。居間は二十畳ほどもあり、俺は思わず、坊主というのはどこの国でもしこたま金をため込んでいるものなのかと勘繰ってしまった。あるいはアイスランドでは住民一人あたりの土地が広いのかもしれない。居間は食堂と応接間を兼任しているらしかった。暖炉の手前にはマホガニー製のソファが向かい合う形で一組置かれていた。部屋の奥には黒檀のテーブルが置かれており、その上に洋灯吊りが垂れ下がっているのが微かに見えた。ハルトール先生はその洋灯吊りに火を消した洋灯を掛けた。そのあいだ、俺はマントルピースの上の装飾品を眺めていた。金文字の使われている、聖書の装飾写本。読み方はわからないが、ルーン文字が彫られている銀貨数枚。荒波に揉まれる船舶を描いた皿が二枚。おそらくヴァイキングを描いたものだろう。アイスランド人はみなそうなのか、ハルトール先生の個人的な気質なのかわからなかったが、この家は装飾に対して神経質なほどに手が込んでいた。
 俺はマホガニー製のソファに座るよう促され、ハルトール先生はその向かいに座った。俺たちのあいだには天板がガラスで作られた背の低いテーブルがあった。
「今朝がた、アイスランドとイギリスは交易が盛ん、という話を聞いて安心しました。日本もイギリスとの交易が盛んです。なのでイギリスに渡れば、日本に帰れる船は簡単に見つかるでしょう。これで帰国自体の目処は立ちました。けれども、俺はこのままあっさりと帰ることのできる身の上でもありません。多額の借金を背負うことになりましたから。金を稼がないことには国に帰る顔がありません。日本人の俺がアイスランドでも就ける職があると良いのですが。ハルトール先生にもお礼をしたいですしね」
「私にはお礼なんて不要ですよ。あなたの面白いお話を聞いているだけでも十分です。よろしければ、あなたがアイスランドに流れ着いた経緯を詳しく教えていただけませんか? 大まかなところは噂話で聞いているのですが」
「そんなことで良ければ、いくらでも話しますよ。まるで俺は宮廷詩人のような道化ですね。主人のためにいそいそと笑い話を口にする。それでハルトール先生が喜ぶならば、いくらでもその役目を引き受けますが」
 俺は日本からアイスランドまでの道のりを委悉に話した。ただし、学費をすべて酒代に使ったくだりは省いたが。俺が話しているあいだ、暖炉の火に照らされたハルトール先生の顔には柔らかい微笑が浮かんでいた。幾分長く話し過ぎたかと思ったが、ハルトール先生は静かに聞き続けてくれた。そして俺が話を終えると、ハルトール先生は大きな手のひらを広げ、テーブルにつけ、前かがみになりながら口を開いた。
「それは大変な旅でしたね。けれども、もう安心してください。気候は些か厳しいかもしれませんが、この国の人間は大自然とともに生き、強かさと優しさを兼ね備えています。あなたからこれ以上、何かを奪おうとする人間はいません。また、アイスランド人は誰もが本が好きなのですよ。何せ、極夜のあいだは家に籠って本を読むしかすることがありませんからね。もしかしたら、日本の文化に触れたい、その言葉を知りたい、その書物を読んでみたいという人間がいるかもしれません。日本語の語学教師の職が見つかるかもしれない。あるいは日本語で書かれた本は持ってきていませんか? それを英語に翻訳して出版社に持ち込むのもいいでしょう」
「国を出るとき、何冊か持ってきていたのですが、あいにくオランダ船に置いてきてしまいました。日本語や日本文化を教えるというのは良い案ですね。しかし需要があるでしょうか? わざわざ日本のことを知りたいという人間がいるとも思えませんが」
「それはわかりません。これからの問題はひとまず置いておいて、今日はゆっくりと語り合いましょう。お互い疲れているでしょうから。慶三郎さんは好きなだけここにいてもらって構いませんよ。何かここで生活するにあたって質問はありますか? アイスランド文化というものは馴染みがないでしょうから」
「それではお言葉に甘えて。生活のこととは違うのですが、ハルトール先生のファミリーネームを教えていただけますか? ハルトールはファーストネームですよね。そう言えば、まだフルネームを聞いていなかったので」
「ファミリーネーム? ああ、外国の方には理解しがたいと思いますが、アイスランド人は姓を持たないのですよ。その代わり、父称(patronym)というものがあります」
「姓を持たない? それは変わっていますね。父称というのも聞いたことがない。よろしければ、詳しく教えていただけませんか」
「私のフルネームはハルトール・キリヤン・エギトルソン(Halldór Kiljan Egillsson)と申します。ハルトールがファーストネーム、キリヤンがミドルネーム、そしてエギトルソンが父称となります。エギトルソンは「エギトルの息子」という意味です。つまり父称は父親からその名前を貰ってつけられるのです。私の父はエギトル(Egill)という名前で、それを属格にしてエギトルの(Egills)、とします。そこに息子を意味するsonをつけて、エギトルソン(Egillsson)となるのです。父称は人を呼ぶときには使われません。なのでアイスランド人は互いにファーストネームで呼び合います。母親から名前を貰うときには母称(matronym)となりますが、これは珍しい例ですね。父親の名前を貰うのが通例です」
「ハルトール先生には娘さんがいると仰っていましたよね? ということはその娘さんはハルトール先生とは違う父称を持っているということですか?」
「そのとおりです。娘の名前はヘフクラ・ヘルカ・ハルトールスドゥティル(Hekla Helga Halldórsdóttir)と申します。ハルトールスドゥティルが父称に当たります。私の名前がハルトール(Halldór)なので、それを属格にしてハルトールス(Halldórs)。そこに娘を意味するdóttirをつけて、ハルトールスドゥティル(Halldórsdóttir)、というわけです」
「ハルトールスドゥティル、つまり「ハルトールの娘」の意味になるのですね。ところで、娘さんの名前はヘフクラさんというのですね。確かこの村はヘフクラ山のふもとにあると仰っていましたよね? スペルも同じなのですか?」
「そうですよ。娘の名前はヘフクラ山から取ったのですから」
「女性の名前を火山から取るのですか?」
「不思議ですか? アイスランドでは一般的なことですよ。私には妻がいました。ヘフクラを産んださい、産褥熱で亡くなってしまいましたがね。妻の名前はカフトラ(Katla)と言いました。これはアイスランドの最南部にあるカフトラ山から取っています。これも火山から名前を取った一例ですね。この村はヘフクラ山のふもとにありますから、それにあやかったヘフクラという名前の女性が何人かいます。二人のヘフクラを呼び分けるときはミドルネーム、もしくはファーストネームとミドルネームで呼びます。例えば、私の娘だったら、ヘルカ、あるいはヘフクラ・ヘルカと呼ばれるわけです。日本人は自然にあるものから名前を取るということをしないのですか?」
「女性の名前でしたら、日本では花の名前から取ることが多いです。例えば、桜、梅、菊なんかは人気ですね。ところでヘフクラさんは在宅ではないのですか? 俺に会わせたいとのことでしたが。極夜にも関わらず、どこかへ出かけているのですか?」
「いいえ、二階の自室にいると思いますよ。それについては謝罪しなければなりませんね。ヘフクラは物音と話声で私が帰ってきていることに気がついているはずです。おそらく、客人を連れてきていることにも。ところがですね、ヘフクラは興味があることはとことん追求する反面、興味がないことには徹底的に無関心なのですよ。悪意があってこのような言い方をするのではありませんが、私の連れてきた客人に興味がないのでしょう。だから階下に下りてきて、顔を見せることもしない。しかし慶三郎さんはこれからこの家で一緒に暮らす同居人です。ただの客人とは違う。夕食の席には顔を見せると思いますが、その前に挨拶を済ませておいた方が良いでしょう。私はこれから夕食の準備をします。そのあいだにヘフクラに会ってください。ヘフクラの部屋は二階の突き当りにあるので、すぐわかると思いますよ」

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