頭狂ファナティックス

じゃれ合い②

エピソードの総文字数=2,947文字

 新たに二冊の本を借りると、他に用もないので銀太は自室に戻ろうとした。しかしまだ紅月のベッドに居座ったままの綴が呼び止めた。
銀太くん、銀太くん。おいでおいで。
何?
 綴は朗らかに、幾分間抜けにも見える笑顔を浮かべながら手招きしたが、銀太は応じなかった。
こっちに出てきてから、全然甘えてないでしょ。お姉ちゃんが紅月ちゃんと同じ部屋にいるせいで、滅多に二人きりになれなくなっちゃったから。
いや、いいよ。もうお姉ちゃんに甘えるような年じゃない。紅月だけ愛でていればいいよ。
本当はお姉ちゃんに甘えたいんだろぉ? 俺たちのあいだに遠慮は不要だぜ? なんなら俺は三十分ほど部屋を出てようか。
 自分が甘えている姿を見られた恥ずかしさを埋めるつもりで、紅月は銀太を甘えるように唆した。しかし銀太は無視して部屋を出ようとした。
もう! お姉ちゃんの膝の上に乗ってよ! それが弟の義務なんだよ? ふーんだ。お姉ちゃんはいらない子ですよ~。銀太くんは紅月ちゃんとだけいちゃいちゃしてればいんですよ~。
ほら、綴ねえが拗ねちまったじゃねえか。これはあれだな。明日の朝になるまで、俺のベッドから動こうともしないやつだな。綴ねえが拗ねたときの面倒臭さはお互いに知り尽くしているだろう。そのうちに駄々をこね始めるぞ。そうなったら真夜中でもお前を叩き起こして、綴ねえを止めるように呼びに行くからな。駄々をこねる綴ねえは鬱陶しすぎて、三十分を過ぎたあたりから殺したくなる。子供かよ。そもそも、この段階で俺の寝る場所がない。これ絶対、俺のベッドから動かないやつだよ。あー、今夜俺はどこで寝ればいいのかなあ? 俺は枕が変わると眠れないから、自分のベッドじゃないと駄目なんだよなあ。でも綴ねえが邪魔で眠れないなあ。
 紅月は綴が拗ねたことの原因が銀太にあることをまくし立て始め、問題の当人は紅月の枕を抱きしめながら物欲しそうな目を弟に向けていた。無論、綴が拗ねたときの扱いづらさは銀太も承知している。実際に綴は一晩中紅月のベッドから起き上がろうともせず、そのうちに「銀太くんが姉離れしちゃった!」と喚き始めることも、銀太は理解していた。そして煩わしい綴を宥めるために、紅月が叩き起こしに来ることも。
 銀太は恥を忍んで、綴に甘えることにした。ただ本当に久しく姉に甘えたい気持ちもあった。銀太が持っていた本をサイドテーブルに置いて、両腕を軽く広げて姉に近づくと、綴は陰鬱な表情から真夏の陽光に映える向日葵のような笑顔に変わり、起き上がって女の子座りになった。銀太も向かい合って紅月のベッドの上に胡坐をかく。綴は真正面から弟に抱きついた。銀太と綴は二つの理由から背丈がほとんど一緒である。一つは銀太が十五歳の男子の割に背が低いからであり、もう一つは綴が十七歳の女子の割に背が高いからであった。二人は互いの顔を交差させる形になり、綴は銀太に頬ずりを始めた。
銀太く~ん、銀太く~ん。
 綴が弟の名前を呼びながら頭を上下に動かすと、猫なで声の合間に衣擦れの音や息遣いの音が聞こえた。紅月はベッドから離れて置かれている藤編みの椅子に座り、実の姉弟が抱きしめ合っている光景を神聖な儀式に参加しているような厳かな顔つきで見つめていた。銀太は久方ぶりに姉の身体の丸みや体温や匂いを感じたために戸惑ってしまい、身体を針金のように強張らせている。
男の子なのにまだ筋肉があまりついていないね。身体の線が細いよ。それに背もまだ低い。声変りもまだだし、今でも女装できるかもね。私の服、貸してあげようか?
女装はもうしたくないよ。
 綴は自分の息が相手の耳をくすぐるのも構わずに話したが、銀太は奇妙な羞恥心から話すときには少しばかり顔を外側に逸らした。
そういえば、昔はよく綴ねえの着せ替え人形にさせられていたな。俺がふりふりのついた可愛い服を着ようとしないから、代わりに銀太が着せられて。今でも女みたいな顔をしているからな。そこらへんの男なら女装して声をかければほいほいついてくると思うぜ。
女装なんて子供の頃の他愛ない遊びさ。今、女装して僕に変な癖がついたらどうする。
 綴は弟の半面に好きなだけ頬ずりを浴びせかけると、鼻を相手の顔の筋に沿って這わせ、顎の下から始まり、頬骨を経由して、耳の裏にたどり着いた。そこに鼻をこすりつけながら、思う存分匂いを嗅いだ。
まだお風呂に入っていないんだね。ちょっと汗臭いよ。それとも、これが男臭いってことなのかな? いつもは女の子みたいな甘い匂いがするけど。
今日も忙しい一日だったんだ。少しばかり汗をかいても仕方ないだろう?
 今日、昼の遅い時間に楓子と決闘したことを銀太は姉に黙っていた。決闘の話を聞けば、綴はそのような危険な真似をしたことに怒り(ただ綴は怒っても、口調がますます間延びするだけで、傍から見れば眠気に襲われているようにしか見えなかった)、そのあとで怪我をしなかったか執拗に聞いてくることが分かりきっていたからだ。姉を心配させたくない親切心というよりも、過剰に穿鑿される鬱陶しさから銀太は決闘のことを言わなかった。
ほらな。自分の臭いを気にするかなんてことは、男か女かは関係ないんだ。気にする奴は気にするし、気にしない奴は気にしない。銀太は自分のくせぇのを嗅がれても平然としているし、俺は恥とする。
何の話?
さっき紅月ちゃんになんで香水をつけているのって聞いたんだよね。そしたら、昔、私に汗臭いって言われたのが嫌だったんだって。
へえ。紅月が香水をつけているのは知っていたけど、そんな繊細な理由だったのか。敵を威嚇するため、とか肉食獣めいた理由があるのかと思っていた。
俺の香水は犬が電柱に引っ掛けるしょんべんかよ。マーキングじゃねえんだぞ。それにつけると言っても少しだぞ。鼻を利かせなければ、香水をつけていることにも気がつかないはずだ。
銀太く~ん。お姉ちゃんの匂いも嗅いで。さっきお風呂に入ったばかりだから石鹸の匂いがすると思うよ?
 銀太は姉に習って、相手の耳の裏に鼻を這わせた。確かに柑橘系の石鹸の匂いがした。しかし俄かに銀太は実の姉の匂いを嗅いでいることに背徳を感じて、鼻を相手の皮膚から離した。
どう? お姉ちゃん臭い?
うん。お姉ちゃん臭い。
 羞恥から物事をじっくりと考える余裕のなくなっていた銀太は相手の言葉をそっくりそのまま返した。「お姉ちゃん臭い」が褒め言葉なのかは三人の誰にもわからなかったが、綴はへんにゃりと余計に頬を綻ばせた。その表情が見えたのは紅月だけだった。綴は弟の髪を弄り始め、間の悪さを感じていた銀太も思わず真似て、相手の髪を一房取った。しばらくのあいだ、意味もなく互いの髪を指で弄ったり梳かしたりした。しかし唐突に銀太は姉から身体を離した。今の光景を紅月に見られていることに恥辱的なものを感じていて、ついに耐えきれなくなったのだ。
ああ、もう終わり? もっとぎゅーしよ?
なんか恥ずかしいから嫌だ。
 銀太は顔を火照らせ、自分の左腕を右手で握りしめ、不安な様子でベッドに座っていた。
せっかくだから三人でぎゅーしよ? 二人とも小柄だからぬいぐるみを抱きしめているような気分になるの。紅月ちゃんもおいで。
銀太が臭いからやだ。

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