オーバー・ザ・フェンス~十字架と罪過は誰が為

第五章 箴言十三章三節

エピソードの総文字数=4,330文字

『自分の口を警戒する者は命を守る。いたずらに口を開く者は滅びる』箴言十三章三節

 
 写真に写された瞳は虚ろに俺を見返していた。背中まで流れている黒く長い髪とほんの少し口元を曲げて作った微笑み、縁の無いメガネ、やや膨れている頬、ぱっちりと開かれた瞳、写真からでも彼女はあまり波風を立てないであろうと想像がついた。その写真は彼女の通っていた母校での文化祭で取られたものだ。なんらかの会議が終わった後に委員会連中と共に撮られたそうだ。彼女は集団の右隅に映っていた。彼女の名前は春崎知恵、俺たちが見つける相手であり、一年前に失踪した娘だ。
 俺の中で違和感が小波のように行ったり来たりを繰り返した。しかしそれは今のところ頭の片隅に置いておくことにした。まだ俺は彼女の事について何も知らない。先入観は俺の役割には不要だ。
 スマートフォンが武者震いするようにうなり、夜の八時が訪れたことを告げ知らせた。朝に降り注いだ雨雲は遠のいたが、その代わりにむっとするような湿気を土産として残していた。それは胸を詰まらせる悪臭と伴った排気ガスと混ざることで威力を増している。
 写真から眼をあげるとジャケットを脱ぎ、ブラウスのボタンを二つ外したコナーがカウチで寛いでいた。彼女の指はジーマの瓶の首を押えてメトロノームのように揺らしていた。
 俺たちは探偵を名乗っている、あるいは調査員ということで大手事務所の下請けをこなしている。だが俺たち自身には事務所なるものはなかった。アイリッシュパブが意見交換の会議場所になることがあればマクドナルドのテーブルに調査資料を広げて検討したりしている。オフになると互いのワンルームで酒と夕食を共にしたりしている。今日は俺の部屋だった。
 壁の両側にいくつもの二メートルはある本棚が敷き詰められ、俺の蔵書が隙間なく詰め込まれている。そこからあぶれた連中は本棚の上に無造作に積み上げられている。
『ノンバーバルコミュニケーション』『FBIプロファイリングマニュアル』『スパイ技術ハンドブック』『孫子』『キリスト教概要集Ⅰ』『聖書解説・コヘレト』『回勅いのちの福音』『レッドダイヤモンド』その他もろもろ、その本一冊一冊が俺の父であり恩師であり先達者だ。
 部屋の中央にはベトナムの商人から買った薄手のカーペットが広げられ、その上にガラスをはめこまれたテーブルが据えられている。そしてそれを挟む形で人一人が寝れるほどのカウチが二脚。俺は窓際のカウチで腰を下ろしていた。
 ビニール袋を手にコナーが部屋に来たのは二時間前だった。彼女は俺に知恵の写真と聞き込み調査のメモを渡して自らはシャワールームに向かった。そして着替えて出てきたと思ったら袋からジーマの瓶を手に少しずつ飲みながらくつろぎ始めた。
 俺はお疲れ様とだけ言ってメモを読んだ。要点だけ絞って書かれたメモは丁寧な筆跡で埋められている。それを読みながら俺はゆっくりと咀嚼するように記憶していった。メモは取らなかった。むしろ俺がメモを取ると解読不能の古文書になるというのが互いの共通理解だった。
 メモによれば春崎家はかなり熱心なカトリック信者だと書かれていた。クエスチョンマークがついているが、知恵が失踪する以前には週に一回は告解をし、所属教会のイベントやボランティアには必ず家族全員で出席していた。日曜のミサはもちろん、平日のミサにも顔を出している。ご丁寧に洗礼名まで書かれていた。父親の春崎義彦はガブリエル、母親の久子はマグダラのマリア、知恵はジェンマ・ガルガー二、夢奈はマルガリータ。
 彼らの日常でこれといって目を引く情報はなかった。義彦はある会社の重役らしく、久子は想像通り専業主婦だった。まず久子がカトリックの信者になり、なし崩しで義彦、そして姉妹たちに広がったらしかった。
 しかし知恵が引きこもり、家出をしてからは事情が変わってきていた。義彦は教会に足を運ぶ事は無くなり、イベントにも参加しなくなった。夢奈は受験や大学進学に至って所属教会を変え慣れ親しんだその地から去ろうとし、久子は彼らの分までがんばらなければと常に口にしながら以前よりも精力的に活動に没頭するようになっていった。
 メモの最後に書きなぐったような一文があった。
『意味が分からない』
 俺は写真とメモ帳をガラステーブルに置き、ゆっくりと背もたれに体を預けた。乾いた眼を瞬かせてこめかみを拳でこすった。
「何がわからなかったんだ?」
「え?」
 俺の問いかけにつむっていた眼を開けてコナーがこちらを向いた。俺はメモを指さした。
「最後に『意味が分からない』って書いていただろ?何を指して書いているんだ?」
「ああ、それのことね。関係ないから放っていい」彼女は腕を枕にし、足を組んで瞼を閉じた。これ以上話したくないというよりも気怠い印象を受けた。
「聞き込みで何かあったのか?」
「あったというか、ちょっとした付き合いをしたら辟易したって感じだね」
「付き合い、ね」
「別に話してもいいけどあなたにとって、そう、不愉快かもしれないし」
 彼女はつまんでいた瓶を口元に傾けて中身を飲み干すとカーペットの上に置いた。そして寝返りを打ってこちらを向いた。翡翠色の瞳がこちらに向けられている。
「実を言うと一通り聞き込みが済んだ後にもう一度教会に戻ったの、そしたらちょうどおばさんに見つかってね、何をしているのとか所属教会はどことかあれこれ聞かれたのよ。まあ好奇心からなんだろうけどもね、それに付き合ってたら『これから聖書朗読会があるのだけど一緒にどう?』って誘われてさ」
「それでそれに乗ったわけか?」
「乗ったというか、それで久子さんを一目見れるならいいんじゃないかなって思えたの。それでもあの信徒会館で机と椅子を並べ替えて参加したわけだけど、正直骨折り損だったわ。よりにもよってその久子さんは来なかったし、参加者の六人中四人はおばさま方で好奇心むき出しで私に話を振るのよ。ほら、私って見ただけでもハーフだってわかっちゃうでしょ。それに答えるのにも疲れたし、なにより聖書を読んだ後の分かち合いが辟易したわ」
 彼女はそこで大きくため息をついた。アルコールが入ったせいか頬が朱色に染まり、目元が潤んでいた。彼女は口を開いた。
「ねえ、琥珀。あなたは聖書に書かれていることを信じているの?」
「いきなり唐突だな」俺はすぼめてしまった口元を指でさすった。
「あたしは父親の方も母親の方もそういう宗教から離れてたしさ、私もそこまで知らない。でもあなたは実際にカトリックの信者でしょ。あのおばさん達さ、聖書に書かれている言葉はこういう意味でこういう事があって私はこういう所にこう感じた……とかずっと口にしてたのよ。まるで本当にあったことを聞いたみたいにね。あなたもそうなの?」
 俺は腕を組んで天井を見上げた。円盤の様な照明とシミの無い白い天井を見たところで答えなんてなかった。俺は視線を戻した。
「そいつは理解の仕方によるよ。聖書を一字一句信じている原理主義もあれば、それを神の言葉と捉える敬虔な信者としての読み方だってある。俺は、どちらかといえば学問的な理解だ」俺は自分の唇を舐めた。どういえば彼女に伝わるのか皆目見当もつかなかった。
「学問的?」
「まあ、な。聖書ってのは別に神が書いた書物じゃなくて、元々は信仰者が自分の信仰を言い表すために書いた書物を編纂したものだ。要するに本来の性質から信仰の書物なんだよ。書かれている内容は当時の信者たちの生活を描いてもいるが、同時に誇張や暗喩された表現も多く含まれているんだ。それに聖書と言ったって旧約と新約……でいいな、その二種類もそれぞれ信仰者が違う時代、違う場所、違う読者を相手に書きつづられているんだ。だから読み継がれてきたとも言えるが、同時にお前みたいに拒絶反応というか、まあ、とにかく訳が分からない印象を与えることだってある。名前は忘れたが後にカトリック教会に大きな影響を与えた奴が若いころに聖書を読んだ時の感想は『戯言を聞かされた気分』だったしな」
「それで、あなたは信じているの、そうじゃないの?」コナーは頭を振って手で頬をついた。
「どう答えるべきかわからない。『信じる』の意味次第だな。聖書の表現を一文字一句原理的には理解しない、当時の物の見方と今の見方が全然違うからな。それに誇張された表現や暗喩をまるごと信じたりはしない。ただ、これだけは言える。何かろくでもない罠にかかったりどうにもせっぱつまったりしたら、聖書を読んで答えを探したり、あるいは内面を整えるために読んだりする本で聖書はリストから外せないということだ。そういう意味では俺は聖書を信じている」ここで一息ついた。それから手のひらを見て口を開いた。説明というよりも自分の中にあるだろうメモを探して読み上げているようだった。
「自分の信仰や聖書の素晴らしさを語るのは簡単さ。そんなもの誰だってできる。だがそれを伝えたり理解させるのには限界、無理があるんだ。百回二百回聞かせたところで伝えきれる自信はないよ。むしろ言葉じゃ無理がある。不完全な人間が生み出した言葉がどうして完全である?俺から言わせれば何度も口にする暇があれば行動で示したほうがよっぽどいい。生き方で語った方がよっぽど簡単だよ。人を何によって知るべきか?それはその人間の行いだよ。行動だけはごまかせない」

 そのまましばらく沈黙が続いた。ついてもいない水滴を拭うように顔を拭い視線をあげると、コナーは小さく肩を上下させてカウチで眠り込んでいた。本棚に取り付けてある時計を見ると夜の十一時を回ろうとしていた。
「君には子守唄に聞こえたかな、別にかまわないさ。それでいい夢が見れているのなら、しゃべった甲斐はあるよ」俺は立ち上がって備え付けのクローゼットからタオルケットを二枚取り出した。その一枚を広げて彼女に掛けてやった。コナーは身じろぎをしてタオルケットをつかみ、また静かに寝息を立てた。
 俺は畳んだタオルケットをそのままカウチに放ってまくら代わりにした。電気を消して横たわり、暗闇の中でじっと天井を見上げつづけた。
 それから眼を閉じて頭の中で記憶のテープを回し始めた。覚えている限り昔から今までのを記録した奴だ。だが狂わない程度に編集はしてある。
 俺が見たかったのは思い出だ。数少ない良い思い出。俺の転機はいつかと言われたら、その一つに挙げる記憶だ。
 それは隣のカウチで眠りこけている天ノ河コナーと初めて出会った時の物だ。

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