リリーの微笑み

正しき者ー3

エピソードの総文字数=2,064文字

 それだけ言うと彼女は会釈して、足早に駆けていった。俺は茫然と見送ることしかできず、残されたのは風鈴の悲しい残響だけだった。
 その後はもう、全くと言っていいほど作業に集中できなくなり、新人バイトさながらに失敗と謝罪を繰り返した。これでは研修期間に逆戻りだ。
 ずっと全身にあの少女の声が響いて、鳴り止まない。
 なぜ俺の心が読めたのか。それとも、俺が表情に出してしまっていたのか。自問自答は休むことなく回り続け、やがて――俺は悪くない。あの娘が変なんだ。何で俺がこんな思いをしなきゃならない――。醜い怪物が顔をだす。
 最近になって、引っ越してきた同居人。俺を蝕む悪魔。
「今日、調子悪そうだね。しっかりたのむよ!」店長にポンッと肩を叩かれる。
「す、すみません……」それで俺は我に返り、悪魔を部屋に叩き込む。 
 仕事が終わっても気力は減る一方だった。それを見兼ねた店長に、シフトを減らそうかと提案されたが、
「大丈夫です……お疲れ様です……」
 力なく返事して、職場を後にする。
 太陽は西へ沈もうとしていた。空は赤みを帯び、西日がいつもより眩しく感じる。店舗の脇にある駐輪場へ向かい、もとは綺麗な白色だった自転車のロックを外す――
「――すみませんっ」
 心臓が跳ね上がる。背後からいきなり声を掛けられたからではない。誰に声を掛けられたのかが直ぐに、分かったからだ。憂いを含んだその涼やかな響きの発生源を、振り向く前から確信していた――。
 少女は金髪を夕焼けに染め、片手を胸元で軽く握るようにしながら、そこに佇んでいた。もう片方の手に、見覚えのある袋を提げて。
 また震えが来る。あり得ないと頭で分かっていても、どこかで思っているのだ。心を見透かす怪物が、復讐するためにあれからずっと、待っていたのだと。
 とにかく謝らなければ。残響を消し去るためにも、
「すみませんでした!」
 俺は深々と頭を下げる。
 少女の影を見ながら手に掻いた汗を握りしめ、その影と手に提げられた袋が控えめに揺れた瞬間、目を閉じた。
 車が通り過ぎ、臭い排気ガスが早秋の匂いを消し去る。――いったい俺は、こんな所で何をしているのだろう……毎日、毎日、好きでもない仕事して、嫌いな人間の機嫌を窺い、馬鹿にされ……あげくに、こんな小さな女の子にまで――泣き声――。
 頭を上げると、君が泣いていた。黄昏に輝く雫をこぼして。
 なぜ君が泣く。
「ご……めん、な……さいっ……」なぜ君は――。「わ……た、し……っ」
 そんなに苦しい顔をしているんだ……。
 少女はついに、声を上げて泣き始めてしまった。はたから見れば、俺が小さな女の子をイジメているみたいではないか。仕方なく、ズボンの後ろポケットにあったハンカチを彼女に差しだす。青色のワンピースは、風で静かに揺れている。
 彼女は小さくお辞儀してハンカチを受けとり、顔の周りに付いた涙を丁寧に拭きとっていく。それらの仕草から育ちの良さが感じられた。
 まだ目元の赤い少女はお礼を言って、
「わたし……あなたに謝りたくて、それで……」
「……俺に謝る? どうして?」
「わたしには、その……変な力があって……」
 変な力ねぇ。
 自称、変な力を持つ少女は続ける。
「いつもは使わないようにしてたのに……おまけに余計なことまで言って、あなたを怖がらせてしまったから……」
「その力って、人の心を読めるってこと?」
 彼女は真剣な顔で頷く。とても信じられないが、嘘を吐いているようにも見えない。
「失礼を承知で、先程もあなたの心を見させていただきました。わたしのせいであんなに苦しい思いをさせてしまって……っ」
 再び少女がその瞳を潤ませ始めたので俺は、
「い、いやあれは! 身から出た錆というか……その……と、とにかく君のせいなんかじゃないから! もう、謝らないでくれ……」
「えっ……」
「店でのことも、君に落ち度なんて全然っ、ないから! むしろ俺が勝手にビビッたのが悪いんだから、だから……」言葉に詰まってしまう。
 何て言おうか……そもそもこの子なんなの? いやそれより、ここは場を和ますことが先決だろう。とりあえず、彼女の変な力を褒めてあげようか――それにしても不思議な力だよね。お兄さんチョービックリしちゃったよっ。だから自信持って――いや、キモイな。もはや別の人間だ。どうしたものか……。
「ぷっ、ふふっ」笑い声。
 彼女は片手で口元を押さえ、肩を震わせている。俺は、一拍置いて悟る――心の中に住まう別の同居人が笑われたことを――。それから赤面して、
「いつもは使わないんでしょ! 見ちゃ、ダメ!」乙女のように、胸を両手で隠す。
 それがお気に召したのか笑い声はさらに大きくなり、ついに少女はお腹を抱えながら笑い出した。目の前で泣かれたり、笑われたり……まったく……。まぁ、これでいいのかな。
 悲しい残響は消え、風鈴が本来持っていたであろう、涼やかで、心地よい音色を取り戻したのだから。

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