ブラの名前

1 プロローグ

エピソードの総文字数=3,215文字

 - 『浄土真宗は、プロテスタントと驚くべき平行世界を作っている』
 そう論じたのは20世紀最大と呼ばれたドイツの神学者、カール・バルトであった。
 日本の鎌倉仏教である浄土宗、そしてその後を継いだ浄土真宗には、キリスト教におけるプロテスタンティズムとかなり強い類似性が見られることを、彼はドイツ神学の立場から比較研究したのである -

 ……教科書を片手に、そんな話をしながら三浦気楽は、「ああ、絶対こいつら俺の話なんて全く聞いちゃいねえわ」と、眼前に広がる階段教室の学生たちを見上げていた。
 それもそのはず、大学では夏休み明けの後期が始まったばかりで、気楽の担当する一般教養講義なんぞは、出席がタイトなわけでもなく、履修登録さえしておけば半ば自動的に単位がもらえるようなキャンペーンプレゼントアイテムみたいな扱いをされているのだ。
 講義をしている気楽とて、その辺のことは百も了承済みで、毎年こうやって気前よく単位を量産せざるを得ないのは、彼の専門が、けして大学のメインストリームでないからであることは理解しているというわけである。

「……というわけで、今回からはバルトの目線を追いながら、果たして本当に浄土宗・浄土真宗とキリスト教の間に類似性があるのかどうか、みんなと検証していきたいと思っています。で、配ったレジュメに要点をまとめましたのでまずはそちらを見てください」
 気楽が授業を進めるとシャカシャカ配ったレジュメのこすれる音が前のほうからだけして、あいかわらず教室の後ろのほうでは、どよーんとけだるい雰囲気が漂っている。しかし、高校まではプリントと呼んでいたのに、大学になると突然同じもののことをレジュメだなんてカッコつけて呼ぶのはやめていただきたいものだ、なんて思う。
 教室ではスマホ片手に体をぐてっと横にしている者や、完全に机に突っ伏しているものもいるが、さすがに京都一の私立大学と言われるだけあって、後ろで弁当を食べたり、麻雀に明け暮れる馬鹿者どもがいないのだけは、きっと幸いなのだろう。
 後席のことは気にせず、愛すべき前二列の学生にだけ一生懸命講義をしよう、と決意を新たにする気楽であったが、そんな思いもむなしく「あーなんか面白いことないかなあ」と気楽自身が思ってしまう、そんな昼下がりであった。

 関西私学の雄にして、京都においてはその地位を疑うものもない同修社大学の助教授、というのが三浦気楽のとりあえずの立場である。
 同修社大学は明治時代にキリシタンの末裔にして近代ボクシングを輸入した立田(たつんだ)譲先生によって創立された大学で、本来であればその同修社大学の神学部神学科の助教授である気楽からすれば、まさに本流中の本流だと主張したい気持ちもわからないではないが、実際には同修社大学の入試偏差値を一学部だけ極端に押し下げる戦犯扱いをされているため、神学部の教授陣はもはや学内における発言権もしだいに失われている昨今なのであった。
 だからゆえの、この教師・学生ともにこのやるせない雰囲気の講義になるわけである。
 一般教養としてのキリスト教神学。もはやその位置でしか教えられない残念な感じに、気楽とてもやもやすることはまちがいないのだが、それもまた時流というものなのだ、と半ばあきらめの境地でもある。

 あーあ、こんなので教授のポジションなんて、空くのかねえ。教授どころか、下手すりゃ来年もまた時間講師のバイトでも入れなきゃなあ、とそんな愚痴の一つも言いたくなるが、ここらで「動物のなんとか医」とかいう漫画がウケて獣医学部が人気になるみたいにキリスト教ブームのひとつでも起きてくれないかなあ、という願いはまさしく空しい。
 まさにこの比較宗教学の講義のように、キリストの福音よりはブッダの諸行無常のほうが、リアルに感じられるという有様なのだった。せっかく親が「気楽」なんて名前をつけてくれたのに、どうやらそんなのんびりしていられないのが、現在の気楽の心労である。しかし、名前のことで言えば、こんなネーミングのおかげか、お気楽極楽で、誰とでも分け隔てなく付き合える得な性格を身につけたことは喜ばしい。誰もがフランクに接してくれるのは、三浦気楽の天からの賜物なのだ。
 そんなことはともかく。それでもまあ、ほれ、とりあえずこの90分は講義をやってしまわないといけないのであったが。

「……というわけで、次回は親鸞の歎異抄と聖書の比較をやるので、余裕がある人は資料の目を通してといてください。はい、今日はここまで」
 終了のチャイムとほぼ同時に、気楽は講義を終え、自分の教卓の上を片づけ始める。
 いつもと変わらない淡々とした日常、そう思っていた矢先に、階段教室の後ろから猛烈な勢いで、まるで転がり落ちてくるように一人の人間がダッシュしてくるのに気がついた。
「いたーっ!」
 その人物は大声でそう叫ぶと、何事かと目を白黒させている大人しい学生たちを全く無視して気楽に飛びかかってきたのである。
「三浦三浦三浦くん!探したのよ!早く早く早く一緒に来て!そんなわけのわからん本とかすぐにしまって、すぐにあたしと一緒に来て!」
 端から見ると、ちょっとメンタルに問題がある女に捕まって大変なことになっている三浦センセイの図という感じだが、その見立ては9割方合っている、ああご明察である。
 ただ、残りの一割は、単なるイタい女ではなく、その飛びかかってきた人物が三浦センセイにとって旧知の人物であり、そうそう軽々しくつき離すことのできない相手であったということは、神ならぬ読者には到底想像しえないことであったろう。
 三浦気楽が、マニアでニッチな分野であったため比較的ライバルもすくなく30代半ばで大学の助教授とやらをさせてもらっていることは、まだ話していなかったが、たった今襲いかかってきた女子もまた、30代半ばで、テレビドラマのやり手OLが抜け出てきたかのような、タイトなスーツに身を包んでいる。セミロングの髪が、本来ならふわっと広がる感じなのだろうが、今は残念ながらぶわっと振り乱されているが、それはまあ脇へ置いておくとしよう。
 三浦くん、と呼んでいるだけあって、気楽にある程度上から目線でモノを言える女子であることは確実なのだが、はてさていったいこの女は何者なのであろうか。

「……まてまてまて。何があったか知らんが、ここは教室。安土(あづち)ぃ、頼むからもう少し穏やかに話してくれ」
「え?あ?まあ、あらやだ。そうね……。まああんたが見つかったら、とりあえずはいいわ」
 あたりを見回して、学生たちの冷ややかな視線を感じたのか、その安土める子は、ちょっとだけ冷静さを取り戻した。
「三浦先生、その人彼女?」
 近くにいた学生の一人が、にやにやしながら訊く。
「そんなわけねーだろ。高校時代の同級生だよ」
 違う違う、と手を振る。
「そうなのお!高校時代からの恋人よ」
「あほか!」
 横でめる子がいらんことを言うので、慌てて気楽は怒鳴る。
 学生たちが、ヒューヒュー言いながら教室を出ていくのを、
「あ、おい。誤解だ!誤解だからな!」
と必死で訂正する気楽であった。
「そんなことはどうでもいいの。来て」
 める子は、腕を絡ませるように引っ張っていこうとする。
「あ、おい!ちょっとまて!次の講義だってあるのに!」
 抵抗してもずりずり引きずられてゆく気楽である。
 一体なんなんだ。何が起きているんだ。こいつはなんなんだ!
 そう思いながらの気楽ではあったが、とりあえずは引きずられるしか術は無い。全てがあきらかになるのはもう少し先になるが、まずはこの女に引っ張られることにしよう。
 結局、三浦助教の講義について、この後臨時休講の張り紙が出されることになったのは言うまでもない。

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