ブラの名前

エピソードの総文字数=6,765文字

『大変!大変なことが起きたの!どこにいるかわかんないけど、すぐ戻ってきて!』
 気楽のスマホのスピーカーから、める子の大声が響きわたったのは、町の人たちへの聞き込みやら、全ての調査を終えて帰路につこうとした矢先だった。
「うるさい!わかったからもう少し小さな声でしゃべってくれ」
 スマホに向かって眉をひそめる気楽に、おかまいなしでめる子は続ける。
『社長が、社長がもうキタコレへの出品は取りやめるとか言い出したの!何がどうなってるのか全然わかんない!』
「そうか、わかった。とりあえず今日中にそっちへ帰るから、とし江社長には今夜一晩だけ待ってくれないか、と頼んでみてくれ」
『今日一日でなんとかなるってこと?真犯人を捕まえたの?!』
「いや、まだだ。だが、今夜、必ず真犯人を捕らえることができる。そして、おそらく私の感だが、ミカエルも無事に戻るだろう」
『えーーーーーっ!』
「じゃあ、そゆことで」
『待ってまって待って!もうちょっとわかるように教えてよ!』
「とにかく、今夜一晩だけ、とし江社長を引き留めておいてくれ。ああ、それから、ミカエルが戻ればすぐ作業に取りかかりたいだろう。女の子たちも全員待機だ。私が帰るまで、会社で待っててくれればいい」
 そう言って、ぶちっと電話を切る。これでいい。謎解きのステージは、すべて整った。める子やメンバーの女の子たちだって、真実を知る権利がある。ここまで一生懸命がんばってきたんだ。キタコレに向かって、悔いのない仕事をしてほしい、とも思う。
 あとは、一刻も早く東京へ戻るだけだ。気楽は、沖縄モノレールを除いて日本最西端にある駅だという「たびら平戸口駅」へ向かって走り始めた。

 結局、長崎で一日中街歩きをしたものだから、気楽が再び東京へ戻ってきた頃には、すでに陽は落ちて夜になっていた。
 空港から慌ててヴィクトリー・ファッション社へ戻る。ふだんなら退勤時間はとっくに過ぎているというのに、める子たちのミカエルプロジェクトの階に煌々と明かりがついている。
 もちろんこっちへ帰ってくる間じゅう、める子からはメールが来るわ、メッセージが来るわ、SNSのダイレクトメッセージには書き込みが入るわ、それはもうピコンピコンひっきりなしに着信音がなっていたのだが、あまりのうるささと電池の消耗の激しさに、思わず電源をオフにしたくらいであった。
 そう、慌てずとも、真犯人は恐らく逃げも隠れもしないだろう、という予感もある。
 あとは、全ての謎を明らかにするだけだ。

「もう!いったいどこに行ってたのよ!電話にも出ない、メールも返さない!今度あったらぶっ殺すところだわ」
 怒り心頭のめる子だが、今ここで再会を喜んだもののぶっ殺されては謎が解けないので、勘弁してほしいものだ。
「ああ、先生。先生には本当にご迷惑をかけて……」
 社長のとし江も、おなじフロアでおろおろと落ち着かない態度だった。
「もう、もう本当にいいんですのよ。私たちがキタコレを諦めれば、それで済むのですから……」
 とし江はそう言って、今にも泣き出しそうな様子で、動揺している。
「社長はこうおっしゃっているけれど、とにかくあんたが帰るまでは、待ちましょう、ってみんなにも待機してもらっていたの」
 める子が、ため息まじりに言った。この半日、社内は大混乱だったようだ。
「ああ、みなさんも待っていてもらって、申し訳ない。ただ、事件の謎は全て解けました。真犯人もわかりました。ミカエルも、これは私の個人的な希望ですが、恐らくは無事に戻ってくることでしょう」
 全員にどよめきが走る。互いにひそひそと声を掛け合うメンバーの姿もあった。自分たちの中に、犯人がいるのかもしれない、と思ったためだ。
「あ、あの、刑事さん。犯人はここにいるんですか?」
 おずおずと丸子琉花が気楽に尋ねた。
「ええ、すでにここにいるかもしれませんね」
 ちらりと時計を見ながら答える。すでに夜の10時を越えている。
「それから、みなさんに一つ謝罪しなくてはならないことがあります。私は刑事ではなく、みなさんのリーダーである安土さんの、学生時代の同級生です。今回は、この事件の謎解きのために、彼女に呼ばれました。本業は大学の教員です。」
 ええっ!とざわめきが広がった。
「みなさんをいろいろと試すようなことをして、本当に申し訳なかった。でも、おかげで、本当の事件の犯人に近づくことができました。みなさんは本当に、真剣に仕事に取り組んでおられた。心から敬意を表します」
「じ、じゃあ、犯人はいったい誰なんですか?ここにいる、ってどういうこと!」
 安藤玲が、震える声で言う。新たな疑心暗鬼が広がる。
 ああ!、と小さな声を挙げて、社長のとし江が頭を抱えた。両手を組んで、神に祈っている。
 もう、いいだろう。これ以上彼女たちに辛い思いをさせる必要はない。
 とし江の姿が、哀れにも思える。気楽はごくん、と唾を飲み込み、ゆっくりと深呼吸して、言った。
「もう、いいでしょう。三田さん。そこにおられるのでしたら、入ってきてください」
 全員がはっ、と息を飲んだ。ミタ?気楽は確かにミタと言ったのだ。だが、そんな人物が、ここにいただろうか。あるいはミタという名前の人物が、これまでに登場しただろうか!
 時が止まったかのような静寂ののちに、フロアから階段やエレベータや通じる、階ごとの唯一のドアが開き、ミタと呼ばれたその老齢の女性が
中へおずおずと入ってきた。
「……ごめんなさい。みなさん。ごめんなさい、とし江さん」
 その人物は、フロアごとの清掃をするための大きなゴミ収集ワゴンを押している。モップや掃除機など、道具一式をワゴンに入れ、フロアへと進んでくる。
「アキちゃん……、やっぱりアキちゃんだったのね」
 涙を流しながら、とし江が駆け寄る。める子を始めとするメンバーの全員は、ポカンと口を開けて、事態が何を意味するのかを必死で理解しようとしていた。
「そ、掃除のおばちゃん……」
 やっと、める子が口を開いた。
「そう。掃除婦の三田さんだ。この会社のビルテクノサービス清掃部門に所属している。警備員さんたちと同じ会社だが、彼女の仕事は夜間の清掃だ」
「ミカエルを盗んだのは、掃除のおばちゃんだって言うの……?」
 める子には、まだその状況が飲み込めていない、という感じだった。
「ああ、ミカエルを盗み、聖書を置いたのは彼女だ。そして、とし江社長の幼なじみでもある」
 見ると、三田アキは、すでに号泣しながら、取りすがるとし江に対して、額を地面にこすりつけるほどの土下座をしていた。
「とし江さん、許して!本当に許してください。わたしが、私がいけなかったの」
「アキちゃん、顔を上げて!いいのよ、そんなのいいの!お願いだから、もういいの」
 とし江も、目の周りを真っ赤にしながら涙を流す。
 いったいこれはどういうことなのか。そして、この二人の間に、何があったと言うのだろう。
「どういうことなの?あんた状況わかってるんでしょ?説明してよ」
 める子が言うので、泣き続ける二人からやや離れて、気楽はメンバーのみんなに説明を始めた。
「ミカエルを盗んだのは、三田さんだ。安土さんが帰ってから、毎日の夜間清掃の折に、ミカエルとその一式を盗み出した。あの大きな清掃ワゴンに隠してエレベータを降りたんだろう。誰にも気付かれず、この階から持ち出せたに違いない。当然、防犯カメラにも映らなければ、警備員に怪しまれるわけもない。そして、聖書を置いたのも三田さんだ」
「ミカエルの代わりに、聖書が置いてあったんですか?」
 そんな声が挙がる。それは、メンバーの女の子たちには、知る由もない隠された事実だった。
「ああ、あの聖書は、きっととし江社長に向けたメッセージだったのだろう」
「偶像、の件?」
 める子が尋ねるが、いいや、と気楽は首を横に振る。
「聖書のページじゃない。大事なのは、あのしおりだったんだよ。あれはその昔、社長が小さい時に通っていた教会で配られたものだったんだ。だから、犯人ととし江社長にしかわからない符号のような役割を果たすはずだった。三田さんは、あのしおりを目につくように置くことで、きっと心のどこかで自分に気付いてほしい、と願ったんだよ」
「はずだった、ってどういうこと?」
「とし江社長が、そのことに気付くのが遅すぎたということだ。彼女が、真犯人の意図に気付いたのは、きっと昨日私たちが社長室で話した時か、それから後だ」
「だから、犯人が誰かわかったから、ミカエルプロジェクトを止めようなんて言い出したってこと!」
 そうだ、と気楽は頷く。
「とし江社長は、三田さんをかばおうとしたんだよ」

「……もう、いいのよ。頭を上げて。あたしがいけないの。アキちゃんのことに気付かなかった。それがいけなかったのよ」
「いいえ、とし江さんは悪くありません。わたしが、わたしの心が汚れていたから、みなさんにご迷惑をかけるようなことに」
 卑屈なまでに、三田アキは頭を上げようとしなかった。
 気楽は、そっと二人のもとへ近づいて、自分も膝をつきながら言った。
「三田さん、それからとし江社長。私は今日、平戸へ行ってきたばかりです。お二人が通った天主堂へも行ってきました。お二人のことを知る、ご老人たちにも会ってきたんです」
 それを聞いて、思わずアキも顔を上げた。
「まあ、そんな……」
「アキちゃん、涙を拭いて」
 すかさずとし江が、自分のハンカチで彼女の目頭を押さえた。思わず抱き合うような形になり、とし江がアキの肩をしっかりと抱きしめた。
「落ち着いて、お二人とも座りませんか?」
 気楽が優しく手をさしのべる。それを聞いて、ようやく二人はゆっくりと立ち上がった。

「……わたしは罪を犯しました。嫉妬という大罪に、身を滅ぼしたのです」
 掃除婦のミタ、三田アキは、やがて、みんなの前でポツリ、ポツリと話し始めた。
「長崎から東京に出てきて、もう60年近くが経ちました。とし江さんとは、平戸で近所に住んでいた幼なじみだったけれど、彼女もまた、学生を卒業してから上京、それぞれ別の道を歩んでいたのです」
「ずっと縁遠くて、東京の街でとし江さんに会ったこともありませんでした。ただ、十年くらい前には、テレビのインタビューかなんかで、大きな会社の社長さんになられていることだけは知っていました。一方のわたしは、東京で男に騙されたり、夜の仕事をしたりしながら、気がついたら仕事もなく、こんな生活に……。なんとかビル会社の清掃の仕事につけて、もう長いこと掃除婦をしてきました」
 まあ、苦労したのね、ととし江は、悲しげな表情を浮かべてアキの話を聞いていた。
「最初は、こんな大それたことをするつもりはなかったんです。でも、ちょうど一ヶ月くらい前、ビル管理会社の配置変えで、わたしはこの会社の担当に入ることになりました。最初はびっくりしたわ。まさかとし江さんの会社で働くことになるなんて、と。でも……」
 それから、暗かった表情をいっそう暗くして、アキは苦しげに告白する。
「ここで働くようになって、いっそう自分を惨めに感じたのよ。華々しい世界で活躍なさるとし江さん。それに引き替え、しがない掃除婦のわたし。とし江さんが仕事で遅くなった時に、何度か廊下ですれ違うことがありました。それが本当に苦しかったわ」
「ごめんなさいアキちゃん……」
 悲痛な声を上げるのは、とし江のほうだった。
「いいのよ。でも痛かった。あなたがわたしに気付いてくれないことに、わたしは打ちのめされていたの。気付かれないように、とずっと顔を下げていたのもあります。半分はわたし自身のせいでもあるわ。でも、気付いて欲しい気持ちと、気付かれたくない気持ちが、いつも葛藤していたの」
 アキの握りしめた拳が、ふるふると震えるのが見えた。それは激しい情念と、してしまったことに対する後悔の念の現れだった。
「嫉妬、怒り、さみしさ。あなたが輝けば輝くほど、私は苦しみに呻いたの。どうして神様は、こんなにも不公平なのかと呪った。あの恐ろしいことを思いついた時は、無我夢中だったわ」
「……それで、ミカエルを盗んだんですね」
 める子が静かに言った。
「ええ、あなたや部下の娘さんたちがいつも遅くまで頑張っていたのを見ていました。でも、あの時のあたしには、それすらも憎悪の対象でした。本当にごめんなさい。……あんなにも大事に取り組んでいる仕事だからこそ、奪ってやりたい、とあの時はそんなことしか浮かばなかったのよ。それでも、心どこかで気付いて欲しかった。だから、ずっと大切に持っていた、聖書とあの十字架を代わりに置きました。まるで、それで罪を許してほしい、と願うかのように」
「いいえ、悪いのはあたしよ。アキちゃん。あんなにも仲良しだったあなたのことを、毎日すれ違っていても気付かなかったなんて!責められるのは、傲慢だったあたしのほうなのよ」
 そう言って、とし江はアキの手を取った。二人はまた、涙を流し始めた。
「……わかりました。三田さんも、全てを話してくださって感謝します。それで、ミカエルは、どこにありますか?」
 気楽が尋ねると、アキは人差し指で下を指す。
「一階の、ゴミ集積場に、そのまま隠してあります」
 黙って話を聞いていた女の子たちから、わあっ!と歓声が上がった。
「あたし!見てきます!」
と冬馬真智が走り出した。
「あたしも!」
 一緒になって何人かが後を追う。きっと、ミカエルは元の状態で戻ってくるだろう。
「……先生や、安土さんにも、本当にご迷惑をかけて」
 しぼり出すような声で、アキは謝罪し続ける。
「私たちが動いていることも、知っていたんですね」
 める子が穏やかに言う。
「ええ、毎晩遅くまで、調べておられるのをビクビクしながら見ていたわ。いつバレるだろう、いつ見つかるだろう、と。一生分の苦しみだった。わたしにふさわしい、神様からの罰だったのよ」
 そううなだれる。あれだけ怒りの固まりのようなめる子も、さすがにこれ以上、この哀れな老女を責めるつもりはないようだった。
「これでミカエルが帰ってくるのなら、十分キタコレには間に合うわ。みんなにはいろいろ苦労かけたけど、社長のお友達なら、仕方ないじゃない。ね、みんな」
 こくこくと、全員頷いている。そりゃあ、本音では言いたいことの一つやふたつはあるかもしれないが、これだけ自分のしたことを悔いている人にどうしろと言うのか、というのも正論だった。
「本当に、みなさんごめんなさい。許してはくれないだろうけれど、わたしの心が弱かったんです」
「アキちゃん……」
 罪と罰、行いと裁き、人の弱さとはよく言ったものだ。気楽は思わず、二人の手を取って言った。
「起きてしまったことは、仕方ありません。やってしまったことも、そうです。ただ、お二人ともクリスチャンであるのなら、罪深き我々をもまた神とイエスはお救いになられることを、祈りましょう。アキさんが悔い改められるのであれば、きっとお許しくださる、それが私が伝えるべき信仰の救いです」
「ああ、先生。ありがたいこと」
 そう、とし江は気楽に感謝する。そして二人は、手を取り合いながら、神に許しを請い、祈りを捧げるのであった。
 気楽には、俗世に汚れ、社会にまみれて歳を取った二人の中に、平戸の天主堂で無垢な祈りを捧げる少女の姿をようやく見た。
 きっと、神はお許しになるだろう、それは希望であり、救いに違いない。
 だとすれば一介の人でしかない我々に、どうしてこの二人の老女を裁けるというのだろうか。もう、済んだのだ。これで、良かったのだ、と気楽は思った。
 カトリックでは、人を誤った道に陥れるという『七つの大罪』があるとされてきた。傲慢・物欲・嫉妬・怒り・色欲・暴食・怠惰がそれだ。
 傲慢が他者を傷つけ、嫉妬がさらなる怒りを生じさせる。だが、大なり小なり、こうした罪は誰しもが堕ちてしまう過ちではないか。イエス・キリストは聖書の中で諭された。
『あなた方の中で、一つも罪を犯していない者から裁くがよい』
 ああ、罪深き我々には、誰かを断罪する資格などあろうか!
 ふと振り向くと、める子でさえも、安らかな表情を浮かべてとし江とアキを見ていた。 それを見て『許し』というのは、神が我々にのみ与えてくださった、これまた特別な感情なのかもしれない、とも気楽は思った。

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