もしも敬虔な女子高生が〈神は死んだ〉のニーチェ作『ツァラトゥストラ』を読んだなら

『この人を見よ』②

エピソードの総文字数=2,801文字

菅原(すがわら)ひとみは、図書委員をしているだけあって本を読むのは得意なほうだ。
流石(さすが)小早川栞理(こばやかわ・しおり)先輩にはかなわないと思うけど……)

それでも先輩にちょっとは良いところを見せて、見直されたい。

そう、張り切って集中して、渡されたマイケル・ムアコックの『この人を見よ』を読み進んでいた。

(この本も、知りたいことを知ろうとして、扉を開けてしまった人のお話。と言えないこともないのかも)

内容は、一言で言えば、イエス様の受難のシーンが本当にあったのかを確認しようとして、タイムマシンに乗って過去へ戻るお話。

信者ならば信じていて当たり前の事。その真相を知りたい。と、気が狂いそうなほど思い詰めて、とうとう過去への扉を開いてしまう男。

その思い詰めていく過程がなんともホモホモしく、えっちぃのだ。

(こ、これって本当に全年齢対象なの? わたしなんがが読んじゃって良いの? うきゃーー!)

と赤面し、思わず荒くなる鼻息をおさえて、顔を隠した本の上から目を出してテーブルの向かい側を覗くと、熱心にニーチェ版の『この人を見よ』をお読みになっている早乙女(さおとめ)れいか先輩がいる。

真剣そうな表情。たまにクスっと笑ってこっちを見る。

(目が合っちゃった)
早乙女先輩の読んでる方も発禁なんだから、やっぱりすごいんだろうか。
「そちらの本も……、なんていうか、スゴイんですか?」
ドキドキしながら尋ねてみる。
「ええ、それはもう、すごくってよ」
「うひゃー!」
「そちらも?」
「え、ええ、とっても!」
「うふふ、楽しみね、あとで交換ですからね」
「は、はい!」
ドッキドキである。
(どちらもお読みになっているという栞理先輩は、一体何を考えてこの本を置いていったのかしら)
まさかえっちな話でドキドキさせようとして?
(ううん、そんなことない、きっと深い意味があるんだわ)

そう考え直して読み進めると、やはりえっちい表現の裏側から別の要素が顔を出してくる。


イエス・キリストの受難。ゴルゴダの丘での十字架への(はりつけ)、その真実を知るべく過去へと向かった主人公は、タイムマシンの事故で重傷を負い、元の時代へ帰れなくなってしまう。それでも、なんとか聖書の真実を確かめようと行動する。その振る舞いは聖者に似ていて、いつしか彼を聖者とあがめる人々があつまり、気がつけば彼自身がキリストの行いをなぞり、同じ受難の道を歩んでしまう……。

イエス様とはまるで違う、情けないところがいっぱいの汚らしい男なのに……。

そして、気がふれたようになった彼は、とうとう自分自身がキリストであることを自覚するのだ。

(マリア様まで……。なんて、恐れ多い……)
最後は完全に没頭して、周囲を忘れて読みふけってしまったひとみだった。
(これはSF、サイエンス・フィクションだし、本当のことじゃないし!)

そう思ってはいても、雪崩のようにラストへ向かう緊迫感は妙な圧力と現実感(リアリティ)を持ってひとみにのしかかる。

おもわず胸の前で十字を切り、主に祈りを捧げ気持ちを落ち着けようとするのだが、祈りを捧げる相手がもしかしてこの本の主人公なのでは。ここに書かれたように時代に流された狂気の男だったのでは……なんていう疑問が頭をかすめてくる。


震える手で握りしめた十字架が汗ですべる。

(これは、嘘、嘘のお話なんだ……でも、でも……)
いままで疑いを差し挟む気持ちすらありえなかった「真実」の別の姿が眼前にひろがり、何が正しく、何が正しくないのか、その基準が揺らいでしまった……。
(こ、こんなこと……。ありえない……)
本の世界に入り込み、なかなか戻ってこれないひとみ。
(……)
そんな彼女を我に返らせたのは早乙女先輩の一言だった。
「お紅茶、いれましたわよ」
気がつけば栞理先輩も席に戻られていて、早乙女先輩はどこから取り出したのかティーセットを操り、ポットから湯気の出ている紅茶をひとみの前のカップに注いでいた。
「喉渇いたでしょう?」
「一年生には少々刺激が強すぎた、かな?」
ひとみはしばらく金魚のようにくちをパクパクさせていたが、栞理先輩の言葉に対して
「こ、これ、16歳の乙女が読んじゃダメです! きっと18禁ですよこれ!」
と返したのだった。
「おいおい、君が読み取ったのはその程度の表面的なセックス描写のことかい?」
「あらそれは楽しみね」
「い、いえ、それだけじゃない、ですけど……。ウチの学校で閲覧禁止になっているのが、わかる気がします……。いままで信じていた『真実』が、もしかしたら違う事だったのかもしれないって……」
「そうだろう、それでこそ、この禁じられた読書会のメンバーだ」
「良かったわ、さっきまで栞理と、『エッケ・ホモーだけにホモホモしいお(エッセー)でした』なんて感想だったら速攻でこの会やめて貰おうなんていってたのよ」
「ええっ!?」
それに近いことも考えていたひとみは冷や汗だらだらである。
「真実がたとえひとつであっても、それに対する視点はひとつではない。いろいろな見方ができる。先ほどのWikipediaのようにね。誰もが別の視点を持ちうるということさ」
「こちらのニーチェ版も読んでみてそういう感じがしたわね」
「菅原君。コレに懲りてこの先を探求したくないようであれば、その本を閉架に収めて、この会をやめて貰ってかまわない。この先にはもっと刺激の強い世界がひろがっているだろうということは警告しておこう。目を閉じて、この学校や、大人達の言う真実だけを受け入れて生きていくほうが楽であることはたしかだし、本人の自由だ。僕たちにはそれを止めることはできない」
「……」
すこし、考えてから、ひとみは顔をあげ、言った。
「ええと……。わたしの名前は『ひとみ』です。怖いこともありますけど、ひとみを閉じたら、わたし、ひとみじゃなくなる気がするんです。まぶた、なんて名前じゃありませんし……。これからも、しっかりこのひとみで見ていきたいと思います。いえ、見せてください。おねがいします」
ぺこり、と頭をさげる。
「ははは、ひとみを閉じたまぶた君か、それもおもしろいな。だが、よくぞ言ってくれた。よろしい。これからは僕のほうからも『ひとみ君』と呼ばせてもらおう、敬意を込めてね」
「もともと彼女、自分の事を『見張り役』って言ってたじゃない。名前の通り、そのとおりなのよ」
「ははは。たしかにそうだな」
「そう……なの……かも?」
「さ、お紅茶、冷める前にどうぞ♪」
「はいっ!」

少女たちの笑い声がひびく秘密の地下室。

いつもは古い本の臭いしかしない暗い部屋も、今は温かい紅茶のかおりでいっぱいだった。


次はいよいよ、ニーチェの手で書かれた『この人を見よ』だ。

いったいどんな世界を見せてくれるのか、ひとみの胸は、自然と高鳴ってくるのだった。

(これ以上にすごかったら、わたし、どうにかなっちゃいそう)

〈つづく〉


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