『みじょかもんの祈り ー 心の貧しい人は幸い? ー』

04. 「神の沈黙。」

エピソードの総文字数=2,844文字

実習の間も、辛いことはある。

失敗したり、強い指導を受けると今の自分の状況を嘆いてしまう。

「どうして、今、私は苦しんでいるのか?・・・・」

神に聞いても返事は来ない。

私が必要としている時、神は沈黙を通している。

「どうして、自分がこんな目に遭わなければならないのか!?」

どこで、どう祈ろうと神は返事をしてくれない。

幼い頃から、「神がいる」ものとして教えられてきた。

日本人は、「神や仏を信じてはいない」と言いながら、神社やお寺に行く。

しかし、「もしかしたら・・・」、「げん担ぎで・・・・」と見えない存在に対して手を合わせる。

悪いことが起きたら、「神や仏もないのか・・・」という気分になる。


私も神に何度も、何度も答えを求めた。

教会に行っては、「もしかしたら、神の声が聞こえるかも」なんて思いながら。

神の声を求めていたのは、私の置かれている状況に意味が欲しかったからだ。

分かれば、私も納得できる。

意味や理由が分からないものに対して人は強い恐れを感じるのだ。

これが、理性というものだろうか。

教会の中で1人でいると、あまりに沈黙が長いので

「どうしてですかーー?」と口に出してみる。

シーーーーーン・・・・・

何も返事がなく、沈黙だけ。

時々、聖堂の中の椅子が軋む音が聞こえるくらい。



「たとえ、明日、世界が終わろうとも、私はリンゴの樹を植える」

自分の寿命が、いつ終わるか分かろうとも、私は変わらず、いつも通りに生きよう。
メメント・モリとは、「死を想って生きよ」という意味のラテン語である。

仏教では人間の4つの苦として「生・病・老・死」をあげている。

苦しみは人間として避けられない現実である。避けられないからこそ、空の心で向き合い受け入れることこそ修行と言えるのだろう。

この4つの苦について考える機会があった。

印象深い高齢者男性がいる。
80近くの方で、車椅子、長身だが体が細かった。若い頃に野球のピッチャーをしていたらしく、誇らしげに語って下さった。
認知症を患っており、声は小さい。手に、そんなに力を入れることはできないが、自分でご飯を食べることができた。

施設の行事で、花見をしに出掛けた時、紙コップを片手に楽しむ姿が印象的だった。

次の第3段階で、その男性に再会することができた。
「お久しぶりです。お元気でしたか?」
と話しかけた。
「‥‥。」
何も答えられなかった。
私のことは覚えていらっしゃらなかった。

それは仕方ないなと思いつつ、様子が気になった。前に会った時よりも、動きが少なくなっている。声を掛けても、こちらの言葉が分かっているのかどうか‥‥。ゆっくりした動きで反応する。
職員の方の話によると、日に日に元気がなくなっているらしい。意欲も見られない。

ある日の午後、利用者の方は薬を飲み終わり、昼寝の休憩中だった。
ある方々は、大きいリビングでテレビで録画された演歌を見ていた。
先程の男性は、車椅子の前に将棋を置いて、じっと眺めてらっしゃった。
私は、昼食時に使用した台拭きを整理していた。
下に向いていた顔を、ふと上げて、その男性を見た。
次の瞬間、凍った。

その男性が白目で口から泡を吹いていた。体は車椅子から、ずり落ちそうになっていた。
「え⁉」
人が口から泡を吹くなんて初めて見た。授業で習ってもないし、頭が真っ白になった。
アニメか漫画に出てくるように、ブクブクと口から溢れ出す。
「あれは、ホントだったんだ‥‥」
緊迫した状況下で、少し感心した。
すぐに、職員の方を呼びに行く。
‥‥一命は取り止めた。
発作が起き窒息しそうだったのだ。
このまま数日入院することとなった。
体の機能が衰えてしまった高齢者にとって、入院は元通り回復することと結び付かない。
退院後は、ほとんどの方が体の機能の制約を受け、さらに身動きが取れなくなる。
体の動きは、認知機能と強く結び付いている。認知症が、また進んでしまう可能性が高くなったのだ。

今まで、私が見てきた人たちは、一度、倒れても再び起き上がり、日が経てば倍の元気で走り回るような年齢の生徒たちだった。
しかし、この世界では、人の健康と病気が、まざまざと見せつけられるような気分の毎日だ。

「諸行無常」、この世は常に移り変わり、同じものは決してない。このように考えている私も明日は違う人間となっている。
この移り変わりを意識せず、当たり前のように生きていないか。
感謝をしながら、生きているだろうか。
次の瞬間、何が起こるか分からない。それは、皆、同じだ。

もう一人、印象に残る男性がいた。
随分、身長が高かった。180センチ以上あり、体つきもゴツい。
昔、ラグビーをしていたそうだ。
そして、前職は校長先生だったそうだ。

私も教員だったので、校長先生のイメージは、どちらかというと雲の上の存在だった。
校長室で、リクライニングシートに座り、お茶をすする。学校の最終決定をする存在である。

田舎だと校長という役職が、とんでもなく凄い肩書きであり、地元や親戚からは崇められたりするらしい。一目も二目も置かれる存在。そういうイメージだ。

顔立ちや体つきは、威厳を感じる。
しかし、目の前の状態の、この男性は重い認知症を患い、体は硬直し自分で曲げることができない。介護職員も不可能だ。
食事は、流動食。
排泄は、オムツ。
風呂は、数人に抱えられ、ストレッチャーに乗せられる。

私は、人間の儚さを感じた。
この方を、決して馬鹿にしているのでも、軽視いるのではない。

人間は、「病」、「老」の前では等しい存在であることを。
健康な間は会う肩書きなどで、お互いを比較し、優劣をつけるが、避けられない者の前では等しい存在であることを。

だから、「自分に限って、そんなことは、ない」ということはなく、有限の世界の中で、どれだけ感謝しながら生きられるか。

「明日、世界が滅亡しようとも、私は、リンゴの樹を植える」

特別なことをすれば、生きるということではなく、毎日、一生懸命やっていることを変わらず、やり続けること。
これが、今を生きるということかもしれない。
メメント・モリ、私たちに必ずやって来る死を想えは、私たちにより良き生を突きつけてくる

私は、祈りをしている間は神は明確で直接的な答えを出してくれはしない。

しかし、祈りは、格式張った場所でするものだけを指すものではないことが分かった。

私たちは、神から日常生活においてもメッセージを与えられている。

祈りとは何かと考える時、祈りは手を合わせてするものだけではない。

祈りとは、「生きることそのもの」を言うのかもしれない。

生きていてこそ、私たちは日々、祈りを心と体で唱え、そして神は間接的に返事をして下さる。

そう思うようになった。

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