ペイガニズムの倫理と資本主義の精神 ――浪人ですが東インド会社に就職しました――

5-1. 生アヘンはダメ、ゼッタイ。

エピソードの総文字数=4,201文字

「本当に沈まないんですか! ねえフランさん本当に沈まないんですか大丈夫なんですかこれねえフランさん!!」

 天地がひっくり返るような――いや、文字通り天地がひっくり返ったような勢いで、部屋中のものがばらばらと襲い掛かってくる。

「あらいやですわイオリノスケさん、こんな状況で託宣(オラクル)の儀を始める気ですの? 大胆ですのねっ」
「いや精子(スペルマ)を出すって意味じゃないですからね顔赤らめるのやめてくれませんか冗談じゃないんですけど!!」
 ル=ウから男性器を返還されて以降、フランは事あるごとに伊織介に精子を要求するようになっていた。毎度迷惑していた伊織介だが、今回ばかりは恥ずかしがっている余裕すらない。

「うぇひひひ、目が回るよぉ、地面が傾いて見えるのさぁ」
 鴉芙蓉(ラウダナム)――要するに阿片(アヘン)麻薬――に酔っ払ったリズが、重力のままに突っ込んでくる。当然のように半裸である。下半身は剥き出しである。
「本当に傾いてるんですってば!! うおおおおおおおおおおおお沈むううううううううう!!」

 伊織介の言葉通り――床が垂直に見える(・・・・・・・・)ほどに、メリメント号は傾いていた。船梁を支える柱はみしみしと唸り、甲板からはいくらでも海水が流れてくる。

 メリメント号は、嵐の真っ只中にあった。


     * * *


 オランダ艦隊を撃退したメリメント号の旅路は、想像よりもずっと順調で快適なものだった。十分な追い風にも恵まれ、僅か十日ほどでベンガル湾を横断。アンダマン海の端、アチェ王国のアチン港で束の間の補給を済ませた後には、マラッカ海峡への侵入を開始した。

「東岸はポルトガルの根城、西岸の小島は海賊の隠れ家である。何か怪しいものを見つけたら、どんな些細なことでも報告するのであるぞ」

 リチャードソンはそう言って、敵船への警戒を促したが――真っ先に襲い掛かってきたのは、大自然の脅威そのものだった。


「もう割れても知りません!」
 伊織介が、叩きつけるように鍵付き箱(チェスト)の蓋を閉める。傾ぐ船体に合わせて、中に詰め込んだリズの私物ががちゃがちゃばきばきと音を立てたが、知ったことか。割れ物が飛んでくることの方がよほど怖ろしい。
「リズの固縛も完了ですわ!」
 フランが、ハンモックを吊るす要領でリズを縄で吊るしていた。半ば裸吊りのような格好になっているが、放っておけば半裸で部屋中を転がるのだから仕方がない。怪我をするよりはマシだろう。
「あァァァ、もう少しキツめでも大丈夫だよ……?」
「お黙りなさい、この阿片狂い! なんてタイミングの悪さですの!?」
「んああっ」
 フランがべちんべちんとリズの生尻を叩いた。いつもとは立場がまるで逆だ。

 突然の嵐に見舞われたメリメント号は、乗員総出で艦内の積み荷の固定に大わらわだった。荒れる海面にあわせて怖ろしいほどに傾く船体にあっては、固定されていないあらゆる物が凶器となって転がり落ちる。フォークにナイフなどは可愛いものだ。分厚い書物から酒瓶に薬瓶、挙句の果てには水樽や大砲が転がり込んでくることもある。
 食物樽に圧し潰されて死んでしまっては笑い話にもならない。そんな訳で、伊織介も船内品の固縛に力を貸していた訳だが――

「イオリノスケくんもぉ、一発どうだいぃ? いっしょに気持ちよぉくなろぉよぉ」
 ぎしぎしと縄に揺られながら、リズが蕩けた笑顔を向けてくる。
「断固、拒否します! 本当、リズさんは両極端過ぎます……!」
 そう、なんとも間の悪いことに――嵐に襲われた時、白魔女リズは非番(オフ)だった。非番(オフ)の時の彼女の日課といえば、酒を飲んで半裸で船内を走り回るか、自室で阿片を啜って享楽に耽るか。今回は後者の真っ最中だったという訳だ。
「最高だよぉ。一度やってみれば分かるさぁ、阿片オナ……」
「わーっ! 聴こえません聴こえません!」
 へらへらと笑うリズの言葉に耳を塞ぐ。
 
 リズがこの調子なので、フランに請われて荒れ放題のリズ部屋の固縛に伊織介も駆り出されたというのが事の顛末だった。

「また傾きますわよ! 捕まってくださいまし!」

 ――再び、メリメント号が波の谷間に落ちる。

「うわああああああああ今度こそ沈むうううううううう!!」

 ぞっとしない角度で、船体が波間を滑り落ちる。フォースルの帆桁(ブーム)が海面に触れるほどだ。転覆して死ぬか、船体がばらばらに砕けて死ぬか……伊織介ならずとも、そんな恐怖を抱かない方がおかしいというもの。

「イオリノスケさん、落ち着いてください! こんな時は、祈りの言葉を思い出すのですよ。コヘレトの言葉に曰く〝なまけていると天井が落ち、手をこまねいていると雨漏りがする〟……」
「それ洒落にならないですね本当に!」

 天井が壁に見えるような傾斜と、微かな間の静寂を幾度も繰り返して――嵐が過ぎ去った頃には、すっかり夜が明けていた。


     * * *


「まったく、イオリは臆病だな」
「んなー」
 雲一つない青空の朝。昨晩の大嵐が嘘のように海は穏やかだった。

「悲鳴が上甲板(アッパーデッキ)まで聴こえてきたぞ。沈むううううう、沈むううううう、とな」
「んなんな」
 ル=ウが船縁から水平線に浮かぶ島を眺めている。こう見えてついさっきまで真っ青な顔で海に吐瀉物を垂れ流していたのだが、伊織介にはそれを指摘する気力が残っていなかった。

 昨夜の嵐に疲れ果てた顔も多いが、メリメント号の乗員は皆無事だった。艦長(リチャードソン)は見事な即断を見せ、その時張っていた帆を捨てたのだ。お陰で必要以上に横風に煽られることもなく、メリメント号は転覆の危機を免れていた。夜を徹して指揮を執ったリチャードソンも、今は艦長室で休んでいる。今は副長であるル=ウが指揮を引き継いでいた。
 とはいえ、貴重な帆を失ったメリメント号は、大急ぎで予備の帆布を張り直している真っ最中である。伊織介もまた、艦尾甲板(クォーターデッキ)の後片付けに駆り出されていた。

「んーな」
「ええい、どうしてグリフィズ卿はわたしの部屋に死骸ばかりを持ってくるんだ!?」
「嵐の最中、暇だったんじゃないですか……?」

 先程から鳴き声を上げているのは、猫水夫のグリフィズ卿だった。あの凄まじい傾斜の中、平然と〝職務〟を遂行していたのだろう。彼はいくつもの赤い(バッタ)の死骸を、次から次へと艦尾甲板に運び込んでは、己の戦果を主張している。
「あの傾斜の中で、よくぞこんなにも仕留めましたね……グリフィズ卿はすごいですね」
「んなんな」
 伊織介が背中を撫でてやると、グリフィズ卿が誇らしげに唸った。

「怖がりなイオリとは大違いだな!」
「初めてならば皆そういうものですわ。ル=ウだって最初は大騒ぎしたでしょう?」
 フランもまた、十字架片手に艦尾甲板の掃除に手を貸している。妙に家庭的なところのあるフランは、雑巾がけから箒捌きまで手慣れたものだ。
「なっ……! フラン、お前っ……!」
「懐かしいですわね。『フランなんとかしろおおおおお! 何でもするから、お前の宣託で嵐を鎮めてくれえええええええ』……でしたっけ。あの頃のル=ウは、今よりも随分と可愛げがありましたわね」
「やめろおおおおおお! 今すぐその口を閉じろぉぉぉぉ!」
 よほど都合の悪い思い出なのか、ル=ウがいきり立ってフランに詰め寄る。
「ふふほほほ。あらいやだル=ウってば、(わたくし)の括約筋はいつだって固く閉じられていましてよ?」
「尻穴は口とは言わないんだよおおおおお!」

 賑やかなやり取りに湧く艦尾甲板(クォーターデッキ)に、上から(・・・)報告が降りてくる。

「――左舷前方に船影! 小島の陰だ。見えるかい?」

 ミズンマストの檣楼(トップ)見張り(ワッチ)についていたのは、リズだった。嵐の最中はアヘンに酔ってべろべろだった割には、仕事を始めれば相変わらずの有能ぶりだ。

「報告ご苦労。こちらでも確認した。――地元の漁船だろうか」
 フランに拳を向けるのを中断して、ル=ウが望遠鏡(テレスコープ)を伸ばす。

 マラッカ海峡は、無数の船が行き交う世界有数の交易路にして、海賊のひしめく世界有数の危険地帯でもある。複雑な沿岸の地形と、大小様々な島の数々は、海賊が奇襲をかけるにうってつけだ。この海峡においては、どんな小さな船影も余さず報告するのが船乗りにとっての常識である。

「かなり小型だね。(はしけ)かな」
 リズは高所からの視界を確保しているとはいえ、肉眼で遥か彼方の小さな船を見つけている。驚くべき目の良さは、流石は銃手といったところか。
「ああ。いずれにせよ、あの大きさでは脅威にはなるまい」

 ル=ウが望遠鏡を折り畳む。しかし――

「……ねえ、ル=ウ? あれも船ではありませんこと?」
 フランがさらに右舷後方側を指差した。ル=ウが慌てて望遠鏡を構え直す。
 だが、今度はメインマストのトップマンが声を上げた。
「右舷6点に船影! 2隻居ます!」
 続け様に、フォアマストからも報告が上がる。
「また船影です! 左舷方向、3点! ……こっちも2隻だ!」

 ……報告は計6隻分。いずれも小船だが、位置的にはメリメント号を囲むように現れている。

「――イオリ。リチャードソンを叩き起こせ。戦闘配置だ!」
 ル=ウが水平線を睨みつける。厭な予感に、イオリも即座に首肯した。

 警鐘が乱打される。いつの間にか、少しずつ青空には雲が広がりだしていた。

 ――マラッカの海賊。島影に隠した小船による包囲奇襲は常套手段と聞いている。しかし――、

「……なんだ、この数は」
 思わずル=ウが呟いた。

 ゆっくりと、しかし確実に東へ進むメリメント号の周囲に、無数の小船が姿を現している。蟻の群れのように、一隻、また一隻と集まってくる。数十、数百――数え切れない数だ。

「これが、海賊だと言うのか――ありえない。ふざけてる」

 異常な数の船がメリメント号を取り囲んでいた。
 逃げ場など、どこにも無いとでも示すように。

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