もしも敬虔な女子高生が〈神は死んだ〉のニーチェ作『ツァラトゥストラ』を読んだなら

『精神の三段変形』

エピソードの総文字数=4,667文字

クリスマスの夜、普段は一年生は入れない上級生の寮室へおじゃました菅原ひとみ。

おそらく早乙女(さおとめ)れいか先輩のセンスだろう、ゴージャスなインテリアの室内に目を奪われつつも、さっそく深緑の本を取り出して歓声をあげていた。

「この聖書ブックカバー、すっごい威力ですね!

 持ち出し禁止の本をどうどうと持って歩けるなんて!!」

「まさかこの学園で『聖書の中をみせて』なんて言われることはないでしょうけれど……。それでも、あんまり目立たないようにね」

「わかってますヨ~!

 でもほんと、このカバーの中に禁断のツァラさんがはいってるなんて!

 バレないかのドキドキ感がたまりませんです!

 なんだか男装して女子禁制の男子寮にはいりこんでるみたい!」

「なにそれすてきね!」
「そんでそんで、男子校の中でしか見れない禁断のあれこれにバーンと遭遇しちゃって、ちょー赤面なんだけど素知らぬ顔で過ごしてドッキドキの展開とかとかっ!」
「よいですわそれっ!」

「おぃおぃ」

(だいじょうぶかこの子らは……)

「何言ってるんですかぁー、寮生活で性別詐称は萌えの基本ですよぅ〜。ウチの女子寮にもどっかに男子潜んでないかなって、ようこちゃんとしょっちゅう話題にしてるんですから!
「しょっちゅう疑惑の眼差しで見られるのはそういうわけだったか……」
栞理(しおり)はよくそういう雰囲気だしてますものね」
「心外だな。こう見えても親しい仲以外の前ではちゃんと女子らしく装っているぞ」
「まっ、装うですって。やっぱり女装してますの?」
「こらこら、その話題はもう禁止だ!」
「うふふふ」
(親しい仲ですって。わたしも仲間なのねー、『きゃー!』なのですです!)

「まったく。

 とにかく、安心できる場所にかえたのだ。話をすすめようじゃないか」

「はぁい♪」
「はぁい♪」

「前回であらかた序説部分は終わっていたな。今夜からは『ツァラトゥストラの言説』部分に進むとしよう」


今まで読んでいた『ツァラトゥストラの序説』は前口上とも訳されている。全体の要約に当たるのだが、どちらかといえば長い前フリのようなものだ。
「あ、うちのツァラさん(河出文庫、佐々木 中 訳)は言説じゃなくて『ツァラトゥストラの教説』ってなってますね」
「わたくしの方(光文社古典新訳文庫、丘沢 静也 訳)は、『ツァラトゥストラの演説』ですわ」
「ふむ、どの本も、もちろん同じ言葉から訳されているから、同じような意味ではあるな。僕のツァラ殿(中公文庫、手塚 富雄 訳)には、こんな約注がある」
『同志への教説がはじまる。重荷に耐える義務精神から自律へ、さらには無垢な一切肯定の中での創造へ。これが超人誕生の経路である。』
「いつの間にやら同志をあつめて演説、説法をする設定になっているようだな」

「死体を担いで歩いていたのはどうなってしまったのかしら?」


「序説はあくまで例え話で架空のことだ……。という設定に後付けでしたのかもしれないな。設定と展開をしっかり固めないで書き始めてしまったのかもしれない」
(別次元も見渡せる吾輩の視野には、「ぎぎぎぎくぅ」と頭を抑えてうずくまる著者の姿が映っていたりもするのだが、もちろん登場人物はそんなことには構いはしないので、このまますすめるとしよう)

「もしかしたら、今までのは全部マエセツなのかもですね。ADのツァラさんが頑張ってこれから始まる本番ステージに合わせて場をもりあげたんじゃないかしら?

 このあと、本編できっと『ここで笑って!』とか『拍手!』とかの指示ボードを観客にだしたりするんですよきっと!」

「ははは。ちなみに本編はまた『まだら牛』という町で説法しているようだな」
「作中の創作世界に合わせたマエセツだったんですね! 読者は自然にその世界に入り込めるという心憎い演出ですよきっと!」
(今度はなぜか「えっへん」と著者が胸を張っている姿が見えるが、やはり関係ないのでこのまま進めさせていただく)

三つの変化について


 わたしは君たちに精神の三様の変化について語ろう。すなわち、どのようにして精神が駱駝(らくだ)となり、駱駝が獅子(しし)となり、獅子が小児(こども)となるかについて述べよう。

「三つの変化、三段変形ですね!」

「なんだそれは?」

「えー、これも基本ですよぉー、飛行機形態にガウォーク形態、それに人形(ひとがた)ロボット形態とかとか!」
「うーむ、よくわからんが、詳しくは追求しないでおくとしよう」
「えー」
「まあまあ。とにかく、精神が三段階に変化するってことですわね」
「だな、最初はラクダで、次に獅子(ライオン)、三つ目は子どもだそうだ」
「精神がラクダさんなんですかー。やっぱラクだ~ってのんびりしたがるから?」
「おぃおぃ、まったく逆だぞ」

 強く、重荷に耐え、畏れを宿している精神には、多くの重い物が与えられる。その強さこそが、重いものを、もっとも重いものを求めるのだ。

 <中略>

 もっとも重いものは何か、伝説の英雄たちよ。そう重荷に耐える精神は尋ねる。わたしもそれを担い、自分の強さをよろこびたい。

「えー。重ければ重いほど喜ぶんですか? もしかしてマゾ?」
「それを担える自分の強さをよろこびたい。ってことですわね。マッチョなかんじですわ」
「それがニーチェの言う健全な精神の第一段階なわけだ」
「このあとも『もっとも重いものとは』っていろいろ言ってますけど、成功しそうなときにわざと失敗することとか、病気のときにお見舞いに来た人たちを追い返すこととか、なんだか自業自得というか、子供っぽいかんじです」
「ですわね。ニーチェさん的にはそういうことがもっとも重かったのですかしらね」
「精神的重圧というやつだな。人それぞれ抱えているものが違うのだから、重圧も人それぞれだろう。相対的に測ることなど誰にもできはしない。時代的なもの考慮にいれなくてはならないが、ニーチェ的には、そうしたことが重荷だろ? と読者の共感をえようとしたのだろうな」
「現代では子供っぽすぎてあんまり共感できないですねー」
「今の世では中二病あつかいされてしまうかもしれないな」
「あ、たしかに! うちの弟こういうの重圧っていいそう!」
注:ひとみの弟は現在中学二年生。まさに厨二ど真ん中世代である。

「やはりそうか。

 ともあれ、これは第一段階で、続いて精神はライオンになるのだそうだ」

 このような、これ以上なく重い一切のものを、忍耐づよい精神は担う。重荷を負って砂漠に急ぐ駱駝のように、精神もみずからの砂漠に急ぐ。

 だが、荒涼として人影もない砂漠のただなかで、第二の変化が起こる。精神は獅子となり、自由を獲得しようとし、おのれ自身の砂漠の(あるじ)になろうとする。

<中略>

 彼は最後までみずからを支配していた者を探す。そしてその最後の支配者、神の敵となろうとし、この巨大な龍と勝利を賭けて戦う。

「うっわー、支配者への反逆! ロックですね! 少年マンガですね! サイボーグ009神々との闘い編(未完)ですねっ!!」

「またちょっと意味不明な表現が聞こえたが、簡単に要約すると、重圧に耐えられる自分をマッチョに悦に入っていた精神は、その重圧を克服して、精神の自由を得ようとする。ということだな」

「それが獅子、ライオンですのね」
 精神がもはや(あるじ)と認めず、神とも呼ぶまいとするこの巨大な龍とはなにものか。この巨大な龍の名は「(なんじ)なすべし」だ。だが獅子となった精神は「われ(ほっ)す」という。「汝なすべし」は精神の行く手をさえぎる。黄金にきらめく鱗をもった獣であって、その鱗一枚いちまいが「汝なすべし!」と金色に輝いている。
「えーと、汝なすべしって、『君はこれこれをやるべき!』って意味ですね。われ欲すは『わたしはこれこれをしたい!』ってことです?」
「そのとおりだな」

 千年のあいだ永らえてきたさまざまな価値がこの鱗に輝いている。

 <中略〜龍は言う>「ものごとのすべての価値ーーそれがわが身に輝いているのだ」。「すべての価値がすでに創られてしまった。そして(それは)このわたしなのだ。まことに、『われ欲す』などは、もはやあってはならぬ!」

「ちょっとまって……、この言葉……、どこかで……あっ!」
「気がついたか。

 そう、エンデにそっくりのくだりがあるな」

「『はてしない物語』ですわね!!」
「そうなんですか?」
「おいおい図書委員、あの名作を読んでいないのか」
「すっごい小さい頃ですけど、テレビで映画(ネバーエンディング・ストーリー)は見ましたよー」
「あれはダメだ。原作者のミヒャエル・エンデも映画は認められないと言って裁判までしているぞ」
「そ、そうなんですか?」

「まあ、それは余談だがな。図書館には絶対といっていいほど置いてあるはずだ。名作なのでぜひ本で読んでほしいな」

「ですわね、できればハードカバーでね」
「え〜、映画、白い龍かわいかったですよー、あと男の子、セバスチャンだっけ? それと女の子もとってもすてきでした♡」
「バスチアンだっ!(男の子)」
「そうでしたっけ? 女の子はなんだっけ、クンタ・キンテ?」
「ぶっ! モンデン・キントだっ!! 」


(ちょっとというかかなり危険なボケだぞそれは!・・・)

「へーえ、100年前にも『はてしない物語』あったんですねえ」
「逆だ逆……。

 おそらく、エンデがニーチェを参考にしたのだろうな」

「そういえば、龍に砂漠にライオンに……。似たモチーフがでてきていますわね」

「おそらく、この三つの変化へのエンデなりの回答が、『はてしない物語』なのだろうな」
「『汝の(ほっ)することをなせ』ですわね」
注:『汝の(ほっ)することをなせ』はエンデの『はてしない物語』の重要なキーワードである。この言葉にももちろん深い意味が隠されている。詳しくは彼女らの言うとおり、原作を(ぜひハードカバーで)読んでみてほしい!

「うむ。そして『子ども』というモチーフだ。さすがは児童文学の名作だな。

 では、少し長くなるが、『子ども』についてはれいかの丘沢訳で読んでみよう」

精神は以前、「汝なすべし」をもっとも神聖なこととして愛していた。だがいまは、このもっとも神聖なことですら狂気の横暴だと見なす必要がある。精神が自分の愛を自分から強奪して、自由になるために。その強奪のためにライオンが必要なのだ。

 しかし、兄弟よ、言ってごらん。ライオンでさえできなかったことが、なぜ子どもにできるのか?

 子どもは、無邪気だ。忘れる。新しくはじめる。遊ぶ。車輪のように勝手に転がる。自分で動く。神のように肯定する。

 そうなのだ、創造という遊びのために、兄弟よ、神のように肯定することが必要なのだ。自分の意志を、こうして精神は意志する。自分の世界を、世界を失った者が手に入れる。

「絶対肯定ッ!! ですねっ!」
「そのとおりだ」
「そして、創造を遊びのように楽しむのですね。クリエイター賛歌ですわ!」
「あいかわらず兄弟(ブラザー)なのがちょっと気になりますけど、さすが良いことをいってる気がします!」

「気じゃなくて……、いいことを言ってると思うぞ。

 僕はこうした無邪気な創造の力こそが子どものもつ神の力と言っているように思えるな」

「ほんとですわ」
「ツァラさん、ちょっと見直しました!」
「ちょっとかい!!」
ツァラトゥストラはこのように、精神の三つの変化について話をした。


ーーー精神はラクダになり、ラクダはライオンになり、ライオンは最後に子どもになる。ーーー

〈つづく〉

◆作者をワンクリックで応援!

5人が応援しました。

◆コメント欄は未記入でもOK! 公開されないのでお気軽に。

ページトップへ