ペイガニズムの倫理と資本主義の精神 ――浪人ですが東インド会社に就職しました――

3-7. 全裸より恥ずかしいものくらい誰にでもある

エピソードの総文字数=7,293文字

 機嫌を損ねると、その尾に宿る不思議な力で嵐を呼ぶ。
 彼が海に落ちると、巨大な渦潮が現れて船を飲み込む。

 それ故、彼の安否は船員全員にとって最優先事項となる。西欧(ヨーロッパ)系の船乗りの間ではそう信じられている。

 ――猫水夫。

 食物樽に蔓延る害虫を瞬く間に退治する狩人(ハンター)は、冗談混じりでそんな迷信が生まれるほど、船とは切っても切れない存在だった。

 長い航海を支える食料を、虫や鼠に食い荒らされるのは死活問題だ。寄る辺の無い海上では、それは文字通り寿命を縮めることになる。そこで猫水夫の出番となる。猫は放っておいても害虫どもを狩り出し、貴重な食物を守ってくれる。
 よって遠洋を征く船なれば、多くが警備員代わりに猫を乗せているのが通例である。それはメリメント号も例外ではなかった。


     * * *


 翌々日。
 出港準備に追われるメリメント号は、最下甲板(オアロップ)から上甲板(アッパーデッキ)まで天地がひっくり返ったような大騒ぎだった。数十人もの屈強な男達が大声で叫んだり、ばたばたと走り回ったりと忙しなく動いている。

 出港も間近だ。ル=ウは艦尾甲板(クォーターデッキ)から忙しなく指示を出しているし、リチャードソンは水夫たちが船内に連れ込んだ娼婦らを追い出しにかかっている。
 一方、船乗りとしては何の技能も無い伊織介には、何の仕事もない。というか、伊織介に指示を出してやるだけの余裕が誰にもない。手持ち無沙汰となった伊織介は、しかたなしに艦尾楼(フォクスル)の掃除をしているところだった。

「みみゃ」

 淋しげに一度磨いた筈の床をもう一度拭いていた伊織介に、背後から声がかかる。
 振り返ると、そこに居たのは、尻尾をぴんと立てた小さな水夫。

「これは、グリフィズ卿。おはようございます」
「んな」

 くりくりとした大きな目玉が、得意気に伊織介を見詰めている。
 彼の名前は、ルウェリン・アプ・グリフィズ。(いかめ)しい名付けはリチャードソンの趣味で、おまけに彼には〝(サー)〟の敬称まで付いている。何を隠そう、彼こそは魔女の使い魔でもなんでもないただのオス猫(・・・・・)にして、艦長に継ぐ役職者――この(ふね)の主席士官だった。

 要するにこの可愛らしい水夫は、この(ふね)では二番目にえらいのである。 
「今から出港ですよ、グリフィズ卿。あ、もしかして皆忙しいから僕のところに来たのですか?」
 当然、魔女の従僕に過ぎない伊織介なんかより、グリフィズ卿は立場が上だ。伊織介も敬意を払うに吝かではない。
(うーん、でも僕、猫の構い方は知らないんだよなぁ)
 嫌いではないにせよ、伊織介は猫の扱いなど心得がない。高貴な猫ならば尚更である。

 そんな伊織介の逡巡をよそに、グリフィズ卿はひょこひょこと伊織介の足元にやってきた。どこに隠し持っていたのやら、その場に何かをぽとりと落とす。
「みやー」
 さぁ褒めろ、と言わんばかりにグリフィズ卿は声を上げた。

「うげっ……! コオロギ……? いやバッタ、かな?」

 見れば、伊織介の足元に置かれた物体は、胴体を圧し折られた昆虫だった。人の掌ほどに大きな、赤い身体の(いなご)のような見たことのない昆虫だ。まだぴくぴくと動いており、正直に言ってかなりグロテスクである。
「み! みゃー!」
 グリフィズ卿に任された職務は、船に積まれた食料を荒らす害虫・害獣の排除。ならばこれは、グリフィズ卿の立派な成果物という訳である。

「う、うん……素晴らしい成果です、グリフィズ卿。流石です」
 正直ちょっと、いやかなり気持ち悪いのだが、さりとてグリフィズ卿の働きを無駄にする訳にもいかない。
「みー」
 虫の死骸から目を逸しつつ、腰というか背中というか、とにかくその辺を撫でてやるとグリフィズ卿は満足気に喉を鳴らした。

 世界各地を股にかけて交易する船には、時には一体どこから紛れ込んだのか分からない虫が発生することもある。こんな巨大な虫が繁殖し、艦内の荷物を食い荒らしたら一大事だ。猫士官グリフィズ卿は立派にその役目を果たし、船を守ったのだった。

(とはいえ、今度は死骸を見せつけに来るのは勘弁願いたいなぁ)

 密かに祈りつつ、伊織介は留棒(ビレイピン)で気持ち悪い死骸を海に捨てるのだった。


     * * *

 
「艦底バラスト、点検完了。問題ありませんでした」
「船倉、点検完了。積荷に問題、ありません」
「砲架の固定を確認。出港に支障ありません」

 最終確認の報告が次々に艦尾甲板(クォーターデッキ)に上がってくる。

「艦長、全ての点検が完了したようだ。いつでも出航できるぞ」
 ル=ウが最後に言い添える。それらを聞いて、リチャードソンは艦中に轟く声を張り上げた。
「うむ――総員、展帆配置!」

 艦長の号令で、船乗り達が素早くマストに登っていく。船乗り達は待ちかねたとばかりにその技術を披露した。リチャードソンは艦尾甲板から指示を出し、掌帆長(ボースン)らが復唱する。水夫たちは号令に合わせ、高さ20メートルを越える高所で統率された動きを見せる。あんな高い場所で、命綱もなしに帆や縄を操作するなんて、伊織介にはとても考えられない。

「各ヤード位置につけ。括帆索(ガスケット)、開放。帆脚索、張り込め(シート・ホーム)

 風上側のフォアマストから順に、下からコースル、トプスル、そして一番上のトゲルンスルが開放。白く輝くような帆が一枚一枚現れる度に、風を受けた船体が少しだけ前屈みになる。

各員、転桁索につけ(ブレース・スタンバイ)。進路――南東微東(サウスイースト・バイ・イースト)半点南(ハーフサウス)――出港である!」 

 帆が次々に風を孕み、形を整えていく。風圧を受け、メリメント号の船体は少しずつ加速した。九月、ベンガル湾には南西からの季節風が吹き付ける。――南東に向かうには、最高の風だ。

 船は真後ろから吹く風より、斜め後ろからの風を好む。真後ろの風だと、一番後ろの帆でしか風を受けられないからだ。三本あるマストのそれぞれの帆は、その全てが風をいっぱいに孕んで大きく膨らんだ。

「はっはー! メリメント号は絶好調である。この風ならば七ノット、いや八ノットは出る!」
 リチャードソンが上機嫌で吠えている。その声に呼応するかのようにメリメント号はさらに速度を増し、海面を切り裂いてぐんぐん進む。後ろを振り返れば、朝日に照らされたマスリパトナムの港が小さく見えた。
 
 統率された船乗り達の動きも、白く膨らんだ巨大な帆も、そしてこんな巨大な物体が水に浮かんで進んでいる不思議も、この出航の瞬間ばかりは何度経験しても飽きることが無いに違いない。伊織介の心はどうしようもなく昂っていて、おそらくそれはすべての乗組員が同じ気持ちであったろう。

(多くの幼い子供たちが何故、船乗りに憧れるのか。多くの詩人たちが何故、帆船に夢を唄うのか。今なら分かるような気がする)

 マスリパトナムの街で、船乗りの真似をして遊ぶ異人の子どもたちを思い出し、伊織介はそんなことを思った。


     * * *


「ねえ、ルウ。来ましたよ、伊織介です。開けて下さいよー。ルウー。ご主人様ー?」

 困ったものである。呼ばれたから来たというのに、伊織介の主人は扉を開ける気がないらしい。

(どうしろと言うんですか、この魔女さまは……)

 伊織介は項垂れて、艦尾楼(フォクスル)にあるル=ウの私室の前で途方に暮れた。


 そもそも、未だ伊織介は股間の男性器を返して貰っていない。小用(お小水)の際はいちいちル=ウにお伺いを立てる必要があるので、その度に伊織介は顔を赤く染めなければならない。その上ル=ウは伊織介の男性器を呼び鈴代わりに使うのだ。ひんやりと冷えた指先で、上下に擦る(・・・・・)ようにして伊織介を呼びつけるのである。伊織介も年頃の男である、用向きの度そんなことをされては堪ったものではない。

 今回だってそうだ。そんな方法で呼び出されるものだから、最下甲板(オアロップ)の寝床から跳ね起きて、(ふね)の中では最も高い位置にある艦尾楼(フォクスル)まで大急ぎで駆け上がってきたのである。
 時刻は既に夜半。水夫は基本的に2直6交代制、夜中でも変わらずメリメント号は軽快に海を進んでいる。4時間毎に当直と非番を繰り返す水夫たちと比べると、夜中に呼び出されるくらいは楽なものだが、扉を開けてくれないというのは話が別だ。

「イオリ……飯は……食べたか……?」
 ようやく扉の中からか細い声が聴こえてきた。ル=ウにしては聞き慣れないほどに弱々しい。
「ど、どうしたんですか? 大丈夫ですか!?」
 流石に伊織介も心配になって、扉にかじりつく。しかし立派な装飾の付いた木製扉は、未だ固く閉じられたままだ。

「イオリ……イオリあのな、うっ」
 水音。びちゃびちゃと何かが撒き散らされる、湿った音が扉の中から聴こえてくる。

(あー……もしかして)

 十中八九――船酔いである。
 熟練の水夫だろうと、一月(ひとつき)(おか)で生活すれば、次に船に戻った時には猛烈な船酔いに見舞われることもあると聞く。であれば、ル=ウがそうであってもおかしくはない。
 なるほど、気位の高いル=ウのことだ。酷い吐き気に耐えかねて伊織介を呼んだのは良いものの、下僕に己の弱った姿を見せるのも気が引ける。結果、図らずも天の岩戸を演じることになった……と、そんなところだろう。

(存外と可愛らしいところもあるのですね)
 伊織介は苦笑して、哀れな主人に助け舟を出してやることにする。
「ルウ、ルウ。聞いて下さい。呼び出して貰えて丁度良かったのです。艦長(リチャードソン)に本を借りたのですが、よく分からない部分があって。御用のついでに、教えて貰えたら嬉しいんですけど」
 我ながらわざとらしいと伊織介は自嘲しつつも、リチャードソンに聖書を借りたのは本当だった。航海中も、暇さえあれば聖書を読もうと四苦八苦している。

「……なぁ、イオリ」
 きぃ、と軽く音を立てて扉が開く――僅か数センチだけ。とはいえそれだけでもぐっと会話はしやすくなる。
「なんですか、ルウ」
 努めて優しく、穏やかに伊織介は声をかける。ここで焦ってはならない。いやなんで奴隷の自分が主人に対してここまで気を遣わねばならぬのか、という疑問は沸々と湧いてくるが、しかし病人相手に強硬な態度を取れるほど、伊織介は面の皮が厚くない。

「イオリは――奴隷じゃなくなったら、どうしたい……?」
 しかし、扉の向こうから飛んできたのは意外な言葉だった。
「な、何を言っているんですかルウ。僕を捕まえたのは貴女でしょうに」
 流石に面食らう。それはそうだ、今だって男性器を握られていなければ、夜半に突然呼び出される謂れもない。
「もしも。もしもの話だよ。聞かせてくれ」
「いつか、僕が自分の身分を買い戻したら、ですか……」

 思えば、日本を出てからは怒涛の日々だった。
 宣教師に騙されて、奴隷になった。戦死したかと思えば、気付いた時には魔女の奴隷だ。鬼と戦い、狂人と戦い、今や再び船の上である。とはいえ奴隷の身を脱した時のことだって、考えていないといえば嘘になる。

「そうですね。僕は――神さまのことが、知りたいです」

 それは、そもそも日本を出ようとした理由でもある。
 キリスト教が語るところの、神さま。リチャードソンが言うには、日本に伝わるところの八百万の神とは根本的に違うらしい。まだうまく言葉には出来ないが、伊織介が今まで考えていた道徳や正義が一変してしまうような、何か(・・)を感じる――だから、知りたい。それは本心だった。

「そうか……。でも、今のイオリはもう、魔女の奴隷なんだぞ……? 神さまが、そんな邪悪の徒に堕ちたお前を救ってくれると思うのか? 少なくとも、教会は許してはくれない」

 ――〝救ってくれると思うのか?〟
 ――〝そんなものは愚かな人間の弱さが生み出した幻想である〟

 ル=ウの言葉に、いつかリチャードソンから聞いた言葉が重ねて聴こえた。
(あ……もしかして。艦長(サー)リチャードソンが言いたかったのは、こういうことだったのかな……?)
 浅はかな考えかもしれないが……それでも、辿り着いた道筋を、伊織介は力強く言葉にする。

「僕は……救われなくても、良いです。救われたくって神さまに縋るんじゃありません」

 しばし、扉の向こうが沈黙した。笑っているような、困惑しているような。そんな気配がする。

「……そっか」
「変、でしょうか?」
「いいや。イオリらしいよ」

 ル=ウの声が、僅かに和らいだ。

 扉がもう少しだけ開いた。隙間から暗い室内が垣間見える。
「イオリ……あの、あのな。今、わたし……変なんだ」
 いつも変ですよ、とは言わなかった。その言葉は伊織介の心にしまい込む。
「その……イオリ……。わたしのこと……嫌いにならないで、欲しい(・・・・・・・・・・・・)
 何時になく弱気な声とともに。しかし意を決したような口調で。一息で、木製の扉が開かれる。

 そこに居たのは――真っ青な顔をしたル=ウだった。

 いつも通りの、黒衣の外套(マント)羅紗帽(キャスケット)こそ被っていないし、足元に吐瀉物を満載した桶があるものの、そこに立っているのはいつものル=ウだ。
「……何を言っているのですか。何もおかしなところなど」
「違うんだ!」
 ル=ウが言葉を遮って、伊織介の手を握る。

 その手は、確かに――ぞっとするほど冷たい。まるで死体(・・・・・)のように。

「見ろ! 思い出せ!」

 ル=ウは外套(マント)の前をはだけて、困惑する伊織介の手を自身の胸に押し付ける。
 その皮膚は暗闇の中でも分かるほどに病的に青白く、そして触れた指先からは、体温どころか鼓動さえ(・・・・・・・・・・)感じられなかった。

「ルウ……これは……」
「思い出せ、イオリ……わたしと、初めて会ったあの日。わたしの顔は、どうだった(・・・・・)?」

 言われて――朧げな記憶を手繰り寄せる。忘れかけた記憶が引き上げられる。
 
 そうだ、伊織介が脇腹を撃たれたあの日。
 
 ル=ウは、醜く腐りきった、死体だったではないか。

「分かるか、イオリ……。わたしは、生きていないんだ(・・・・・・・・)
 ル=ウが悲しげに俯く――その目に力なく、しかし微かに金色に変わっていた。
「わたしは、人間じゃない。少しでも血肉を喰らわなければ、こんな風に身体が死んでいく。心臓も止まる」
「ルウ……」
「聞け。一日、ちょっと吐いただけでこうなる。数日、一週間も腹を空かせれば、わたしは前みたいに腐り落ちた屍になる。それでも死なない。生きる屍だ」

 そう、伊織介が初めてル=ウに会ったあの日……伊織介は、ル=ウに食われた(・・・・)のだ。

「わたしは、フランやリズのような普通の魔女とは違う。わたしの身体は、おぞましい儀式で穢れてる。人間の身体では、なくなってしまった。わたしは――化物だ。人喰いの化物なんだよ、イオリ」

 ル=ウは、震えていた。恥と、悔しさと――それに恐怖に。
 
 彼女は、伊織介に嫌われるのを怖れていた。

「ふっ」

 思わず、伊織介は噴き出してしまう。
(なんだ……そんなこと)
 とは、言わない。そこまで伊織介は配慮に欠けていない。

 この変わり者の魔女は、おぞましい力を持ち、悪趣味な性格をしてはいるが――歳相応の少女でもあるのだ。

「化物だから、なんだと言うのです」
 正直に言えば――伊織介にとって。化物の主人の方が、燃える(・・・)というもの。
 劣等感に塗れて日本を飛び出した伊織介にとって、むしろそれは贅沢な悩みにすら思える。もしも伊織介が、故郷で化物といえるほどの力を手に入れていたら……別の未来があったに違いない。伊織介も、そう考える程度には歪んでいた(・・・・・)
「ルウは、ルウです。貴女はその化物の力で、僕の命を救って――従僕にしたのでしょう?」
 そして伊織介は、そんな自身の歪みを、多少なりとも自覚している。

「であればこそ。僕は――化物であり、魔女である貴女の下僕(しもべ)ですよ、ルウ。貴女が僕を囚える限り、僕は貴女に仕えましょう」

「イオリ、お前は……」
「僕、奴隷としては、それなりに役に立つでしょう?」
 言って、伊織介は笑った。

「イオリ! この……莫迦なやつ! でも……そこまで言うなら、仕方ないな!」
 ル=ウの言葉に覇気が戻る。
「はい。それに、今のでだいたい合点がいきました。僕を呼んだのは、つまり」
「そうだイオリ! わたしは少々、吐きすぎた。栄養を補給しなけばならない」

 ル=ウは伊織介に抱きついて、部屋の中に引きずり込んだ。
 がちゃり、と音を立てて鍵が閉じられる。

「イオリ! お前は、夜食だ!」
「はい。召し上がれ、とは言えませんが。どうぞお手柔らかに」

 あっという間に、ベッドに押し倒されて。
 眼を金色に輝かせたル=ウは、伊織介の首筋にむしゃぶりついた。
「飯も食わせた。休ませもした。それは――最高の食事にするためだ!」

(やっぱり、魔女(ルウ)はこうでなくっちゃ)
 激しく血を吸われながら、伊織介は考える。

 ――人喰いの魔女。そうであるならば、彼女が食べるのは、僕だけで良い(・・・・・・)

 奇妙な満足感を覚えながら、伊織介の意識は闇の底へと堕ちていくのだった。

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