【共幻社公式作品】ジャングルに虎がいる

2-17 砂漠

エピソードの総文字数=5,050文字

しばらく、篤志と果歩ちゃんをふたりだけにしておきましょう。

 そう言い出したのは茂だった。

 英司にそのことを耳打ちし、小霧の耳を引っ張って静かにその場を離れる。
篤志さんの言ってたこと……どう思う?
 手に持ったままだったコーラのペットボトルを床に置き、英司はホールの隅のソファに腰を下ろした。

 篤志と果歩のいるあたりとは、虎の絵を挟んで反対側になる。

 王牙が天井に穴を開けてくれたおかげで、少なくとも昼間のあいだは明るい場所にいられるようになった。それは有り難い出来事だった。こうして離れていても、ホール全体を見渡すことができる。

くそ……。あの絵、やっぱり不気味だ。

ここにいても見られているような気がする。

 ホールを横切って歩いているあいだも、英司はずっと虎の視線に追われているような心地だった。子供のころは虎の絵がこわくて、ソファにきちんと前を向いて座ったことはなかった。

子供のころのトラウマのせいじゃないですか。確かに陰気な絵ですけど、そこまで言うほどではないような……。


――で、篤志の話をどう思うかって、どういうことです?

 茂もソファに腰を下ろした。

 小霧は床に座り込み、ひと揃い持ってきたチョコスナックのおまけとトレーディングカードを確認し始めていた。

篤志さん言ってたろ、ほら、記憶がすり替わってるって話。妖怪にはそんなことできんのかって。

小霧がなんか言おうとしたの、あんた止めてたけど……。

可能ですよ。

……でも別に妖怪じゃなくたってできるでしょう。人間でも。

馬鹿言うなよ。SFじゃあるまいし……。
人間の記憶というのは、そんなに確実なものではありませんよ。外部から手を加えられなくても、自分自身で自らの過去を歪めてしまうことだってある。記憶と現実が小さな部分で食い違っているなんて、人間にはよくあることでしょう。

英司くんは経験ありません?

お気に入りのおもちゃだったはずなのに、何年か経って見たら記憶と色が違っていたとか、何度も行ったことのある場所なのに正しい道順がわからないとか……。

んー、そういうのとはちょっと違くないか?
もちろん、記憶違いと記憶の操作は違います。

でも無関係というわけではありません。そういう〈記憶違い〉があると経験から知っているから、人間は記憶を操作されても気づかないんです。

簡単な催眠術程度のことで人間の記憶はすぐに歪んだり、すり替わったりしてしまう。薬物を使えばもっと確実でしょうね。

でも……篤志さんには偽物の家族があてがわれたんだろう?

アルバムにも写真があったって……。

催眠術よりいくぶん大仕掛けになりますが、ダミーの頭数を揃えることができるなら不可能なことじゃないでしょう。

引っ越しをしたばかり。周囲には見知っている人は誰もいない。親しく付き合っている親戚もいない。そんな状況だったら、ある日突然、子供が増えたり、別の誰かと入れ替わったからといって誰が気付きます?

写真はもっと簡単です。いくらだって合成できますよ。

大間の事故当時、篤志はまだ10歳前後だったはずです。子供の記憶は――大人以上に曖昧だ。それまでの記憶を消して、大間とはまったく関係のない家庭の子供に仕立て上げる。それは難しいことじゃあありません。大間の事故では遺体の一部さえ見つからなかった行方不明者がたくさんいた。その中にひとり、本当は助かったのに行方不明のままにされた子供がいたってだけのことでしょう。

 茂の言葉がふと途切れた。小霧のほうをちらりと見て、ため息をもらす。

 小霧のサポートを期待していたのだが、今はトレーディングカードに夢中だ。

まあ、記憶を消したり身元を変えたりすることは、それほど難しくはない。妖怪が人間に紛れて生活するときによくやることです。


……問題は、篤志の記憶をどうやって消したかじゃないでしょう。
問題……?
鈍いなあ、英司。

もし誰かが篤志の記憶を故意に消したんなら。その理由があるはずだろ? それが妖怪であれ人間であれ……まあ多分妖怪だろうけど。

 からかうように小霧が口を挟んだ。

 話をまったく聞いていなかったわけではないようだ。

篤志さんが……何かヤバいことを知ってるから?
そうです。おそらくかつてのゲーム……特に、果歩ちゃんに関係した何かをね。
断定しちゃっていいのかよ。
そうでなければ……わざわざ果歩ちゃんの記憶を犬に置き換える必要なんかないでしょう。

どうしてもその記憶を消すことができなかったのかもしれませんね。

それだけ強く印象に残る〈何か〉があったんでしょう。

だから果歩ちゃんではなく、犬を拾って帰ったのだと記憶を歪めた。

水狐が篤志と戦ったときだけどさ。あいつの手が触れた瞬間、鳥肌が立った。

篤志は確かに力も強いし反射神経も並外れてるけど、それだけじゃない。あれは人間の芸当じゃないよ。

あいつは水狐の妖力を吸い取って反撃してきたんだ。何の迷いもなく核を狙ってね。


篤志はそういう役割と能力を与えられたコマなのさ。

 小霧はそう言って立ち上がり、ホールの反対側にいる篤志と果歩のほうへ視線をやった。
1、王牙の核である果歩を他のプレイヤーの操る魔物から守るため。

2、王牙の力をコントロールするため。

3、ゲームの勝利条件を達成した暁には、その妖力を奪って確実に核を始末するため。

……って感じかな?

他にもあるかもしれないけど。

指で数えながら、小霧は思いつく状況を挙げていく。
始末って……。
殺すのさ。それが一番確実だ。

王牙がどんな力を持った魔物であろうと、その核になっているのは何の力もない人間の女の子なんだからさ。

そんな簡単に言うなよ……。

言っとくけど……俺がやったわけじゃないからな?

妖怪だからって、平気で人間殺せるやつなんてそうはいない。みんなおとなしく人間に紛れて暮らしてんだからさ。

ただそういう頭のネジが吹っ飛んだ連中もたまにいて、そういうやつらのやってるゲームだったってことだよ。

 小霧はホールドアップの姿勢で付け足した。

 当事者の英司にとってははらわたの煮えるような話だろう――と、今更ながらに思い至る。

 さっき、茂が小霧の話を止めたのはそのせいだ。

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えっと……これ、食べていい?

 ソファの上に並べられたおにぎりをひとつ手にとって、果歩は篤志を見上げた。

 隣り合って座っていても、篤志は何も言おうとしなかった。

 その沈黙が、果歩には重い。

ああ……いいぞ。
 篤志は低くそう答えただけだった。

 もともと女と話すのも子供と話すのも得意とは言い難い。思いつく話題も特になかった。果歩にもこの状況を説明する必要があるのだろうが、そういうことは英司や茂に任せたほうがいいのだとも思える。

 下手なことを言えば泣き出すかもしれないし、そんな事態に冷静に対処する自信はなどまったくなかった。

 そもそも篤志だって、未だにこの状況を飲み下しきれずにいるのだ。

名前……なんだっけ。
 果歩はのろのろと赤飯おにぎりのパックを開けていた。
篤志だ。佐原篤志。

――言われてみれば、まだ満足に自己紹介もしてなかったな。

 果歩はいつも寝てばかりいたから、直接話をする機会もほとんどないままだった。篤志は茂から果歩の状況をあれこれと聞かされていたが、果歩から見れば篤志はもっと遠い存在だろう。

 クラスメイトである由宇の兄が茂で、その友人が篤志。そういう人間関係をちゃんと分かっているのかどうかも不明だ。

(案外、俺は〈工事の人〉のままかもしれないしな)
 果歩のとろくさい言動を思い返せば、いかにもありそうな話だ。
あっちゃん、砂漠の名前なんだね。
……砂漠?
 その果歩の言葉の意味がすぐには分からず、篤志は眉を寄せた。考えながら、習慣のままに煙草の箱を開けて一本取り出す。おにぎりをちびちび食べている果歩に目をやって、篤志は言葉の意味よりもむしろ聞こえなかったフリをするべきかどうかを悩んでいた。

 ライターで火をつけて最初の煙を吸い込みながら、ようやく果歩の言っているのがサハラ砂漠のことなのだと理解した。

砂漠なんて見たことあるのか?

……あ、悪いな。

 果歩のほうへ顔を向けたときに口から煙が漏れた。

 だが果歩はまるっきりに気にしていないようにおにぎりを掴んだまま篤志の顔を見上げていた。

ううん……。
 小さく答えて、果歩はまたおにぎりをかじった。

 その景気の悪い食べっぷりに篤志は眉を寄せた。ちっぽけなおにぎり1個を食べきるのにどれだけ時間がかかるのか計ってみたいとさえ思えてくる。

あのお伽話……最後に女の人がジャングルも王国も全部焼き尽くすって言ったところがこわかった。

全部焼き尽くされたあとは、きっと砂漠になるって教えてくれたでしょ。だから砂漠のこともずっとこわくて……。

俺の知っている話には、そういうシーンはないんだ。
……え?
俺が知っているのは、ジャングルから逃げた王子がオウムと話すところまでだ。

――〈このことを決して誰かに語ってはならない。語れば火の虎はおまえのその身をも焼き尽くすだろう〉。     



思い出せないだけだよ。
 果歩は言った。

 妙に断定的な言い方だった。

だって……あっちゃんが教えてくれたんだよ。

『王子様は女の人を助けられなかったんじゃない。虎のいるジャングルに置き去りにして殺したんだ』って。

だから女の人は絶対に王子様を許さない。

ジャングルも王国も焼き尽くされて砂漠になるまで、虎の炎は消えないんだって……。

 ぼそぼそとつぶやく果歩の言葉を聞きながら、篤志は頭の奥深くで、何かが強く脈打つのを感じた。

 これまで忘れ去っていた傷の痛みがじわじわと蘇ってくる。

………………。

 何かを言わなければならない。

 あるいは、何らかの行動を起こさなければならない。

 そう急き立てられるような気分だったが、言うべき言葉も、起こすべき行動も、もやもやと闇に包まれた記憶のどこかに紛れて探し出すことができなかった。

 結局篤志は黙り込んだまま、果歩の顔を見つめていただけだ。

 煙草の煙を深く吸い込む。

 果歩もまた、まだ半分も食べ進んでいないおにぎりを手にしたまま、答えを求めるようにじっと篤志を見つめていた。その丸っこい目が、篤志の記憶にある鼻面の黒い犬の目と苛立つほどによく似ている。

……少し休みたいんだ。
 篤志はそう、声を抑えて言った。

 茂はおそらく、果歩と話をすることで篤志の記憶が蘇るかもしれないと期待したのだろう。

 だが、何かを思い出したとして、それが事態を好転させるとは篤志には思えなかった。むしろ、思い出すべきではないのかも……。

 記憶を探ろうとすると胸がむかつくようなどす黒い感情がこみ上げてくる。その答えを確かめることに、篤志だって躊躇を感じずにはいられなかった。

俺はしばらく眠るから、そのあいだ、おまえは英司たちと一緒にいろ。

あいつら……その辺にいるはずだ。

……うん。
 青ざめて、険しい表情になった篤志を見て、果歩は見が竦むのを感じていた。

 さっきまでは篤志にしがみついているのが一番安全だと思えていたのに、今は篤志がこわい。さっき抱きしめられたときには篤志からあのときと同じにおいがした。布団の中でずっと果歩を抱きしめていてくれた10年前の篤志と、同じにおい。

 だが今は、もうほんのわずかなにおいも感じない。

 おにぎりを手にしたまま立ち上がり、果歩はさっき英司たちが向かったホールの反対側へと歩き始めた。

……。
 途中で一度足を止めて振り返る。

 さっきの姿勢のまま、篤志はじっと果歩を見送っていた。

 だが、何も言わない。早く行け、と急き立てるように顎をしゃくって合図をしただけだ。

 小さく頷いて一歩足を進めたとき、ホールの壁に掲げられた虎の絵が果歩の視界に飛び込んできた。

『僕だったら、絶対にそんなことはしないよ』
 あの言葉を、もう篤志は覚えていないのだ。

 そのことがまるで突き刺さった棘のように痛い。

『絶対に果歩を見捨てたりしない。必ず守ってやる。虎が襲って来ても、果歩が……虎になっても。ジャングルも王国も焼き尽くされて世界が全部砂漠になっても……。必ず守ってやるから

 果歩の耳にはまだ、10年前のあの言葉が鮮明に残っているのに。

違うのかな。

あれは、あっちゃんじゃなくて、別の人?

それともあっちゃんが呼びかけた相手のほうが、別の誰かだったのかも。

〈果歩〉じゃなくて、別の誰か。


でも……別の誰かって、誰?

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