オーバー・ザ・フェンス~十字架と罪過は誰が為

第十九章 ローマの信徒への手紙十章一節

エピソードの総文字数=1,693文字

『兄弟たち、私は彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。』ローマの信徒への手紙十章一節


「……団体交渉申し入れ?」ドリップマシーンから淹れ立てのコーヒーを取り出し、俺は啜りながらコナーを見た。彼女は朝早くから手土産代わりに朝食としてのサンドイッチを持参してきた。彼女はすでにマグカップの中のコーヒーを半分ほど空け、あくびを隠しながら頷いた。眼の下に出来ている隈を見るとさして眠っても居ないようだった。
「そ、荒川運輸ってざっと三十年前からある会社だけど、ここ最近になって労働関係のNPOから団体交渉を申し入れられたのよ」
「誰かが過労死でもしたのか?」と、俺は言った。
「残業代未払い、ハラスメント、過労死、サービス残業。労働問題の見本市みたいなものよ。一族経営なんてどんなものか知っているでしょう?会社や社員よりも家の名前とか名誉とか」コナーはゆっくりと伸びをした。
「でもはっきり言ってそれは問題じゃないの。私たちとは関係ないしね」
「ならなんだって調べたんだよ……」コーヒーの香りが鼻を擽り、舌の上で苦味を転がした。コナーのサンドイッチは白いパンにサンドイッチとレタスとマヨネーズを挟んでいた。細かいことに具材に接するパンの面にはバターまで塗ってある。俺も料理はするがコナーの手軽な軽食の方が美味く感じられる。俺はサンドイッチを一口かじって味わった。
「私だってそんなものに首を突っ込むつもりはないわよ。ただ義彦の人となりを知ろうとしたらそれにぶち当たったって話よ。でも面白いことがわかったわ」
「面白い?」と、俺は言った。彼女もまたサンドイッチを頬張り、コーヒーで流し込んだ。
「えぇ、荒川運輸はバブル崩壊やリーマンショック、あるいは三一一地震の度にリストラや派遣切りで乗り切ってきた口よ、元々の正社員を自主退社に追い込んで派遣社員に切り替え、まずくなったら切り捨てていく。事務方の仕事なんて八割方がバイトとかそんなんだよ。でもNPOに目を付けられたのはセクハラ問題が表ざたになったからなの。責任者からのパワハラで精神が壊れたバイトを一方的に解雇したら、そのバイトの友人がNPOに駆け込んで、もっと調べたらあらよあれよと被害者が大勢出てきたってわけ」コナーは俺に暗に問いかけた。俺は寝ぼけ頭を起そうとコーヒーを呷った。空になったマグカップはドリップマシーンに置いて新しいのを入れることにした。
「そのハラスメントをした上司ってのはだれだ?」と、俺は言った。コナーは大きく笑みを浮かべた。むき出しになった歯は獲物を追いつめる豹のように見えた。
「春崎義彦、我らが探し人の父親が渦中の人物だったというわけ。彼の評判ははっきり言って二極化してるわ。バイトとか派遣とか彼の下についた人からは糞野郎って言われているけど、その彼の上司とか社長辺りは彼の行動は問題あるが穏便に済ませたいって感じなの」「つまり半ば擁護しているってわけか、何故だ?」
「そこはちょっとわからないのよね、でも考えられるとしたら昔から付き合いのある人間だからってところじゃないかしら」コナーはメモを取り出したが開かずにテーブルの上に放り投げた。彼女はカウチに寝転がって腕を枕にしたが、顔はこちらを向いていた。
「ところでそっちはどうだったの、昨日連絡取れなかった時間帯についてだけど」
「ああ、そのことか」俺は夢奈との一件について彼女に話した。彼女は静かに聞いていたが聞き終わるとため息をついた。
「やっぱり予想通りと言うかなんというか……そんなところだろうとは思っていたけども」
 コナーは額を抑えてもみほぐした。しきりに揉みほぐした後、彼女は俺を見上げた。
「時々思うのよ、探偵は覗き屋だっていうけどもさ、自分が覗いているのが理解できないときが。でもあなたは理解できている、違う?」
「いや、大方その通りだ」
「だとしたら猶更……そういうことがあるって知らない方がマシよね、きっと」
「現実で起きていない方がよかったさ」と、俺は言った。その言葉はどこか遠くから聞こえているようだった。

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