【共幻社公式作品】ジャングルに虎がいる

2-08 お伽話のつづき

エピソードの総文字数=3,775文字

 耳の間近で何かが倒れる音が聞こえたような気がする。

 眠気のせいでまぶたが重い。ぼんやりと揺れる視界に崩れた壁を見つめて、英司は自分がいつの間にか眠ってしまったのだと気づいた。

う……やべ。
『眠るのは交代だ。――2時間経ったら起こせ』

 ……という篤志の言葉が脳裏に蘇った。

 睡眠不足で不機嫌そうな篤志にそうどやしつけられて目を覚ましたのは確か午前5時のことだ。


い……今、何時だ。
 英司は慌てて辺りを見回した。腕から外してソファの上に置いてある篤志の時計で時刻を確認する。

 午前6時30分。うたた寝というのには少々長すぎたかもしれない。

 すぐそばで腕を抱え込むようにしてイビキをかいている篤志が、眠りこけている英司に気づいた様子はない。――気づいていればぶん殴られていたはずだろうから、それだけは確実だ。

とりあえず、異常なし……だよな?
 頭を掻きながら身体を起こす。

 ソファの座面がいかに睡眠に不適切であるかをじっくり語りたい気分だったが、今はその相手もいない。篤志を起こすまでのあいだ、どうやって退屈を紛らわせばいいのか分からなかった。パソコンもなければスマホもないという状況で、英司には眠気覚ましの種も暇つぶしの種も見つけ出すこともできなかった。

 そして切実に……ベッドと枕が恋しい。

あー畜生。フクスケさん早く戻ってきてくれないかな。

篤志さんを起こしたって楽しい会話なんか期待できないだろうし、果歩も……。

 盛大なあくびとともに伸びをして、そんなことをぼやいたとき……英司は果歩の姿なくなっていることに気づいた。
おいおいおいおい、嘘だろ……?
 一瞬、血の気が引いた。
(誘拐? ってか、こういう場合は神隠し……? もし果歩が妖怪に連れ去られたんだとしたら……。俺、今度こそ篤志さんにぶち殺されるだろ!)
 さっき夢うつつで聞いたのと同じ、何かが倒れるような音がもう一度聞こえたのはその時だった。
果歩……かな。

そうだよな? そうであってくれ……。

こんなときにフラフラ歩き回るとか勘弁してくれよ。

 ほとんど祈るような気持ちで、音のするほうへ近寄っていく。

 ホールが暗いせいで姿は見えないが、そこに誰かがいるのだろう。不規則なリズムだったが、音はずっと続いている。

あ、鉄パイプ持ってくれば良かったかもな……。

いや、いっそ篤志さん起こして連れてきたほうが話が早かったかも……?

 そう思いながら、もう2歩……3歩……と、用心深く足を進めていくうちに、英司はあの虎の絵のすぐ下にうずくまっている小さな人影を認めた。やはり果歩だ。

 ほっとため息がもれた。

 果歩は床一面に広がっている崩れた壁や天井の破片をひとつひとつ拾っては絵の掲げられた壁に向かって投げている。

 呟くように、歌を歌っているような声が聞こえた。

 だが実際にはそれは歌ではなかった。

 あのお伽話を……果歩は壁に向かって誰かに語り掛けるように呟いていたのだ。

…………オウムはその人間たちに、『なぜジャングルへ行くのか』と、いつも同じ問いかけを続けた。返ってくる答えも、いつも同じだった。

『ジャングルに虎がいるから』

ジャングルへ行った者たちは、そのほとんどが二度と帰ってこなかった。

そして帰ってくるわずかな者たちも、誰も王が待ちわびる虎の毛皮を手にしてはいなかった。

だからオウムはまた、いつも同じ問いかけをした。『なぜジャングルから逃げるのか』と。

やはり返ってくる答えは同じだった。

『ジャングルに虎がいるから』

オウムは不思議だった。人間はたくさんの言葉を知っているはずなのに、この橋を渡るときに口にするのは……ジャングルへ行く者も、ジャングルから逃げる者も、いつも同じ言葉ばかりだったからだ。

何年経っても、王さまの望みを叶えてジャングルから帰って来る者はいなかった。

 英司が子供のころに聞いたものと……そしてブログに書き記したものとまったく同じ内容だ。
王様がもっとも信頼した歴戦の将軍も、荒くれの勇者も、牢獄につながれていたもっとも凶悪な盗賊も……誰一人王様の望みを叶えることはできなかった。

そして何年も経ったある日、ひとりの若者が若い妻を伴ってジャングルへ続く橋を渡って行った。

 一本調子に続く果歩の声を聞きながら、次第に英司は鳥肌の立つような感触を覚え始めた。
(なぜだ……)
若者は、王のたったひとりの息子だった。王は身分の低い妻と王子との結婚にひとつの条件を出したのだ。

『ジャングルの虎を倒せば、おまえたちの結婚を認めよう』

王子はその王の言葉を受け入れた。

ジャングルに向かった多くの者たちと同じようにオウムの問いに答えて、意気揚揚と虎のねぐらをめざしたのだ。

だが王子はその数日後、たったひとりで川を渡る橋を歩いてきた。

オウムはもはや、質問を繰り返しはしなかった。

王子が妻を見捨てて……ジャングルに住む虎に怯えて一人逃げてきたのだと一目で分かったからだ。だが王子はオウムに言った。

『誰もが私の罪を忘れることはないだろう。やがてその罪は火の虎に姿を変えて私を焼き尽くすに違いない。逃げ切ることはできない。ジャングルに虎がいる限り……』

『なぜおまえは、父の待つ城へ戻ろうとするのか』

オウムは初めて、これまでとは違う問いを投げかけた。だが王子はオウムにこの忌まわしい国から去って忘れるように命じた。そしてオウムが空の彼方に消えて行くまでいくども同じ言葉を繰り返した。

『このことを決して誰かに語ってはならない。語れば火の虎はおまえのその身をも焼き尽くすだろう。――ジャングルには虎がいるから』

(お伽話を聞いたのが大間でなら、果歩はまだ3歳だったはずだ。それなのに、なぜ……)
 果歩が語っているお伽話は、英司の記憶にあるものとまったく同じなのだ。

 ただ内容が同じ――というだけではなかった。細かな表現に至るまで、ほとんど違いが見つけ出せない。

(こんなに正確に覚えていられるはず……ないだろ、絶対。だいたい、3歳かそこらの小さい子供にお伽話を聞かせる時に、フツー『歴戦の将軍』とか『意気揚揚』とか、そんな難しい言葉を使うか……?
 これまで当たり前のように受け止めていたが、英司自身、なぜあんなに正確にお伽話を覚えているのか分からなかった。

 子供の頃に夢中になっていたアニメのストーリーだってうろ覚えなのに……。

果歩……。
 英司が声をかけると、果歩は、びくっと身を震わせて振りかえった。
その先は、口に出しちゃダメだ。分かるだろう?
……うん。
 小さくうなずいて果歩は立ち上がった。

 声がかすれて、呼吸がひくっと跳ねる。暗くてよく見えないが、泣いているのだろうか……?

あ、あのな。こんなところに閉じ込められて、こわいだろうし、不安だろうけど……。
ここ、ピーちゃんが壊したんだね。

覚えてるよ、ずっとあの音がしてた。あのときも……お伽話のせいでピーちゃんが来たの?

 その声が震えている。

 英司はじりじりと果歩のほうへ近付いた。悲鳴でも上げられたら厄介だ……と思うが、心細げに壁を見つめている果歩を放っておけない。

……果歩のせいじゃない。大丈夫だ。
 果歩の肩に手を回し、その小さな身体を強く抱きしめて、英司は言った。

 真夜中、犬のぬいぐるみを大事そうに抱えて……団地の広場に取り残されたように3歳の果歩が立ち尽くしている。

 その光景が、英司の記憶に蘇った。

 怯えて見開いた果歩の瞳に映って、団地を焼く巨大な火柱が揺れるように光っていた。

 大間団地が崩壊した夜。あの炎の中で英司は同じように果歩を抱きしめていたのだ。

俺……俺さ、ずっと果歩を探してたんだぜ。

けど名前も分からなかったし、俺もガキだったし……調べようがなかったんだ。ただそれでも、ずっと見つけ出したいと思ってた。

あのブログを書いたのもそのためだったんだ。


なあ果歩、俺のこと、覚えてないか?

大間で事故があったあの夜も、俺はずっとおまえと一緒にいたんだ。

……ええと。
 果歩は何も答えられなかった。

 肩に回された英司の腕の力が強すぎる。早口に押し寄せてくる英司の思いも同じだ。苦しくて、痛くて、少しこわかった。

『お伽話のことは絶対に他の誰かに言っちゃダメだよ』
 ずっと前にもこんな風に息苦しいほど強く抱きしめられたことがある。

 あれは英司の言葉だったのかもしれない。

 だが記憶は曖昧だ。

 いつもと違うにおいのする布団の中で目覚めた時、泣いていた果歩をずっと抱きしめていたのは、10年前の英司の腕だったのだろうか……。

『誰かに話したら、きっと怖いことが起こる。だってジャングルには虎がいるから』
あれは英司だったのかな。

覚えているけど……でもよくわからない。ぼんやりしてて……誰か別の……。

果歩、思い出してくれ……俺が……。
やだ……痛いよ。
 果歩は英司の腕の力に抗って、身を翻した。

 だがすぐに腕を掴まれて引き戻される。振りほどこうともがいても、英司は離そうとはしなかった。

待てって! 何にもしないから。

うろうろすると危ないから、こっちで一緒に……。

手を離せよ。――嫌がってるだろうが。
 暗がりからそう怒号が飛んできたのはそのときだった。

 篤志だった。

 ソファをひとつはさんだ距離――ここで目覚めて最初に英司を怒鳴りつけた時と同じように、その手には鉄パイプが握り締められている。

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