(If I Could) Change The World

ハルトール先生

エピソードの総文字数=5,784文字

 同室の男たちと打ち解けた翌朝、奇妙なことが起きた。アイスランドに知人などいないはずの俺に客が訪ねてきたのだ。病室に入ってきたその男は無論、他の人間の見舞い人だと思われたが、何と俺を見つけると、まっすぐこちらに向かってきたのだ。上等の外套をベルトできつく締めており、その上からでも大柄な体格は推し量ることができた。俺はすでにアイスランド人は恰幅の良い人種なのだと気がついていたので、そのことには驚かなかった。男の髪や顎髭は綺麗に整っていたが、精悍な顔つきであり、粗野と円熟が混じり合っている狩人のような印象だった。窪んだ眼窩の中で黒い瞳が輝いており、まだ太陽が昇っておらず、洋灯の明かりだけが頼りだけの部屋ではその陰影を深めていた。男はベッドの脇に設えている木製のスツールに腰を掛けると、俺の顔をじっと見てきた。
「You must make a mistake to visit me.」
「いいえ、あなたであってます。私はあなたにお会いしに来たのですよ。何語が通じるか少し考え込んでしまいました。申し訳ありません。お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「尾形慶三郎(おがたけいざぶろう)と申します。日本人です。尾形がファミリーネーム、慶三郎がファーストネームです。すみませんが、どちら様でしょうか? 確かに初対面ですよね?」
「はい、初対面です。早く私の素性を明かさないと、慶三郎さんを混乱させてしまうばかりですね。私はハルトールと申します。アウフェンギという小さな村で牧師をしており、親しい人たちからはハルトール先生と呼ばれています。慶三郎さんに会いに来たのは、あなたの噂を聞いたからです。たまたま急用があってレイキャビクに来ていたのですが、一週間ほど前に東洋人が漂流の末にここに流れ着いた、と知人から聞きました。この国は外から訪ねてくる人間が非常に少ないのです。それも東洋人となれば、本当に珍しいことなのですよ。どうかお気を悪くしないでください。珍しいもの見たさであなたを訪ねたわけではないのです。異邦人がこの国に流れ着くのは尋常なことではありません。何か不便があれば便宜を図りたいと思い、入院先を聞いて回り、こうして訪ねてきたのです」
「それは本当にありがたいことです。しかし俺は素性もわからない東洋人ですよ? どんな二心を持っているかわかりません。こう言っては気に触るかもしれませんが、俺の国に滞在している聖職者はあなたのようなお人好しなんて、まったくと言っていいほどいませんよ。財布にたっぷり金を詰め込むか、腹にたらふく食料を入れることしか考えていませんでした」
「あなたから見れば、私も素性の知れない人間になるのでしょう。牧師というのも本当かどうかわかりませんしね。あなたが逡巡しているのに、無理やり援助を与えるのも傲慢でしょう。私の力添えがいらないというのならば、大人しく村に帰ります」
「いえ、俺は本当に困っていて、どうしても他人の助けが必要なんです。それは確かなんです。ただ俺が小さな悪事は行っても、牢屋や癲狂院に入れられるような人間ではないと証したいのです。ああ、大酒のみを他人に叱責されることはよくありますが。兎にも角にも、自分は恩知らずではないと理解してもらった上で話を進めたいのです。いくつか質問をさせてもらってもいいですか? まず、アイスランド人は何語を話せるのですか?」
「この国のほとんどの人は、アイスランド語、英語、デンマーク語が話せますよ。なので、英語が話せればこの国での生活に不便はないと思います」
「デンマーク語も話せるのですか?」
「アイスランドは歴史の中で、長いあいだノルウェーとデンマークの支配を受けてきました。現在も自治法は制定されていますが、実質、デンマークの属国です」
「そうなのですか。ということは、レイキャビクから出航する船はデンマーク行きが多いのですか? やはり、日本行きの船というものはないですよね?」
「そうですね。日本に向かう船は聞いたことがないですね。もちろん、デンマークが主な交易相手ですが、同じほどにイギリスとも航路が繋がっています」
「なるほど。それは良い事を聞きました。もう一つ質問ですが、レイキャビクに日本人でも雇ってもらえそうな仕事場はありますか? 実はこの国の通貨どころか、日本円すら持っていないのですよ。なので、ここの入院費を払うことができないのです。体調から言えば、いつでも退院できるのですが。ちなみに、この国の通貨単位は何と言うのですか?」
「アイスランド・クローナですね。入院費用でしたら、私が全額お支払いしましょうか? 日本に帰国するというのならば、旅費としてポンドも渡しましょう」
「もう一度言いますが、素性のわからない人間に親切をすると、どんなしっぺ返しを食らうかわかりませんよ。牧師さんに説諭を行うというのもおかしな話ですが。それに俺は無一文では祖国に帰れないんですよ。日本を出るとき、友人や知人にかなりの額の金を借りてきたんです。今はその金も失ってしまいましたけど。だからできることなら、アイスランドでもイギリスでも、どこかで儲けを得てから帰りたいんです。そうしなければ、日本に帰っても借金まみれですからね」
「慶三郎さんの謙虚さと賢さは薄々気がついていますよ。あなたは援助を受けられなくなるかもしれないのに、私が騙される可能性があることを二度も忠告してくれた。また、あなたの英語は母語話者とは異なる独特の訛りがある。赤子のときから英語を話す環境にいたのではなく、勉学の末に操れるようになったのでしょう」
「英語は数年前にスペイン人のイエズス会士に教えてもらいました。訛りがあるのは先生がスペイン人だったせいもあるかもしれません。オランダ語も日常会話程度なら話せます。ほとんどの日本人は日本語以外話すことができません。外国との文化の交わりがほとんどない国でしたので、言語も一つだけで十分だったんです。手前味噌になりますが、日本人で三か国語話せる自分は珍しいです」
「私も会いに来た人間が野蛮な人物だったら、金だけ置いて帰るつもりでした。しかし慶三郎さんは日本人だからとか、漂流者だからとか、ではなく人間として面白いところがある。私はあなたに興味が出てきましたよ。一つ、謎解きをしませんか? あなたの機知を見せていただきたい。そこの窓に書いてある文章、意味はわかりますか?」
「ここの男たちから意味は聞いています。アイスランド語で、キリストはもう一度、十字架に張りつけられる、だそうですね」
「はい。慶三郎さんから見て、この文章はどのような意味に見えますか? どのようにこの文章を解釈しますか?」
 それまでハルトール先生は柔和な表情を浮かべていたが、この質問をしたとき、病室に入ったきたときの狩人のような目つきに戻った。俺はこの質問に対する答えによって、今後の身の振り方がまったく変わることを直感した。北の果ての大地で生き延びるには、間違いなくここでハルトール先生の好意を得なければならない。しかし本当に牧師であろうハルトール先生に対して、自分の生半可なキリスト教の知識で対抗するのは愚策である。ここは得意の詭弁を弄するべきだ。そして詭弁とは考える時間を設けず、即興で論理を組み立てなければならない。
「窓の文章にはもう一度、とありますが、そもそもの一度目は言わずと知れたゴルゴタの丘における磔刑ですね。このことは四つの福音書によって伝えられており、キリストはローマ人に脇腹を槍で刺された、とされています。キリストの磔刑は最初の人、アダムとイヴが犯した罪、すなわち原罪を雪ぐ禊として解されます。実際に人類の原罪は雪がれたのでしょう。ところがキリストは二つの性を持っている。一つは神性。もう一つは人性です。人間が殺すことができるのは人間だけです。磔刑は人性としてのキリストの死による罪の清めです。磔刑に処される前のキリストの人間としての苦悩は新約聖書の執筆者も意図しなかった、何気ない一文にところどころ表れています。真の人、キリストも人間としての苦しみを持っていたのですよ。ところが磔刑から三日経ち、復活を遂げたあとのキリストはただただ神性だけの存在です。復活したキリストがどれほどのあいだ、地上に留まっていたかは福音書によって記述が違いますが、共通しているのは、もはやキリストは人性から切り離され、神性だけを持つということです。すなわちキリストがもう一度、十字架に張り付けられるとき、それは神性のキリストを磔刑に処すことを意味します。ところが、ここで神性のキリストの処刑は罪の贖いを意味するか、という問題にぶつかります。ここで一度、話を置いておき、西暦の歴史を一世紀ずつ振り返ってみましょう。時代の転換点となった出来事を一つずつあげます。西暦元年、ラテン文学の白眉オウィディウスが初代ローマ皇帝アウグストゥスの反感を買い、祖国を追放される。二世紀、ローマ帝国の歴代の皇帝の中でも賢王として知られるハドリアヌスの治世が行われる。三世紀、軍人皇帝アウレリアヌスがローマ帝国統一を成し遂げる。四世紀、ローマ皇帝テオドシウス大帝が東西に分裂していたローマ帝国を統一し、キリスト教を国教と定める。五世紀、司教にして列聖されたアウグスティヌスが『神の国』を著す。六世紀、大帝ユスティニアヌス1世の欽定によって『ローマ法大全』が完成する。七世紀、カンタベリーの初代大司教として、アウグスティヌスが任命される。八世紀、イベリア半島にて初めてのレコンキスタが勃発。九世紀、スカンディナヴィアを中心にして、ヴァイキング時代が始まる。十世紀、オットー1世がローマ教皇ヨハネス12世から帝冠したことにより、神聖ローマ帝国が成立。十一世紀、エドワード懺悔王がウェストミンスター寺院を建立。十二世紀、パリにてノートルダム大聖堂の建設が着手される。十三世紀、トマス・アクィナス『神学大全』の完成。十四世紀、詩聖ダンテ・アリギエーリが『神曲』を上梓する。十五世紀、ヨハネス・グーテンベルクが活版印刷術により聖書、通称グーテンベルク聖書を印刷する。十六世紀、マルティン・ルターとジャン・カルヴァンによる宗教改革が始まる。十七世紀、イングランド王ジェイムズ1世によって欽定訳聖書が編纂される。十八世紀、アメリカ独立革命とフランス革命が起こる。十九世紀、ナポレオン・ボナパルトがフランス皇帝に即位。そして、今は二十世紀に入りました。話が長くなりましたね。要するに俺が言いたいことは、神から授かった自由意志と理性は歴史の流れとともに発展しているということです。歴史の裏側では血なまぐさい戦争や虐殺が数多く行われてきました。それは人間にまだ野蛮や未開が残されていたからです。しかし同時に神の似姿である人間は確かにその神性へと近づいていっています。歴史とは神から授かったものの進歩の足跡なのですよ。良心によって、すべての人間の自由意志と理性が神へと向けられたとき、神の国は達成されるでしょう。俺はここに二十世紀は戦争が起こらない、平和と豊穣の時代になると断言します。二千年ものあいだ、この世界を彷徨い歩いた神性によるキリストの悲願は成就され、すべての生きる人間の自由意志と理性は目覚めます。このときこそ、キリストの二度目の磔刑が行われるのです。しかしこれは罪の贖いではなく、全人類への神性の譲渡です。それはキリストの血によって行われるバプテスマであり、言い換えれば祝福なのです。二十世紀に入り、人類はついに神に祝福される時代が来たのです」
 俺の話を聞き終えたとき、ハルトール先生は外套の襟に顔を埋めて思案している様子だった。俺はあまりにも長く話し過ぎたかと後悔した。長広舌は俺の悪い癖であり、この性質のせいで幼少のころから級友に敬遠されてきた。しかし俺の不安とは裏腹にハルトール先生は顔を上げると、俺の両手を握りしめた。
「あなたの弁論はプロテスタントの立場から見れば、解釈を異にする箇所があることは否定できません。しかしもっと視野を広げて、人間としてあなたの言葉を受け入れるのならば、汚辱の歴史を知り尽くしているにも関わらず、それでもペシミズムに陥らず、人類の未来に希望を抱く姿勢は素晴らしいものです。慶三郎さんは市井の人間が持っていない、人を惹きつける磁力のようなものを持っています。私は感銘を受けました。入院費については、私が援助するという形ではなく、私の我儘によって是非とも支払わせてください。これもあなたへ尊敬の念を抱いたことによるものです。慶三郎さんが今後、どのように流浪の苦難を切り抜けるかわかりませんが、よろしければ、私の家に客人として訪ねていただけませんか? 日本へ帰国するには航路の確認と旅費の確保が必要でしょう。その準備が整うまで、我が家を寝床にしてください。実はですね、私には娘が一人います。しかしこの子がまた気難しい娘でありまして、父親の私が言うのも何ですが、将来が心配になるほどの変わり者なんですよ。あなたからはどことなく、他人を感化する気質を感じる。もしかしたら、娘に良い影響を与えてくれるかもしれない。是非とも娘に会っていただきたい」
 ハルトール先生は俺の両手を握りしめたまま、その窪んだ眼窩に埋まっている黒い瞳で凝視してきた。そこには嘆願するような調子すら混じっていた。何もかもを失い、見知らぬ土地に投げ出された俺に選択権はなかった。この状況、ハルトール先生の善意を全面的に受け入れるしか生き延びる道がない。もしもハルトール先生の言うことがすべて嘘で、この男が詐欺師だとしても、どのみち何も持っていない俺は何も失わないのだ。それに風雨を凌ぐ宿もなく、この気温で野宿をすれば凍死してしまう。俺はハルトール先生の家に居候することにした。その旨を伝えると、ハルトール先生は医者に入院費用を渡しに行き、そのあいだ、俺は退院の準備を進めた。と言っても、外套を纏って、醤油の一升瓶を手に抱えるだけだったが。そして同室の男たちに別れの挨拶をすると、ハルトール先生と並んで病院を出た。

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