【共幻社公式作品】ジャングルに虎がいる

3-01 ドクター

エピソードの総文字数=3,134文字

俺を覚えているかい、果歩。
 男は身をかがめて果歩の視線の高さにまで顔を下げた。

 言葉を失って自分を見つめている果歩の顔を、男はじっくりと堪能しているようだった。

 10年前にも果歩はよくそうして、男の顔を見つめていた。

 何ひとつ隠すことなどできない。この幼い瞳はすべてを見透かしているのだ……と、男は感じさせられていた。

 それを思い出し、男の口元にふと笑みが浮かぶ。

 その和らいだ表情が、果歩の記憶に洗い落とすことのできない染みのように存在し続けているひとつの画像にぴったりと重なった。

お父さん……?
 声が震えた。

 そう言葉を結んでみても、果歩にはまだ信じられなかった。

 祖母の家。めったにスイッチの入れられることのない今のテレビの上に、いつもその写真は飾られていた。大間団地で事故が起こる数日前、結婚記念日に撮られた写真なのだと祖母は教えてくれた。事故の後、写真館の主人が事情を知ってわざわざ祖母の住む川崎市まで届けてくれたのだという。

 若い夫婦が、少しぎこちない笑みを浮かべて並び、その真ん中に新しいピンク色の服を着た3歳の果歩が座っている。そういう写真だった。同じ額縁の中には結婚4年目にやっと果歩を授かったご利益のお守りが大切に収められている。

ちゃぁんとお父さんお母さんに手ぇ合わせてお話してごらん? いつだっておまえを守ってくれるからね、果歩。
 3歳のときからずっと、果歩はその祖母の言葉を聞きながら成長したのだ。

 両親の顔は写真でしか覚えていない。

 そして今、目の前にいる〈父〉の姿……。写真と比べるといくぶん面やつれし、無精髭に縁取られてすさんで見えたが、それでも10年という年月の経過を感じ取るのは難しかった。老いた印象はまるでない。

 果歩の父・谷口雄二は、大間団地に併設された病院に勤務する小児科医だった。1号棟の完成と同時に夫婦で入居し、その後、1子・果歩をもうけた。

 新たに作られたばかりの団地には子供の数が多く、近隣に他の病院もなかったことから多忙な毎日を送っていた。そしてあの大間団地の事故で、死亡――。

 ……いや、遺体は発見されなかったし、誰ひとり谷口の死ぬ瞬間を目撃した者もいない。事故当時果歩の一家が住んでいた団地の部屋には、果歩の両親と叔母である百合がいた。百合は1号棟が炎上した直後に果歩の母が炎に包まれるところを目撃したという話だったが、その百合も谷口の姿は見ていなかったのだ。

 1号棟は被害が最も大きく、事故発生が深夜だったこともあり、ほとんどの縦陣が死んだ。建物の原型もとどめないほど破壊し尽くされた瓦礫の山から、生きて救助された住人がいたことのほうが奇跡と呼ぶべき事態だったのだ。谷口だけではない。他にも多くの住人が、遺体の一部さえ見つからないまま死亡と断定された。

 だがその父が生きていた?

 誰にも生存していることを伝えることなく、10年もこの大間に身を潜めていた――とでもいうのだろうか?

……でも、そんなの……どうして?


 果歩には理解できなかった。

 ただ、目の前にいる〈父〉と同じ顔の男がこわくてたまらない。

怯えなくていい。俺は葉凪からきみを預かっただけだ。

葉凪は、あれでなかなかにロマンチストでね。父娘の感動的な再会を期待していたようだ。だが、俺にはそういうつもりはないし、きみのほうだっていまさら俺を恋しがってはくれないだろう。

好きにすればいい。ここは安全だし、電気も清潔な水もある。直に篤志もきみを探しにここへ来るだろう。だが出ていきたいのなら別に止めやしない。ここは5階で、向こうに階段がある。崩れかけているが、3階までなら安全に降りていかれるよ。

 谷口の口調は静かなものだった。

 そして長々と言葉を繋いでいても、その表情はほとんど動くことがない。

どうしてここにいるの。ここで、何してるの。
今も昔も、俺は医者だよ。

でもここに住んでいるわけじゃない。ときどきこうしてやってきて、患者を診ているだけだ。この大間は妖怪にとって癒やしの場でもある。傷ついた妖怪には事欠かない場所だ。

妖怪……?
きみは覚えているはずだよ。あのころはまだ幼かったが、その目ですべてを見ていたんだからね。

さあ、思い出してごらん……。

 谷口がそっと手を伸ばし、ざらつく指先で果歩の額を撫でた。

 額の中央にその指が触れた瞬間、果歩は軽い衝撃を感じ、視界を真紅に染める新しい光が視覚に割り込んでくるのを見た。

思い出すんだ、果歩。

ジャングルの虎が、

どんな風におまえを食ったかを。

 谷口の指先が光ったのか、それとも果歩の額が光ったのか、それはよくわからない。

 だがその光に赤々と照らし出された視界に、果歩はまるでぶつ切れの映画でも見るように鮮明な映像が次々蘇ってくるのを感じた。

……これ……なに。

なぁに。


なんで……。

 果歩の意志とは無関係に、次から次に……目もくらむほどの映像がフラッシュバックする。それがいつ、どこで見た光景なのかは覚えていない。理解する暇もなかった。ひとつひとつの映像は1秒にも足りない短いものなのだ。

 もはや、ちかちかと繰り返される明滅が網膜を炙るのが認識できるだけだ。

 それは光景と呼べるものではなく、記憶と呼べるものでもありえない。果歩の神経組織を侵して破壊していく過度の刺激となって押し寄せてきた。

悪い夢じゃないはずだ。果歩――何もかも思い出せ。

もう一度、王牙を呼ぶために……。

■■■■■■■■■■■■■■■
 地中に飲み込まれたクリニックビルの最下部。

 王牙によって穿たれた巨大な穴の下に立って、茂は上層を見上げた。

 ビルを埋めた土砂さえも突き抜けて、穴はクリニックの断面をさらすように地上へと続いている。

 見上げる茂の額が赤い光を発した。

 一瞬、魔法陣に立つ威月の額に輝いていたのと同じ幾何学模様が浮かび上がって、消えた。

果歩ちゃんは5階……ドクターと呼ばれる男のところにいます。
 茂が傍らに立つ篤志に言った。

 一瞬浮き出た額の模様が、コンクリートを透かしてその向こうにいる果歩を見つけ出したのだと、篤志にもわかる。

5階ね……。

で、どうやってよじ登るんだ。向こうに転がってるソファを運んできて足場を作るか? ふたりじゃ何時間かかるかわからないぞ。

そんな必要はありませんよ。私がお連れしますから。
 そう言って、茂は微笑んだ。

 篤志の目の前で、茂の姿があのとき魔法陣に立っていた男――白い髪を背中に流した妖怪の姿へと変わっていく。

 いや、それだけではなかった。

 威月の背には巨大な真紅の翼がひろがり、篤志の腕を掴んでふわりと浮かび上がったのだ。

お、おい……!

待てよ! おい!!

 さしもの篤志もたじろがずにはいられなかった。
飛翔能力を使うには福島茂の身体では都合が悪いんです。

――大丈夫です。暴れないでいてくれれば、あの程度の高さまであなたを引きずり上げる間くらい、この姿を保っていられます。

 耳元で囁く声もまた、篤志の耳に馴染んだ茂のものではなくなっていた。

 舐めるように粘ついた威月の吐息が皮膚に触れた瞬間、篤志は初めて背筋の凍る感覚に襲われた。

(これが英司の言っていた……生粋の妖怪の気配なのか)
 こみ上げてくる不快感。

 掴まれているのは腕だけなのに、その接触面から毒液が体内に染み込んで血流とともに全身を駆け巡っているような気がした。

 だが篤志は奥歯をぎりぎりと噛み締めて震えを堪えた。

 篤志を抱えて飛翔することが、威月に限界を超える負担となっていることがわかったからだ。

 落ちれば、ただでは済まない。

 そしてそれ以上に――2度目の飛翔など到底望めないことを悟っていた。

(落ちれば、俺は永遠に果歩を助けるチャンスを失う――)

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