(If I Could) Change The World

エピソードの総文字数=2,820文字

 遠くに青く伸びるアフリカ大陸を東に眺めながらラハブ号は北上を続け、北緯五度あたりまで来たある日、檣頭に上り見張りをしていた二等航海士が北北東の方角から不吉な雲が来る、と大声を出して報告した。スカイスル・ポールに張られた帆の動きも不気味だと付け加えながら。
 そのとき俺は船尾の操舵室と船長室(キャビン)、それぞれへ下りる二つの梯子のあいだで寝転んでいた。船長はいつもこのあたりに止まり木を置いて、座っていることが多かった。二等航海士が頭上から大声を浴びせかけてくると、乗組員たちは慌ただしくなり、怒号が飛び交うようになった。船長室(キャビン)に下がっていた船長も来るべき嵐に備え、索具を引き寄せる作業のために甲板に現れた。駆け回っている乗組員たちを避けながら俺は船首へ向かい、進路先にある海を眺めたが、豊饒を右手に、残酷を左手に乗せたいつもの姿しか認められなかった。しかし航海士たちは大気の微かな震えから確かに嵐の前兆を感じ取っているらしかった。
「船首三角帆(ジブ)を切り離せ! 縮帆の必要はない。そのまま海に流せ。事態は切迫している」
「前檣中段横帆(フォー・トップスル)と主檣中段横帆(メイン・トップスル)を早く外せ! 人員が足りてないぞ! 帆柱(マスト)にあと二人上らせろ!」
「舵柄(テイラー)の紐をもう一度確認しろ! 「あそび」が足りないなら補充しろ!」
「羅針盤の針がゆっくりと回転を始めているぞ! 今にも来る!」
 前甲板には弾丸のように航海士たちの怒号が飛び交い、俺は舷檣に寄りかかりながらその光景を眺めていたが、手伝えることもなく、また船乗りではない自分の目ではこの静謐な海がこれから荒れ狂うことを信じられずにいた。
 ところがわずかに風が強くなった、と思い始めたとき、暗く、重い雲が狡猾な蛇のようにするすると空を滑ってきた。そして強風が吹きつけてきた、と思う間もなくラハブ号は嵐に直撃した。空と海は一様に水銀のような色調と重量を帯び、突然、夜が訪れたようだった。豪雨と烈風が船に襲いかかり、航海士たちは未だ怒号を上げながら嵐に抗っていたが、甲板を大雨が叩きつける轟音のせいで、その声はすべてかき消されていた。雨は声だけでなく人間の姿もかき消していた。銀色の緞帳が何枚も下りたような視界の奥で航海士たちが跳ね回っているはずだが、その姿はあまりにも遠く、この嵐の中では例え指呼の間にいたとしても顔も認められなかっただろう。突如、海が峻厳と立ち上がり、黒い壁になった。ラハブ号が四方を壁に囲まれたと思った次の瞬間には、俺たちは天の頂にまで押し上げられ、その眩暈に戸惑う暇もなく、今度は海の底に叩きつけられた。海で出会う大嵐は想像を遥かに超えて厳たるものだった。俺はまだ前甲板に残っていたが、故意ではなかった。足元があまりにも揺動するために、歩くことができなかったのだ。揺れ動く甲板を走り回ることができるのは航海士ならではの技術で、俺には歩くことすらできず、無理に動けば船から滑落して荒れ狂う海に投げ出されそうだった。船首楼(フォクスル)に下りるための梯子までは大した距離ではなかったが、赤子のように這いつくばらなければ前に進むこともできず、船内に避難するまで随分と時間がかかった。四つん這いになって手探りで進む俺は惨めだったが、その姿を嘲笑している余裕のある乗組員もいなかった。
 ようやく船首楼(フォクスル)に下りた俺は一度海に落ちたかのように濡れそぼっていた。風雨からは逃れたが、揺動は続いており、自分の船室に辿りつくまでにも、四つん這いになり壁伝いに進まなければならなかった。
 船室に戻った俺は水を吸って重くなった服を脱ぎ捨て、全裸のままウィスキーを呷り始めた。嵐に直面した程度では、いちいち船が沈まないことは知っていたが、やはり陸地での地震とは比べ物にならないほど鳴動している現状、恐怖を覚えずにはいられなかった。俺は酒を入れて自分と世界の関節を外すことにした。
 ウィスキーを飲んでいるあいだの記憶はなくなっていた。これほどまでに深酒をするのはラハブ号に乗船してから初めてだった。俺は自分を失うほど酩酊していたことを船長に蹴りを入れられて、ようやく気がついた。いつの間にか船室に船長がいた。
「ようやく嵐が収まった。今は夜だ。海も凪いでいる」
 俺は全裸のまま船長に応対した。
「そうですか。俺は未だに船が激しくヴァシレーションしているように思えるのですが」
「それはお前さんが酔いつぶれているからだろう。俺が聞きたいのはなぜ緊急事態に酒を飲んでいるかだ」
「嵐を乗り切るためですよ。俺はこの船に、船長の取引相手として乗り込んでいます。航海士としての技術は持ち合わせていません。だから船の仕事で手伝えることはない。他の人たちが自分の特技で嵐を乗り切るように、俺も自分の特技で乗り切ったんですよ。知っていると思いますが、俺の特技は酒を飲むことですから」
「こちらもケイザブロウに船員としての職務を任せるつもりはない。しかし今回の件では、お前さんはここで静かに本でも読んでいれば良かったんだ。もちろん酒を飲まずにな。俺たちが命がけで仕事を全うしているときに、一人だけ酒を飲んでへべれけになっているのはどうかと思うが?」
「そうはいいますがね、例えば、穴の空いた鍋と穴の空いた服があるとします。もしもエンドウ豆のスープを飲みたくなったとき、服に穴が空いているか確認しますか? 鍋に穴が空いていないか確認するのが道理でしょう。その逆もしかりです。外出するとき、鍋に穴が空いていないか確認しますか? 着ていく服に穴が空いていないか確かめるのが理に適っている。穴の空いた鍋を修繕するのは料理をしなければならないときで、穴の空いた服を繕うのはそれを着なければならないときです。その逆を取る人間は狂人ですよ。穴の空いていない服を着ても、穴の空いた鍋でスープを煮込むことはできないし、穴の空いていない鍋を持っているという理由で、穴の空いた服を着た人間が周りから笑われることを避けることができるでしょうか? 先ほどの嵐の中で俺に役目はなかった。もしも阿片の売買を行うときに酒に潰れていたら、それは確かに俺の非でしょう。しかし嵐の中で俺が酒に酔っているかいないか、それは真偽を確かめなければならないことですかね? 同じくオランダについて阿片の取引をする段階になったとき、この船に乗っている航海士たちがどこかで酒を飲んでいるかいないか、それが取引の是非に関わってきますかね?」
「ああ、もういいもういい。酒が入っているときのお前さんと話すと、こっちの頭がおかしくなる。饒舌になるのはいいが、詭弁ばかり弄するのは我慢がならない。このことは不問に付すが、今後、酒は節制してくれると嬉しい。船に積みいれた酒を全部飲まれたら堪らないからな」

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