『みじょかもんの祈り ー 心の貧しい人は幸い? ー』

06. 「記憶と幸せの関係。」

エピソードの総文字数=1,527文字

露天風呂で他にお客さんがいる中、3人並んで眼前に広がる夜景を見ながら話をする。
最高の贅沢だ。

教師をしていた時代。
仕事以外に、同僚と色んなことをした。
食事にも出掛けたし、カニを食べに県外へ温泉旅館に泊まるなどもしたことがある。
贅沢だと思ったことはなかった。

・・・何故だろうか。
疲れ果てて、同僚と一緒にいても、全然、落ち着かなかった。
心を許す暇もなかった。
いくら、美味しいものを食べても、心から美味しいと思えなかった。
疲弊した肉の塊だけがテーブルを囲み、必死に食べる。
思考停止になっていた。
それだけだったんだ・・・。

今は、どうか。
稼ぎもないし、仕事もない。
社会的信頼もない。

しかし、同じような年齢
それぞれが何かしらの過去を背負い
挫折や苦労をしながら

ここにいる・・・。

仕事をしている時は、している時で、同僚と苦労を分かち合った。
しかし、この3人は腹を割って話すことができた。

お互い見栄を張る必要もなかったからだ。
ありのまま、弱い私でいられるのだ。

弱音かもしれない。
生きていく上で、そんなもの情けない悲鳴と思われるかもしれない。


10年間、複数の学校を経験してきた。

先生というのは、プライドが、本当に高い。

「どの大学出身だ。」とか

「自分は本来だったら学校の教員じゃなく、大学に残っているはずだった。」とか

「どうして生徒が勉強できないのが分からない。自分は、これくらいできたのに。」

など

結局、自分のリスペクトへと話を持っていく先生ばかりだ。

人を判断する上で、出身校を機にする。

それを知ったところで、ドングリの背比べのようなものだ。

結局、人間は腐敗して死んでいくのだから。

皆が皆でないが、そんな先生は、どの学校にもいた。
私も自慢できる学歴でもないし、あんまり聴いてて気持ちがいいものではなく、話を合わせるのに疲れていた。

「あぁー。。スゴイですねぇ。」

心の中では、あーしんどっと思っていた。

しかし、この3人は、「ありのままのフツーの自分」でいられた。

「学生でいられる今の記憶を大事にしたい」。

そう思った。


認知症の方々を相手にして
「記憶は、人格そのものではないか」と強く思う。

記憶がある時、私は私だが、なくなれば違う自分になってしまう。

私が私であるうちに、このような楽しい記憶を持っておきたいと思った。

記憶は、何度も繰り返し思い出すたびに長期記憶となる。

長期記憶になれば、年齢が高くなっても忘れにくくなる。
そう授業で習った。

いっそ忘れた方が幸せか?
しかし、人間の脳は、うまく出来ていない。
全てを、いっぺんに忘れることは不可能である。
だから辛いのだ。

数ヶ月前まで、病気になり、無職になって途方に暮れていた自分が、今はこうやって新しい仲間と一緒に苦労を分かち合っている。

当時は、思いもよらなかったことだ。

失敗、挫折したことを思い出してツラい思いをしたことは変わらなかった。

しかし、それと同時に、失敗したからこそ出会えたことがあったのだと少しずつ受け入れることができていた。

悲しいかな。

だからといって、過去の記憶から逃れることはなく、

将来への不安は、これからも消えず、私を度々襲うことになる。

もう、不安を持っている自分が、自分そのもの、、と言えるのかもしれない。

第2段階の実習は、今年の冬。
それまで、学校での授業である。

今度は、コミニュケーションだけではなく、実技も含まれる。

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