オーバー・ザ・フェンス~十字架と罪過は誰が為

第二十三章 使徒言行録八章三六節

エピソードの総文字数=3,236文字

『道を進んでいくうちに、彼らは水のあるところに来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」』使徒言行録八章三六節

 
 それからは互いに黙ったままフィッシュ&チップスを平らげてグラスを空にした。その頃には悪酔いしたサラリーマンたちや学生が大勢頭数揃えてきては馬鹿騒ぎを繰り返し、店も店でBGMを大音量で流し始めた。どんな名曲も台無しにするほどの音量でもはやパブは昼間の工事現場のありさまだった、ここでは資材の代わりに酒があっちこっちに運ばれていく。
 コナーはそんな周りを見てうんざりしたように首を巡らせた。
「ねえ、そろそろ行かない?」
 わかったと俺は言った。そしてそのまま二人で店を出た。一歩外に出ると喧騒がうそのように消え去った。 
 それからしばらく歩き続けた。歓楽街を離れ、電車の路線沿いをそのまま進んでいくと建物も何もない道路で出た。左手には四車線の道路の上を車がライトで闇を照らしながら突き進み、右手には黒々とした大きな川が線路と道路を隔てている。車の通る音と俺たちの足音だけが耳に届いた。
 見上げると眠らない街の光に照らされた空を右半分しかない月が照らしていた。その周りを崩れた楕円形の雲が幕を張っている。その景色はまるで巨大な何かの左目のように見えた。
「明日、一緒に行動するわよ」だしぬけにコナーは拒否を許さない口調で口を開いた。
「で、どこにいくつもりだ?」
「荒川運輸に決まっているでしょ、社長に直接会って揺さぶるってわけ」
 俺はしばし考え込み、頷いた。
「タイミング的におかしいからな、団体交渉を受け入れる傍らでゴロツキを雇うにしては的が違う。考えられるとしたら」
「義彦が社長に何か吹き込んだってところね、よっぽど私たちを追い出したいからでしょうけども……やっぱり、なぜそうするのかってのが分からないわね」
「確かに。だがそれは明日揺さぶってみてからにしようじゃないか?いずれにせよ、向こうに赴くってことは義彦にだって会えるはずだ。そうなったらそっちにも顔を出すとしよう」
「断られたら?」
「そんなこと考えてもいないだろうが」苦笑を浮かべると彼女はにっと唇の端を曲げた。
「ま、任せてくれると助かるわ。あなたはいつも通りに頭を使ってちょうだいよね」
「言われずとも」
「遅くなったけどもさ、無事でよかったわ」俺が顔を向けると彼女は穏やかにほほ笑んで俺の背を叩いた。

 翌日、コナーと俺は一緒になって荒川運輸に足を運んだ。S玉のM谷駅からさらに南に下り、路線沿いの平野にそれはあった。朝の十時にそこにつくまでの間、都心へ働きに出かける男たちに逆らう必要があった。
 二十台は優に超える大型トラックが見渡す限りの駐車場に停められ、灰色のトタンで覆われた倉庫もまた巨大だった、その隣には三階建ての事務所が隙間なく建てられていた。おそらく事務所から倉庫の間は扉一枚で隔てているのであろう。
 コナーはトレードマークと言える白ジャケットを羽織っている。朝の穏やかな風が彼女の紅の髪を撫でている。一方の俺は一見すると普通のサラリーマンのような格好だ。違いと言えば自衛用の道具を隠しているくらいだ。
 正面のガラス戸を抜けると床は禿げた絨毯で覆われ、右手に申し訳程度の受付のカウンターがあった。そこには色つきメガネをかけ、寝癖のついたアフロのような髪型で四十年前の化粧をしたまま年老いたような女が電話を取りながらメモを取っていた。コナーはカウンターをこぶしでこつこつと叩き、注意を向けさせた。
「失礼だけど、社長に会わせてくれないかしら、荒川タクミだったかしら?」
「面会の予約は?」
「無いわ、だけど田中幸助さんからの紹介だと伝えてくれない、きっと面会くらいはするんじゃないかしらね」コナーは挑む様に笑みを浮かべ、受付の女は胡散臭げにだが、内線は繋いでくれた。一言二言話すと受話器を戻して、俺たちを見た。
「社長がお会いになるそうです。ただしこの後NPOの方々との約束があるので手短に、と」
「結構だわ、それで十分だもの」行きましょと俺の腕を叩いて彼女は先陣切って歩き出した。俺はその後を追うようについていった。
 受付のある部屋から一歩中に入ると右手に階段、その向こうは着替えの部屋らしかった。そこで階段で三階まで上がった、上がって真正面に社長室と書かれたネームプレートが吊り下げられている扉があった。それをノックすると野太い声で入れと返事があった。
「失礼するわ」最初に入ったのはコナーだった、俺も続けて中に入り、部屋を見渡した後に声の主を見た。
 荒川タクミはどちらかと言えば小太りな男だ。不機嫌そうに潜まれた眉に毛量が少ない白髪交じりのパーマは毛羽立っているように見える。薄い水色の作業着は長年の汚れのせいかシミのような汚れが浮いて見えた。彼はやや大きめのデスクの上で無数の書類とまだ湯気の立っているお茶が入れられた湯呑が目に付いた。調度品はデスクワーク向けの物ばかりで面白みのかけらも無かった。ただタクミの座っている窓際の壁に何か色あせた写真が掛けられているのが見えた。
「田中の奴が紹介したというが、何の用だね」
「紹介はされていないわ、ただどういうわけで彼を雇って私の補佐を襲わせたのか、教えてほしいのよ」コナーは両手を腰に当てた。その声の中にチタンのワイヤーの響きがあった。
「さて、何の事だかさっぱりだが……」タクミは両手を組んで前かがみになりこちらを睨み付けてきた。
「そもそも教えてほしいのならもっとふさわしい態度で来るべきだと思うがね、御嬢さん。君もそう思わないかね?」
「あいにく俺はその田中幸助からぶたれてるからな、彼がどうなったか報告を受けたと思うが?」目を細めて低い声で返した。彼は眉をかすかに動かした。
「ボケたことは言わないで。教えてほしいってお願いしてるわけじゃないの」コナーは一歩前に踏み出した。
「言えって言っているの、わかる?これは命令よ。こっちの補佐に手を出しておいてデカい面下げて筋が通るって思っているの?」
「君、失礼じゃないかね。私はそんな奴のことは知らん。いきなり来てなんだ、その態度は。嫁も貰いどころがどこにもないじゃないか、君も大変だね、こんな世間知らずの補佐をするなんてね」タクミは薄い唇をまげてねめつけてきた。
「お引き取り願おうか、悪いがこの後、君たちと同じような世間知らずと交渉しなくてはいけないんだ。いいかね、社会に出るということは難しいことだ。そして礼儀が大事なのだよ。今の連中はそこのところが分かっていない。私の若い時からあったことで」
 タクミがしゃべり続けようとする最中にコナーは動き出した。つかつかと彼の座っているデスク前に行き、湯呑を掴んで中身を床にぶちまけた。茶のしぶきが俺の足にかかり、タクミは何をするんだと叫んだが、彼女は一切気にも留めなかった。
 そのまま湯呑をデスクに横倒しで置いたかと思うと、彼女は重心を落として拳を振り上げ、そのまま裂帛と共に振り下ろした。固く握りしめられた拳は湯呑を砕き、その骨にひびく音は部屋中に響いた。デスクがまるで寒気でも走ったかのように震えたようだった。
 湯呑は砕けて彼女の拳の下で燃えないゴミになり果てていた。部屋の中は彼女の荒い呼吸音だけが響いた。俺とタクミは息をひそめてその成り行きを見ているだけだった。
「世間がどういうのか確かに知らないわ、知っているのはこういうことと諸々の事務仕事くらいよ、さて、話すわよね?」彼女の表情はこちらから見えなかったがタクミから生意気な表情が抜け落ちて震えあがっているのを見て想像はついた。彼女の下ろされた拳は金槌よりも固く握りしめられていた。
 コナーが何故一緒に来いと言ったのか半ば理解できた。彼女は彼女なりに筋を通したかったのだ。

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