橋で祈る ~夜の底を流れるもの~

7 数えてみたら、きりがない

エピソードの総文字数=2,309文字

 おなかに礼を宿しているとわかったとき、礼のハハ――礼は自分の母の名を決して口に出そうとせず、ただハハと呼んだ。乃々花は胸中を()み取って、礼の母はハハ、と、固有名詞として受け止めた――はすでに、礼の父にあたる男とは別れていた。
 ()ろす。
 他の選択肢など存在しないかのように病院へ向かおうとするハハを、愛子が止めた。
 愛子の夫――つまりハハの父であり、礼の祖父――は、一人娘であるハハがまだ小さかったころに肺炎で亡くなっていた。
「愛子サン、必死だったって言ってた。オレが生まれるずっと前の話だけど」
 淡々と礼は語る。
 裁縫(さいほう)が得意だった愛子は、洋裁を教えたり仕立てを受注したりして生活費を(かせ)ぎ、まだ幼かったハハを育てた。
 教会に通い始めたのは、そのころだ。「現実逃避して、宗教に走っている」と陰口をたたかれたこともあったが、実際には逆で、教会でできた人とのつながりが、一人で抱えるには重たすぎる現実に向き合う勇気をくれたという。

 気持ちの面だけでなく、教会で知り合った婦人の幾人かが(家が近所だったこともあり)、弁当作りや子守(こも)りといった物理的な面でも助けてくれた。
「一人じゃないんだ、人を頼っていいんだって思えただけでも、ありがたかった。そんなふうに昔、愛子サンが言ってたよ」

 女手(おんなで)一つでハハを育てた愛子である。そのハハが、父親のない子を妊娠し、堕胎(だたい)しようとしたそのとき、
「あなたが育てないなら、私が育てます」
 そう言い切ったのは、むしろ当然のことだった。
「せっかくこの世に宿った命でしょう。あなたが育てられないなら、私がちゃんと育てます。これまでだって、あなたを育ててきたんだもの。そりゃあ、つらいときもあったけど、私はあなたを産んでよかったと心から思ってる。それに、あなたの存在に、私自身が助けられてきたのよ。だから」
 愛子の決意に、ハハも決断した。
 礼は言う。
「正直、それがハハの人生にとって、よかったのかどうかは、オレにはわからない。だけど、そこで決断してくれたから、オレは生まれているわけで……」

 ハハは二十二歳で礼を産み、まもなく別な男とかけ落ちした。愛子は言ったとおり一人で礼を育てることになり、それを果たした。
 そして、礼が高校を卒業する直前に、脳梗塞(のうこうそく)で倒れたのだった。
 当時を礼はふり返る。
「いやもう、たいへんだったよ。愛子サンが死んじゃうんじゃないかって、目の前が真っ暗になった。でも命は助かったし、リハビリして動けるようにもなった。お金とか、看病とか、オレ一人じゃとても背負い切れなかったけど、小島さんとか、教会の人たち……っていうと教会のみんなみたいだけど、そうじゃなくて、うちと親しい何人かの人たちがさ、いろいろ支援してくれたんだ。考えてみればオレ、あのとき、はじめて神さまに感謝したかもしんない。それまでは、生まれてこなくてもよかったのにって、思ってる部分もあったからね」
「生まれてこなくてもよかったなんて、どうして」
 鸚鵡(おうむ)返しに乃々花は尋ねた。浅薄(せんぱく)な感じにはなるけれど、自分の解釈を足さずに、相手の言葉をそのまま繰り返すほうが、適しているときもある。

「自分の存在が、愛子サンに迷惑かけてるんじゃないかって、子ども心にさ。ハハだって、〝未婚の母〟っていうフレーズが一生ついてまわるわけだし」
 話している内容とは裏腹に、礼の口調は(たい)らかだった。
 はるか、いまの自分とは離れた時代を遠望しているかのように。
「でも、そんなこと考えても無駄なんだよね。オレはもう生まれてきちゃってるんだから。だったら、生まれてきてよかったって思えるようにするのは、自分の仕事だ。愛子サンが迷惑だろうとか、人を基準にするのはおかしい。オレの価値はオレのものでしょ」
 それに、と、一拍(いっぱく)おいて言葉を継ぐ。
「あのとき、倒れた愛子さんのために、オレでも多少は助けるみたいなことができたのは、オレが生まれてきて、そこにいたからでしょ。オレが生きてたからだよね。だからオレ、神さまに感謝できた。オレを生かしておいてくれてありがとう、愛子サンを助けさせてくれてありがとうって」

「お母さんやお父さんと、連絡はとれているの」
 立ち入っていいものかと迷ったが、心配する気持ちが(まさ)った。
 ある程度、事情を知らなければ、知恵を貸すことも、なにか力になれる要素がないかと探すことも、しにくい気がして。
「ナッシング。父親なんて名前も知らない」
 晴れやかに天井を仰いで応える礼の態度は明るくて、だからこそ、無理をしているのではないかと(かん)ぐってしまう。
(うら)んでないの」
「そりゃ、小さいころはね」
 正直な子だと乃々花は思い、こうして胸の内を明かし合える友人が、自分にはずっと長いこと、いなかったという事実に気づく。

「いまでも、チクショーって思うときはあるよ。でも、恨んでも(むな)しいだけでしょ。それより、自分に与えられているものを、見るようにする」
 そんな孫を、愛子は静かに、微笑(びしょう)をたたえて見守っている。
 礼は指折り数え始めた。〝自分に与えられているもの〟を。
「命、愛子サン、歌うこと、おいしいスープ、教会で出会った家族みたいな人たち、信仰、きれいな夕焼け、パン屋のみんな、気持ちいい風、優しい雨……」
 きりがない!
 そう結び、礼が手のひらを上に向けてぱっと開いた瞬間に、乃々花のスマホが震えた。

◆作者をワンクリックで応援!

0人が応援しました。

◆コメント欄は未記入でもOK! 公開されないのでお気軽に。

ページトップへ