『みじょかもんの祈り ー 心の貧しい人は幸い? ー』

05. 「Fさんの光。」

エピソードの総文字数=1,878文字

「地の塩、世の光」という聖書の一節がある。

「あなたがたは、世の光である」と説教するキリスト。
「光になれ」ではなく、「光である」と断言する。

「あなたがた」とは、弟子たちや教えを信じる人たちのことを指している。

今を生きる私たちにとって、「あなた」とは、誰だろうか。

光を内在しているのは、選ばれた人たちのことであろうか。
それは、違う。
誰もが、光を内在していると言うのである。

どんな光だろうか。
それは、誰かのための灯台の光。
人が闇で迷った時に、導くための希望の光。
不安で弱っている者を勇気づける光。

それは、「あなた」なのだ。

弱く傷ついている人の横を通り過ぎず、自分から歩み寄ることは、具体的な愛の実践と言える。
まさに愛は、「概念」ではなく「実践」だ。

しかし、愛は行為のみならず、受け取る側の問題となる。
愛という名の光は、そこに「いる」だけで結実する。

ただ、目の前に光があるのに、それに気づかないことがある。

光を覆い隠しているのは、自身の目。
曇った目。
偏見や思い込み、欲求などによって認められないだけなのだ。

私は、Fさんの祈る姿を目の当たりにした時、衝撃と同時に、どこかで自分が思いあがっていたことに気づいた。
実習の間、「入所者は助け、守る対象」とでしか見ていなかった。

しかし、助けられたのは自分だった。
将来の不安、そして自分の自信の無さという闇に包まれていた私にとって、Fさんの姿は、一筋の「光」となって心に射し込んだ。

贅沢な服装やアクセサリーをしているわけではない

高貴な聖職者でもない

健康的で生き生きとしているわけではない

目の前で祈っているのは、普段は無口だが、穏和な素朴な婦人。
認知症のギャップはあっても、祈りすがれる対象のある女性。

大げさかもしれないが、暗闇の中にいた私には、奇跡に思えた。
「弱い時にこそ、私は強い」という言葉を思い出す。

彼女の姿は本意ではないのかもしれない。
しかし、私にとって光だった。
具体的に、どこがどうという説明が難しい。
形容の仕方が分からない「光」。

人間は、知らない間に誰かの「光」になっている。

こんな私でも、誰かの「光」になっている可能性だってある。
無力で頼りなく、罪深い人間にも誰かの「光」になっているのだろう。

心理学者マズローは人間の基本的欲求の中には「自己承認の欲求」があると言う。

「自分を認めて欲しい」

私は、この「光」の前で「自己承認の欲求」の塊だった自分を素直に認めることができた。
ドロドロにまみれた「認められたい」という欲求こそが、自分の苦そのものだったのだ。

恥ずかしながら、私は「認めて欲しかった」のだ。

挫折をし、弱く、情けない自分を誰かに。

誰かに慰めて欲しかった。

誰かに手を差し伸べて欲しかった。

誰かに。

誰かに。。

結局、私は自分に自信がなかったから、誰かにそれを補ってもらおうと求めていたのだ。

「そんなことないよ」
「だいじょうぶだよ」


そして、そういう自分を認めることが惨めだから考えないようにしていたこと。

だが、相手に答えは決してなかったのだ。
相手を物差しにすることで、自分の「幸せ」を測っていた。

Fさんを物差しに、自分の方が幸せだという意味ではない。
Fさんの中に、人の幸せに「明確な答えはない」ということが見えた、と言っていいのだろうか。
表現が難しい。

「人の幸せは、他人が決めることではない」
「自分の幸せは、自分が決めるものだ」。
確かに、もっともだ。
しかし、両者とも、本当だろうか。
幸せというものは、人間が決めることだろうか。
神から与えられた場所で、自分なりに必死にもがきながら生きる。

「置かれた場所で咲きなさい」というシスター渡辺和子さんの言葉は、「ブラック企業でも耐え抜きなさい。」というような意味ではなく
「神から置かれた場所で、自分なりに必死にやってごらん。
それでダメならダメで、後で答えが見つかる。
答えは用意されてあるけど、答えを見出す力を身につけてごらん」と言っているのではないだろうか。

置かれた場所は、最初は暗闇でも、人との出逢いや経験によって、薄っすらと手探りでも歩いてれば前に進める。
逃げることも行動だ。
そんな中で、光と出会うこともある。

それが、今、この時だった。
私のこの2年間は、この「光」と出会うためにあったのではないだろうか。

そう思った。

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