【共幻社公式作品】ジャングルに虎がいる

1-19 遠い約束

エピソードの総文字数=3,064文字

 茂がぜえぜえと息を切らせなら痛む足を引きずって地上への階段を上っていたとき、由宇は果歩の手を掴んだまま、大また歩きでバニーちゃんショップを目指していた。
ねえ、由宇ちゃん。
 今まで目をぱちくりさせて由宇のなすがままになっていた果歩が、ぽつりとそう言葉を発した。
あ、ごめんごめんごめん、痛かった?
それはダイジョブなんだけども……。
 果歩は口篭もった。
 ちなみに手首にはくっきりと赤く痕が残っている。
バニーちゃんショップで何買うか、果歩は決めた? あたしはね、Tシャツと筆箱と……あ、あとね、新発売のノートもすっごく可愛いよ。
ええと……。
ね、果歩もおそろいでTシャツ買お? 色はね、ピンクだけじゃなくてイエローとブルーもあるの。佐和ちゃんのと3つ、色違いで揃えられるよ。
 すでに由宇の頭の中はバニーちゃん1色である。

 今日、由宇の兄(名前は覚えていない)は、新宿の『てけてけ』という喫茶店でEIJIと会うことになっているのだという。

 その話は果歩も耳にしていた。歩く壁新聞とまで言われる由宇が、そんな話を黙っていられるわけはない。
 由宇の兄は『ぜひ果歩を連れて行きたい』と百合に掛け合ったのだそうだ。もちろんこれも、情報源は由宇である。
 ……しかし、果歩は百合から何も聞いていない。
 由宇の家で果歩が倒れたことも、今日のEIJIとの会合のことも、百合はことさらに話をそらして決して語ろうとしない。


 由宇があえて今日バニーちゃんショップに行こうと言い出した理由は、それを口実に果歩をEIJIという人物に引き合わせるためなのだろう。ついさっきまで、果歩はそう思っていた。だが、どうやら由宇にとってはそれさえも口実で、本当の目的は一周回ってやっぱりバニーちゃんショップ……ということらしい。

(由宇ちゃんは、お伽話のことなんか、聞きたくない……? あの日、何が起こったのか……知りたくない?)

 由宇に、そう問いかけてみるべきなのだろうか?


 果歩自身はあの夜のことをほとんど覚えていなかった。
 みんなでブログを見ていた時――実は他の3人が読み進めていくスピードが早すぎて、果歩には全部は読めていなかったのだが――突然目の前が真っ赤になった。
(火の虎が来たんだ……)
 あのとき……頭が割れそうな耳鳴りの中で、果歩はそれを悟っていた。

 果歩が理解できたのは、それだけだったと言ってもいい。

(約束破って、お伽話のことを話したから。だから……)
 そのあとは何がどうなったのか、全然覚えていなかった。
 目が覚めた時は次の日の夜になっていたが、そんなに長い間眠っていたのだという感覚はまったくなかった。むしろ、まだ寝足りないくらいだったと言った方がいい。とにかく空腹で、目を覚ましたのは多分そのせいだった。
 百合は口を閉ざして何も言おうとしなかったし、果歩もまた誰かにあの虎の話をするのが怖かった。
 でも……。
 いつもなら日曜は昼まで寝ている百合が、今日に限って珍しく朝から家を空けているのは『てけてけ』に行くためだろう。
果歩……。
 階段の途中で立ち止まったまま黙り込んでしまった果歩を見下ろして、由宇はそう声をかけた。


 はっきり言って、由宇にとってはEIJIとの会合なんてどうでもいいことだった。
 あの日、果歩が猛火に包まれる光景を、由宇だって兄たちと一緒に目撃した。驚いたのは事実だ。だが結局は何事もなかったのだし、それ以上を詮索したいという気持ちも起こらなかった。
 由宇が今日果歩を連れ出したのは、みんなでおそろいのTシャツを買いたいからだ。別に新宿という場所にもこだわりはない。バニーちゃんショップの所在地が新宿以外の場所なら、一も二もなくそこを目指していただろう。

 でも果歩は、由宇と同じ気持ちでいるわけではなさそうだった。

……やっぱり、気になる?
うん。
お兄ちゃんたちの待ち合わせ場所、分かるよ。行ってみる?
どこ?
連れてってあげる。その代わり、帰りにバニーちゃんのTシャツ。ね? 佐和ちゃんはブルーがいいって言ってたから、果歩はピンクとイエローのどっちか。どっちがいい?
……黄色。
えー、意外。絶対ピンクって言うと思ったのに。
ピンクは由宇ちゃんのが似合うよ。
そっかな。
うん。
よしっ、決まり! 行こっ!
 そう言うと由宇はまた果歩の手を掴み、たった今上った階段を下り始めた。『てけてけ』なんて喫茶店のことは知らなかったし、茂が書いた地図を横からちらっと見ただけだが、その上にあるという本屋には何度か行った事があった。地下街から回る道なら覚えている。
でも果歩、あの人は止めといた方がいいからね?
あの人……?
ほら、お兄ちゃんの友達。えーと、篤志さん? あの人、なんかやたら果歩のこと気にしてたし……。ちょっとアブナイそうな感じ。

占いでバニーちゃんが言ってたじゃない。『苦しい恋の予感です』って。

………………。
 果歩は言葉を失った。
 今の今まで、その存在さえもすっかり忘れていたのだ。いきなり苦しい恋などと言われても返す言葉なんか見つかるわけがない。
えー、やっぱりタイプだったとか?
さぁ……。
さあって何よ。
 じれったいにも程がある返事だった。

 さすが果歩……と言えないこともないけれど。
 由宇や佐和子がその手の話に花を咲かせている時も、果歩はいつも気のない素振りで好きなアイドルの名前さえ口にしたことがない。
 その果歩にも、ついに意中の人が現れたのかと思うとわくわくせずにはいられなかった。明日のランチタイムの話題はこれに決まりだとさえ思う。そのためにも、もっと詳しいあれこれを聞き出しておかなければ!

 ……しかし、その答えは由宇の気持ちの高なりを無残にも萎えさせる、あまりにも果歩らしい言葉だった。

ごめん、頭に巻いてたタオルしか覚えてない……。
 いや、実際には犬の名前の一件も忘れてないないのだが、いずれにしたって恋の予感に結びつくような好印象とは無縁のものだ。
『お伽話のことは絶対に他の誰かに言っちゃダメだよ』
 小走りに由宇のあとを追いながら、果歩はずっと……耳の奥で聞こえる声のことを考えていた。

 声のことを思い出したのは、あのタオルの男と出会ったときだったような気がしてくる。いや、それともずっと覚えていたのだっただろうか。

 それさえも……曖昧だ。

 何度も何度も繰り返し、果歩を怯えさせたあの声。

 絶対に忘れるなんてありえないはずなのに、どうしてこんなにも強く〈思い出した〉と感じてしまうのだろう。

 あれは約束だった。

 もうずっと前……『ジャングルに虎がいる』というあのお伽話を聞いたのと同じくらい昔に、誰かと交わした約束。

『誰かに話したら、きっと怖いことが起こる。だって、ジャングルには……』
 あれは誰だったのだろう。
 果歩はいつもとは違うにおいのする布団の中にいる。誰かが、泣いている果歩をずっと抱きしめていてくれた……。あのとても怖い夜。

 そういう光景が、不意に脳裏を過ぎった。

 その温もりを覚えている。その〈誰か〉が果歩の髪を撫でた指の感触が鮮明に蘇ってくるほどに……。

 だがその記憶は奇妙は違和感に彩られている。

 どうして果歩はその光景の一部でありながら、同時にその光景を俯瞰しているのだろう。

(これも覚えてないはずのこと? それともこれは、〈別の誰か〉の記憶かな。あの約束をしたのも本当は〈誰か〉と〈別の誰か〉で――。でもそれはきっと関係ない。そうだよね? どっちだっておんなじだもの。だって、今も……)
ジャングルには虎がいるから……。

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