パナギアの童女は茶室で微笑む ――その女は死を知らず、ただ眠るのみ――

MMR(瓶白さんの・眼から梁がポンと落ちるような・レポートだよ)その2

エピソードの総文字数=10,690文字

「そういえばジョーキ、五山っていうと、アンタは何を連想する?」
 唐突に姐が話を振ってきた。

「五山って言うと、普通は八月一六日、お盆の終わりを告げる京都の風物詩、大文字焼きの名前で有名な〝五山の送り火〟の五山じゃないかな? 他にも臨済宗の京都五山、あるいはその元ネタの鎌倉五山っていうのもある。さっき使っていた樂茶碗の〝五山〟を言っているなら、臨済宗・京都五山を指すと思うよ。茶道は禅文化の一環だからな」
 仏教徒として優等生的解答をもって応じた。

「……他にまだない?」
 何、あの解答でダメなのか? 満足な豚より不満足な姐よ。

「そうだな……中国の名勝、廬山にある奇岩、五老峰はどうだ? 五つの突起が、五人の老人に見えるから名付けられたらしい。また、〝銀河の砕ける音が聞こえる〟かもしれない、との噂を話す京都大学出身のお笑い芸人のネタを、俺は聞いたことがある」

 姐はこの解答に満足しないのか、一人で何かをつぶやき始めた。
「ローマ・コンスタンティノポリス・アンテオケ・エルサレム・アレクサンドリア……これ、何だと思う?」
 瓶白は、これらが何かを既に解っているような顔だ。俺は答えた。
「地名だろ?」
「……あたりまえでしょ? そうじゃなくて、共通点」
「アンテオケの位置がわからないが、それ以外なら、地中海周辺という共通点があるな」
 姐はドヤ顔で、俺に語った。
「世界史を選択してないならしょうがないけど――わからないのも当然かな? だったら大学生のアタシが特別に教えてあげようか、ジョーキ?」
 断っても、教えようとするくせに。姐は続けた。
「正解は、五大総主教座のある都市名。アンタが解るように言うと、原始キリスト教における五カ所の本山。ホラ、アンタのところの寺も宗教施設だから、〝~山〟の言い方を持ってるでしょ?」
 確かに。俺の寺の正式名称は〝天衝山・金剛寺〟だ。

 瓶白が補足する。
総主教(パトリアルケース)の概念は、七世紀後半、正教会におけるトゥルーリ公会議で決定されたもので、牛王姉妹が仰った五都市の主教座が、その時に五大総主教区としての格付けを受けました。例えばローマ・カトリックの総本山、バチカンのサンピエトロ大聖堂(バシリカ・ディ・サン・ピエトロ)には、実際に司教座(カテドラ)として、椅子が存在します。あ、ちなみに、カトリックでは司教座(カテドラ)と呼びますが、正教会(オーソドクス)では形容詞形ですが、主教座(カセドリコス)という表現があり、宗教建築物の聖域(ナオス)という名詞と併せ、〝主教座のある宗教建築物の聖域〟を大聖堂(カセドリコス・ナオス)と呼びます。いわゆるカテドラルに相当します」

「アタシの所は、単に教会(チャーチ)なんだよね。主教座とか司教座とか、位階制度の臭いのする物はないよ」

「しかし、牛王姉妹、族長時代や族長はご存じではありませんか?」
「瓶白さん、それはさすがに知っているよ」
「パトリアルケースの名称は、元々はアブラハム・イサク・ヤコブ・十二支族・モーセなど、イスラエル民族の族長(パトリアルケース)を意味するギリシャ語です。
 あと、アンテオケは、現在ではトルコのアンタキヤになります。シリアとの隣接地です。教会に西も東もない時代〝クリスチャン〟という呼称が生まれた場所でもありますね」
 そこまで言われて、俺は聖書の一節を思い出した。
「ああ、思い出した。〝ともどもに教会で集まりをし、大ぜいの人々を教えた。このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった〟か。使徒11:26だな。
 そういえば、瓶白はパトリアルケースとか、ギリシャ語に詳しいよな? 瓶白のお爺さんが、ギリシャ人男性だからなのか?」
 俺が確かめると、瓶白は首肯した。
「はい。私も祖母も、ギリシャ語には慣れています。――そのギリシャにおける正教会(オーソドクス)の総本山は、コンスタンティノプールです。今や、バチカン以外の四つの本山は、事実上、全てイスラム教の管理下ですね……。
 ちなみに、公式見解における樂茶碗の〝五山〟は、茶杓などを転がして落とさないための突起とは言いますが、少なくとも祖母は、恐らく牛王姉妹のご指摘通りの意味で作ったと思います。正教会(オーソドクス)で、祖母はカトリックよりも古い何かに触れたのでしょう。アンテオケもアレクサンドリアも、勿論エルサレムも、クリスチャンが居た古い時代を懐かしむがごとく」

「ジョーキなら見えるでしょ? その総主教(パトリアルケース)のある五カ所って、地図上だと、どんな感じで存在している?」
 唐突に話す姐の指示通り、俺は頭の中で地図を見た。バチカン・ローマだけがやや西へと離れているが、それ以外はグルリと地中海を取り囲むように存在している。
「なるほど……茶碗の五カ所の突起が総主教(パトリアルケース)なら、お茶は地中海ってことか?」
「アタシはそう思ったよ」
 なかなか大胆な着想だ。

「でも、濃茶が聖餐におけるワインの模倣だとしても、キリストの血、〝永遠の命を授かるための飲み物〟というわりには、茶の葉を磨り潰して練った物って、いまいちパッと冴えないような……」

 俺がそう呟くと、瓶白は言葉を続けた。
「金剛寺兄弟、ここでちょとした〝なぞなぞ〟です。まずは蜜柑、それとイエズス様の木からなる果実として有名な葡萄、その次に、禁断の黄金の林檎……さてこれは何でしょう?」
 何だ、そりゃ?さっぱりわからん。
「その顔は、ヒントが欲しい顔ですね? それでは似たものとして……赤い服を着たトルコ人、一般的にはサンタクロースとして知られていますが、それと関連のある会社が関係しています」
 俺はヒントが欲しいと言ってないのに、勝手にヒントを出す瓶白って、人としてどうなんだ?
「アタシ、蜜柑以外はわかった――さすが米国企業、思ったよりも侮れないッ!」
 そこまで言われて、俺もなんとなくわかった。思いついた言葉を口にしてみた。
「ひょっとして、米国に本社がある、炭酸の清涼飲料水(ジュース)の事か? オレンジとグレープ、それからゴールデンアップル。次に出たヒントは、サンタクロースの広告で有名なコークを意味している?」
「はい。……黄金の林檎(ゴールデンアップル)は、公式には無かったことになっていますが、私の父は、飲んだことがあるそうで」

 キリスト教と葡萄(グレープ)に関しては、ヨハネ15:1「わたしはまことのぶどうの木」か、なるほど。だが、それが茶と何の関係が? 俺は瓶白に、その見解を尋ねてみた。
蜜柑(オレンジ)葡萄(グレープ)、それと黄金の林檎(ゴールデンアップル)。一体、〝永遠の命〟と何の関係が?」

 瓶白は、俺の問に答えた。
「永遠の命というよりは、不死性をキーワードとして、考えてみてください。
 黄金の林檎(ゴールデンアップル)は、ギリシア神話や北欧神話がメインなのですが、不老不死的なアイテムです。キリスト教的には、どちらかというとアダムとイブが食べた禁断の果実(フォービトゥンフルーツ)の意味合いが強いですが……いずれにせよ、〝死〟のないエデンから追われる原因となりました。これは不死性を失ったという意味になっていまいますが。
 また、葡萄から作った葡萄酒(ワイン)は、イエズス様の御血(おんけつ)……と、ここまではよろしいでしょうか?」
「ああ、理解している。ならばいずれも、不死性と関係がある……だが、蜜柑(オレンジ)は?」

 瓶白は一息ついてから、話し始めた。
「金剛寺兄弟は、初詣で神社には赴かないのでしょうか?」
「ああ、俺の所は寺だからな。神社に行く気が無いというよりは、行っている時間がないというか……バイトを雇うぐらいのかきいれ時なので」

 姐も、この話に参加した。
「ルーテルはそういうの厳しいから、アタシは神社には行けない。そういう意味では、カトリックは変わってるよね? 寛容すぎるというか……」
「私、初詣として神宮に家族で行きます――牛王姉妹のルーテル教会より、カトリックは規則が緩いのです――現地文化における〝順応〟ですね」
 そ、そうなのか――?!

「あの、瓶白さん? 神社って、異教徒の宗教・文化よ……あまりにも無節操(ファージー)じゃない?」
「牛王姉妹、そこは〝懐が深い〟と仰っていただけないでしょうか? ――ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、靖国神社の境内を通って通学する、東京九段下にあるカトリック系ミッションスクールである白百合学園の生徒に、靖国神社前を通る時には〝頭を垂れて通りなさい〟との御言葉も与えるぐらいですので」

「え、そんな話あったの?」
 姐も俺も、そのことを知らず、ただ単に驚くしかなかった。
 なお、姐はプロテスタントだが、以前からどういう理由かは不明なものの、カトリックの一番偉い人・ヨハネ・パウロ2世にだけは、一目を置いているのだ。
「さすがカロル……」
 なお、カロルとは、姐がヨハネ・パウロ2世を呼ぶ時の愛情表現である。そんなに現教皇が好きなら、ルーテルを棄てて、カトリックへと改宗すればいいのに。

 瓶白が話を続けた。
「それはともかくですね、私が正月に神宮に行くと、鳥居に(さかき)が打ち付けられているのです。……さて、金剛寺兄弟・牛王姉妹、次の〝なぞなぞ〟は簡単です。榊・蜜柑・茶、これらの樹の共通点は何でしょう? 何でしたら、橘などを入れてもらってもかまいません」
 俺は即答した。
「それは確かに簡単だ。総て、常緑樹だな。
 ――ああ、なるほど〝左近の桜・右近の橘〟もそのモチーフか。確か、伊勢にある神宮は皇族の氏神をお祀りしているのだったな。〝橘〟は〝千代に八千代に〟と皇族男系の永遠性を意味する常緑樹で、一方、〝桜〟は木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)などが解りやすく、代々と(めと)っては栄え、そして散る落葉樹の運命を指すのか」

「そこまで解れば、あのメーカ一連の、無果汁・炭酸清涼飲料水(ジュース)が、何を元に(フレーバー)を決定しているか、解りませんか?」
「なるほど、全て――不死性か?」

 姐は、この発想に不服なようだ。
「どうして榊や蜜柑の常緑樹が、不死性とつながるのよ? 橘と永続性、あるいは神社の話とか、アタシはさっぱりわかんないし」

 俺と瓶白は一瞬互いに目があったが、俺が姐の質問に答えることにした。
「秋になると落葉する落葉樹は、生と死を表すように見えないだろうか? 冬場は枯れたように見えるのが死、春には芽吹くから生……その一方で太陽エネルギーの総量が少ない極近く・高緯度地方では、葉を再生産させるのを惜しむがごとく、冬でも葉を落とさない針葉樹などが幅をきかせている。つまり、落葉・芽吹きが死・生を表すなら、絶えることのない常緑の葉は、不死性を表す――この常緑と不死性を結びつけるのは、日本だと、橘・榊などはありがたがられている。また欧米でも同じで、ヨーロッパ原産の常緑の蔓性植物・蔓日日草(ペリウィンクル)は不死のシンボルだろ?」
「……わかった、わかった。アンタは無駄に博覧強記バカなんだから」
 俺の解説が、姐さんのお気に召したようだ。さらに瓶白が追撃を加えた。

「牛王姉妹は、十四世紀頃のイングランドで書かれた〝ガウェイン卿と緑の騎士(サー・ガウェイン・アンド・ザ・グリーン・ナイト)〟の伝説を知りませんか? その緑の騎士(グリーン・ナイト)は首を落とされても死なない、いわゆる不死ですが、常緑(エヴァーグリーン)樹がそのモチーフになっているが故に〝(グリーン)〟なのだと言われています。
 話がそれましたが、つまりは、五山の中にある地中海、ならびにその不死性……常緑樹の葉に、水を差水を差し――実際にはお湯ですが――液体にして口から頂くというのが、千利休がミサで感じた〝命の泉〟・〝聖体拝領の御血〟との類似性、だと私は思うのです。ちなみにカトリックの場合、聖餐杯(カリス)に注がれたワインは、水で少し薄めてから飲みます」

 俺自身、一通りの納得はしたが、どうも一点気になる点が残ったので訊いてみた。
「常緑樹と不死性はわかったけど、葡萄と不死性って関係あるのか?」

 俺の質問を聞いた姐は、目を光らせながらこう(つぶや)いた。
「――勝つる。これでジョーキに勝つる……そうか、ジョーキはアタシの説明が是非聞きたい、今聞きたい、という意味だね?」
「え、姐さん知ってるの?」
「知っているって? 姐に向かって、なァァにを無礼なこと言ってるんだッアンタは。デェラァウェアァ!」
 姐は微妙に暴走しているようだが、このまま適当に語らせて、答だけ聞いておこう。なお、デラウェアとは姐が好物にしている葡萄の種類だ。

「葡萄を絞ったジュース、そのまま常温放置しておくと表面にカビが生じてるなどして腐敗しちゃうけど、ワイン酵母で発酵させておくと、いつまでも腐らずに、人間が飲んでも大丈夫っていうのはわかるよね?」
 確かに、言われてみればそうだが……。
「それより姐さん、〝腐敗〟と〝発酵〟ってどう違うの?」
「人が飲み食いして病気になるのが腐敗した食べ物、飲み食いしても大丈夫なのが発酵した食べ物……発酵における食品産業は、人類の英知・人生の常識でしょ~!?」
 人生の常識と、そう来たか。姐は説明を続けた。

「発酵によって、葡萄はワインに、林檎はシードルにすることで日持ちが効く。これがヨーロッパ人の知恵ってヤツ。綺麗な水よりも簡単に手に入り、冷蔵庫なしでも保存が利く飲料可能な液体――水は僅かに溶け込んだ有機物で簡単に腐るけど、ワインは腐らない……腐らないってところが、永遠性を示しているの――実際には、ワインも腐ったりするから、現在のワインは防腐剤とか入ってるけどね。
 ところで肉体はね、死後・土葬にすると、そのあとに訪れるのが腐敗。どんどん腐っちゃう。腐らないって事は、不死においてと~~っても重要な概念」
 と、姐のありがたい講釈は終わった。俺はその話を聞いて、日本の別の風習を思い出した。
「そういえば面白いことに、日本酒の造り酒屋などの軒先には、新酒ができたときには杉玉(すぎたま)(つる)す風習があるな。杉は酒の腐敗を防ぐという言い伝えがあるし、また、杉も常緑樹だ。日本酒には、アルコール発酵と杉という二種類の不死性がこめられているのかもしれないな……」

 そう、自分自身でまとめたものの、別に気になる点が頭の中で生じた。
「ところで、アルコール発酵による腐敗を避けた永続性に関しては、〝発酵している〟ってところが大事そうなんだけど、姐さんのルーテル教会では、発酵しているワインじゃなくて無発酵の葡萄ジュースなんだよね?」
「……ホント、アンタは可愛げがないね。イチイチ痛いところを突いてくる……確かに、聖書には葡萄と葡萄酒(ワイン)は出てきても、葡萄ジュースなんて出てこないよね。アタシだって、聖餐の時はワインにして欲しいとは思っているよ。子供やドライバーに対する配慮からか、何故か葡萄ジュースなんだよね」

 瓶白が姐に問う。
「ところで、聖体拝領……プロテスタントでいう聖餐なんですが、牛王姉妹の聖体皿(パテナ)ってどのような感じでしょうか?」
「ん~、聖体(コミュニオン)の載った皿だよね?金属の丸い皿。二枚あって、1枚がパン置き、もう一枚の上に、葡萄ジュース入りの小さなコップが並んでる……」

「なるほど、少し異なるようですね。
 カトリックの場合聖職者は、ワインを入れる聖餐杯(カリス)の上に白麻布(プリフィカトリウム)を置き、その上に種なしパン(ホスチア)を載せる聖体皿(パテナ)、正方形の聖餐杯布(パラ)聖骸布(せいがいふ)を象徴する聖体布(コルポラーレ)をセットします。教会を取り仕切る司祭は、その聖餐杯(カリス)一式を持って、移動します。
 ――茶道では、亭主である私は、茶碗の中に、茶巾や茶筅などを入れて、茶道口からこの茶室に入ってきます。似ていませんか?
 また、本日使った主菓子(おもがし)を載せた食籠(じきろう)は、祖母の手作りの物で、意図的に黒い茶碗と同じ素材と色をしています。普通の茶の湯では、茶碗と食籠(じきろう)の色を揃えることはありませんが、そこは祖母なりのこだわりだったのでしょう。これは、カトリックなどでの聖餐杯(カリス)聖体皿(パテナ)が、同じ材質で作られているという点から、そう作ったのだと思います」

 どちらかというと、千利休よりも村田珠光に親近感を覚える俺としては、俺は、虚を突かれる思いだった。
「つまりは、茶室の決まり事も、カトリック的な聖体拝領を模していると?」
「そうかもしれません。一般論はともかく、祖母はあえて似せようとしていました。
 ちなみに茶道とカトリックのミサの類似性に関する一般論としては、私自身の意見ではなく、既に武者小路千家十四代家元である千宗守さん、上智大学名誉教授のピーター・ミルワードさんが既に指摘されています」

 瓶白の語りには、徐々に熱が入ってきた。
「たとえば茶碗……千利休よりも以前の茶人は、古い茶道具をありがたがる風潮があったのですが、千利休は、他の茶人ほどには古い茶碗に対してそれほど興味を抱かず、黒樂・赤樂という千利休発案の樂茶碗を独自に作らせては、太閤殿下にも薦め、自らも愛用していたのです。これは、先ほどの五山の意味――もちろん公式見解では金剛寺兄弟のご指摘通り、臨済宗の京都五山ということになっています――を取り入れることや、創世記におけるアダムのように、轆轤(ろくろ)を使わずに、泥を()ね、手で積み上げて作る〝手捏(てづく)ね〟の行程を、重視したからだと私は思っています。
 これらの発想は、千利休そのものが、当時のキリスト教的な思想を熟知しているという前提で話していますが」
 なるほど。この辺りは暗号と同じ側面があるのか? 知らない人は、永遠にその暗号の示す先に近寄れないままだが、解る人には見るだけで解る、という。仏教で言うと、曼荼羅とかもその範疇だな。
 しかし千利休は、キリスト教に近い人物だったのだろうか? 千利休自身がキリシタンだったとは、俺は聞いたことがないのだが。

「また、本日行った濃茶の回し飲みを〝吸茶(すいちゃ)〟と呼ぶのですが、これも利休の考案による物で、それまでの茶の湯には無かった、新しい手法なのです。恐らくはイエズス会の修道士が、諸大名の茶室で簡易ミサを行ったときに、聖体拝領としてワインの飲み回しを行っていて、それをヒントとしたのではないか、と私は推測しています」

「そこは、興味深いな。だがそもそも吸茶の前に、一味神水(いちみしんすい)という概念が、当時の日本にも中国にも存在している。
 それは、(いくさ)や一揆などの前に、全員の署名入り起請文を燃やした灰を、神前に備えた水の中に混ぜ、それを飲み回すことによる集団の団結効果を狙った物だ……吸茶も、一味神水(いちみしんすい)も、結束力が生じる点は同じだ。
 仮に、〝五山〟や〝吸茶〟が利休による発案だと示す歴史的資料があるとしても……瓶白には悪いが、千利休は、そこまでキリシタンに近い存在だったのだろうか? 千利休は素直に、臨済宗京都五山、一味神水(いちみしんすい)を茶の湯に取り入れただけでは無かろうか?」

 俺が瓶白の仮説にそう反論すると、姐さんが即座に割りこんだ。
「アンタも馬鹿だねぇ~。彼女の言うことをいちいち否定せずに〝ああ、そうなんだ〟ってポンポン相づちを打っておけば、今後、生乳脂肪(クリーム)づくしの御寵愛(ごちょうあい)を、ミカリンから受けるかも知れないというのに……」
「ミカリンってなんだよ」
「私です……多分」
 俺の訊き返しに、当意即妙に瓶白が答えた。

「フフッ、相変わらずニブイねぇ。この童男(チェリー)ときたら」
 姐は軽く笑いながらそう答え、軽く肩を落とした。

 改めて居住まいを正した瓶白は、俺の目を見ながら、次のように話し始めた。
「金剛寺兄弟、事前にお伝えすることがあります。反論したからという理由で、私は人を拒絶したりはしませんので、思ったことを、思ったままに、これからも私に述べていただけると嬉しいです」

 瓶白……思ったよりも珍しい人だな。社会的な調和を下とし、真実の探求を上にするという、まるで俺や兄貴のようなスタンス。だがそのスタンスでは、社会の中で敵を作るだけ。全自動で〝KY〟あるいは〝絶対に嫌われるマン〟の烙印を社会から押され、永遠の孤立という赤字手形を無限に受け続けるのだ。この立ち振る舞いには、嫌われることを気にしな~いという、アドラーの如く強い覚悟を必要とする。

「――むしろ、私との関係性や社会性を気にして、適当な美辞麗句を述べられるのでしたら、私は悲しく思います。そうなった時には、金剛寺兄弟(・・)ではなく、金剛寺さん(・・)、と呼び改めなければならなくなるでしょう。私が貴男(あなた)のことを〝兄弟〟と呼んでいる間は、なにとぞ遠慮無用でお願いします――そしてこれからも暫くは〝兄弟〟と呼ばせていただけると、私は嬉しいです」

 俺は何か言おうとしたが、姐に阻まれた。
「ミカリンは――美辞麗句よりも、真実が好きなの?」
 ミカリンと呼ばれる色留袖を着た女性は、はい、と笑顔で頷いた。

 姐は照れくさそうに右手を出し、瓶白も請われるままに右手をさし出した。仲直りの握手か?
「――アタシは、ミカリンのことを今までは、単なるお金持ちの、よくあるカトリックお嬢様だと思ってた。だから、十字意匠の(かんざし)とか責めてしまったわけで……それはアタシの、手前勝手な推測だったみたい。しかも、その推測は間違えていた。――御免なさい――謝るしかないね」
 瓶白は、とんでもありません、と軽く答えた。それを受け、姐は続けた。
「そう、憶測よりも真実は大切、そして……〝真実はいつも一つ〟」
 姐は、瓶白と握手しながら、どこかの少年漫画のキメ台詞をなぜかここでキメるという暴挙に出た。

「〝真実を探せ・真実を聞け・真実から学べ・真実を愛し・真実を話せ・真実を掴め・真実を守れ・死ぬときまで〟――フス戦争のきっかけとなった、ヤン・フスの墓碑銘(エピタフ)に刻まれている言葉。当然、フスの母国(チェコ)語だけど」

「牛王姉妹、それは私も少し知っています。そこから転じた〝真実は勝利する〟が、今のチェコにおいても、重要なスローガンなのですよね――今に生きるカトリックとして、いかなる傲慢(ごうまん)蔓延(はびこ)り、何を蹂躙(じゅうりん)してきたかを深く知ることを、避けるわけにはいきません」

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参考サイト
http://members.ctknet.ne.jp/verdure/Christmas/Christmas_5.html
クリスマスと茶の湯

参考書
プロテスタント作家・三浦綾子先生「千利休とその妻たち」

使徒 11:26 「彼を見つけたうえ、アンテオケに連れて帰った。ふたりは、まる一年、ともどもに教会で集まりをし、大ぜいの人々を教えた。このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。」

ヨハネ15:1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」

作者コメント
本文は12月31日一端中断・1月11日 加筆・13日 茶の不死性部分追記。
フスの墓碑銘(エピタフ)ですが、日本語では一般的に「真実を掴め」ではなく「真実を抱け」となっています。とりあえず私は「真実を掴め」と訳しました。
Hledej pravdu, slyš pravdu, uč se pravdě, miluj pravdu, mluv pravdu, drž se pravdy,
braň pravdu až do smrti. / Mistr Jan Hus / český reformátor / 1370-1415

真実は勝利する→VERITAS VINCIT(チェコ大統領旗にも記載されている)
https://en.wikipedia.org/wiki/Truth_prevails
「真実はいつも一つ」という、漫画「名探偵コナン」のキメ台詞、英語版では Truth prevails (真実は勝利する)に訳されているそうです。

作中の東京九段下・白百合学園の話は、1981年にヨハネ・パウロ2世が訪れた時の逸話です。ただし、現在日本のカトリック系諸団体は、神社の参拝には強く否定的(国家神道が解体され、神社が宗教法人となったため)、とややファンダメンタリストよりです。この小説における瓶白家は国際的(グローバル)な産業拠点を持つために、他国に見習い、教皇を司教の上に置くという措置をとっている、ということでご了承ください。

また、カトリック瓶白家の寛容の精神は、ギリシャ哲学諸派に造詣の深い祖母由来、という設定のつもりです。いずれ登場しますが、カトリックや正教会の根底には、ギリシャ系の思想哲学が併合されています。プロテスタントは、聖書を重んじるために、ギリシャ思想部分を切り離しているので、牛王にはそのあたりがわかりません。もっとも、この後のセクションでは、プロテスタントでも少し規律が緩い、日本基督教団系の獅子吼成恵が出てくるのですが……。

なおこの物語は200X年の話なので、この時のローマ教皇はヨハネ・パウロ2世です。

牛王が、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(カロル・ユゼフ・ヴォイティワ)にのみ、「カロル」と、宗派を超えて親近感を持っているのは、ヨハネ・パウロ2世が〝史上初のスラブ系教皇〟だからでしょう。牛王がスラブ人を特別に愛して止まないのは、〝進撃のスラブ人〟あたりで表現しているつもりです。

霊操(エクセルキティア・スピリチュアリア)は、少し後に回します。

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