オーバー・ザ・フェンス~十字架と罪過は誰が為

第二章 ルカ一八章六~七節

エピソードの総文字数=2,730文字

『互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる』ヨハネ十三章三十五節


 教会を出てすぐの大通りに出た。小走りに傘をさす人々の間を通り抜け、とあるビルの小刻みに刻まれた灰色の階段を上った先にそのカフェがあった。俺のフード付きパーカーはすっかり濡れてしまい、深緑色がより一層薄暗くなった。一度脱いで絞り上げるとぼたぼたと大きい水滴が濡れたコンクリートの上に落ちて砕け散っていく。
 細長い店内に入るとそれなりに人はいた。とはいえそのほとんどは朝のコーヒーと朝食を買いに来た会社員たちでカウンターの前で列を作って並んでいた。カウンターと壁の間に人が二人分は通れる通路があり、その奥に二階に続く階段と禁煙席を設けてある場所だった。
「そこに居るのは琥珀でしょ、こっち、こっち!」聞き知った女の大声がそこから聞こえた。俺は目を細め、その声の主をすぐに見つけた。白いスーツが群青色の人影の中であまりにも浮いていたからだ。そして二本に結ばれた燃え立つ紅い髪は色鮮やかに仄かな照明とオイルで磨かれた木製の壁を背後に踊った。
「コナー、叫ぶなよ。今のお前は探偵というよりも、ただの……」その席に近づいてゆったりとしたソファーに腰を下ろしながら、稼業の相棒に言いかけた。すでに目の前には俺が飲むブラックコーヒーが静かに湯気を立てている。
「ただの、何?」悪戯っぽく笑うその瞳が翡翠色に輝いた。
「ド素人」
「でもそのド素人と一緒に探偵稼業をしているじゃない?嫌なら普通の仕事でもするんじゃないの」
「誰かの下で書類をいじるには、俺は個性的すぎたから無理だったからな」挨拶代りのジョークが済むと俺たちは何も言わずに互いにコーヒーを飲んだ。彼女のコーヒーはミルク入りだったが。
 俺は改めて相棒であるコナーを見つめ直した。彼女はアイリッシュの父親と日本の母親との間で生まれた。言うなればバイキングと武士の娘とも言えた。彼女の豹のようにしなやかな体は白いジャケットに糊のきいたズボンと水色のブラウスで一際強調されていた。彼女の顔立ちは草原を思いのままに吹き抜ける風のようにスマートでありながら蝋燭の灯のように朗らかにも見える。しかしその翡翠色の瞳はコロンビアの上物のエメラルド、というよりも砕け散った緑色のガラスの欠片だ。しかし俺はその瞳が強く輝いた時は注意しなければならないと知っている。その欠片はくり貫かれた花崗岩のように頑強で自らの意志を意地ででも押し通すほどに鋭くなるのだから。そういう意味では女らしいというよりも男らしい芯の強い女だ。
 彼女は両目を閉じて飲んでいたが、だしぬけに片目を開けた。マグカップを下げると端を曲げた唇が見えた。
「どうかしたのかしら?」
「いいや、なんでもない」俺もまたマグカップを下ろして右手のひらを見せた。説明してくれというジェスチャーだった。
 彼女はふっとため息をつくと身を乗り出した。コーヒーの香りの中に彼女のかすかに甘い香りが鼻をくすぐった。
「要点だけ言うと一年前に家出したご家族を見つけてほしいってこと。家出する少し前から引きこもっちゃってそれからいきなり家を出て行ったらしいの」
「依頼人は?」
「家出したっていうのが当時一八歳のお姉さんなの。依頼人はその妹さん、一つ違いで今度この街の大学に進学する傍ら、家出した姉妹の行方を知りたいって」
「力に慣れそうにないな、一日前ならまだしも一年前だって?そいつは藁の山から針一本見つけるか針の穴を通るラクダを見つける方がまだいい」俺は手を振った。しかしコナーはその手をぎゅっと掴んだ。彼女の瞳がスポットライトを当てたかのようにひかり始めた。
「でも依頼人は本気で見つけたがっているの。電話越しでの会話だったけど彼女が泣いていたのははっきりとわかったわ。私は彼女の力になりたいの、こんな世の中で彼女の力になれるのは私たちだけよ」
「勝手に俺を勘定しないでくれよ。まだ協力するとも何とも言っていないのに。それに依頼人に入れ込むのは良くないぞ、ビジネスとして振舞えよ」自分で言っててこれほど空々しい言葉はない。俺の心のどこかでこの依頼を扱うように勘が囁いた。それがなんでなのか、どういう結果をもたらすのかは皆目見当つかなかったが。さらに言えば俺の懐具合は言葉よりももっと寒かった。そしてコナーも知っているのだ。でなければ都合よく俺の分のコーヒーまで注文するはずがない。
「ビジネスとしてなら、あなたはやるわけでしょ?」彼女は俺の顔を見て笑った。
「オーライ、わかったよ。力になろう。ただ過信しないでくれ。俺は集められるだけの情報と事実から推測するだけだからな」俺は首を振りつつテーブルの上で彼女と俺との間に境界線を引くように指を走らせた。
 俺はあくまで予防線を引いたはずだった。あくまで俺は彼女との間に壁を築いたつもりだった。しかしコナーはそんなものを踏み越えて俺の頬に軽いキスをした。
「私が欲しかったのはそれよ。情報と事実から読み取れる人。あなた以外に誰がいるというの?」
「なあ、コナー。日本人はそう簡単に頬にキスとかしないんだよ、朝っぱらからするのはカップルくらいだ」俺はそう言って指で空中に円をくるりと描いた。隣の席に座っている初老の男はあからさまに咳払いをして横目で睨みつけてきた。俺は軽く睨むだけにとどまった。コナーはふむと呟いて周りを見渡した、そして俺を見た。
「カップルに見られてあなた、困るの?」
「お前はそう見られてもいいっていうのかよ」
 彼女がにやりと唇の端を曲げた。その顔は悪童のそれだったが気づいた時には彼女の顔が目の前にあった。こちらの唇に彼女のが重なっていた。まるで十分に感じられたが実際は数秒だろう、そう思いたい。
 呆気にとられ、唖然とする面構えを見たのかコナーは大きく笑いながら俺の頬をぴしゃりと打った。
「周りがどう思うと関係ないじゃない、私たちは私たちなんだから。さあ、依頼人に会いに行きましょ!」
 彼女はそのまま唖然とする俺と周囲を残してカフェから出て行こうとした。俺はその後ろ姿を見ながら自分のコーヒーに目を戻した。まだ半分ほど残っているが飲む気にはなれなかった。俺は火照った頬をさすってそのまま両腕を頭上に放り出した。
「こっちの気も知らねえのになんだってあんな……あぁ全く」胸中の空気を吐き出して立ち上がった。しかし悪い気はしなかった。
 彼女とのつながりは俺にとって孤独を癒してくれる。それは信仰だけでは如何ともしがたい苦痛を和らげてくれる。
 もっとも貰うだけは性に合わないのだが。

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