もしも敬虔な女子高生が〈神は死んだ〉のニーチェ作『ツァラトゥストラ』を読んだなら

『マタニティ・ショック!』

エピソードの総文字数=3,697文字

ツァラトゥストラは問いかける。
 君たちが体験する最大のことは、何か? それは、大いなる軽蔑の時間。君たちが自分の幸せに吐き気を感じる時間のことだ。君たちが自分の理性にも、自分の徳にも吐き気を感じる時間のことだ。

「これはばっちりわかりますよー。幸せに吐き気って、つまり、『つわり』、ですよね」


「ぶっ!」
またしても吹き出す栞理のほうをちらりと見たひとみは、そのままうっとりと目を閉じて、しあわせそうにお腹に手を当てる。
「お、おい、まさか!?」
「あらまあ、今度はひとみちゃん?」
「えへへ、まさかぁ、想像ですよう-」
「想像妊娠か……。うう……。冗談でもやめてくれ」
「ひとみちゃん前回から飛ばしてるわねえ」
「えー、そうですか-? 幸せで吐き気って、普通そう連想すると思いますけどねえ」
「その前に『大いなる軽蔑の時間』と書かれているだろう。そうしたら、これはどういう意味なんだ?」
「わっかりませーん」
「はぁぁー」
どっと力が抜け、思わずこめかみに手をやり大きなため息をつく栞理だった。
「とりあえず、ひとみ君の解釈もおもしろいが脇に置いておいて……」
「えー。置いとくんですかぁ?」
「ま、また、思い出したら検討するとしよう」
(あらあら、栞理が動揺しているわ、赤ちゃんになにかトラウマでもあるのかしら?)
「もちろん、この解釈も正解かどうかはわからないがな、これはおそらく、人が体験することのできる最大の衝撃、ショックな出来事は何か、と言っているのだと思う」
「妊娠はショックかもしれないけど、おめでたいことですよねえ」
「いや、だから、それは置いておいてくれたまえ……」

(どうしたのかしら、いつもなら栞理はこういう超解釈大好きですのに、すこし妙ですわね……)


少し考えてから、
「わたくし、すこし失礼してお茶をいれてまいりますわ。どうぞお続けになっていて」
と言い席を立つ早乙女先輩。
「あ、ああ。とにかく、もう少し読み進めてみよう」

 そんなとき、君たちは言う。『私の幸せににはなんの取り柄もない! 貧しくて、汚くて、みじめに自己満足しているだけ。だが私の幸せには、生存していることを正当化させよう!』


 そんなとき、君たちは言う。『私の理性にはなんの取り柄もない!~


 ~(理性、徳、正義についての取り柄がない云々を中略)~


 そんなとき、君たちは言う。『私の同情にはなんの取り柄もない! 同情とは、人間たちを愛する者が(はりつけ)にされる十字架ではないのか? だが私の同情は、十字架にかけられることではない』


 そういうことを君たちは、もう言ったか? そういうことを、もう叫んだか? ああ、そういうことを叫んでいる君たちを、聞いたことがあったなら!


「こんなとき、私たちは言う! 何を言っているのかさっぱりわかりませんっ! と!」

「『私たち』とわからないチームに混ぜないでくれたまえ。

 これは、先ほどの『君たちが体験する最大のこと』にかかっている言葉なのだよ。

 ひとみ君、ツァラトゥストラを一言で言うと、どういう人物だと君は思う?」

「えっと、『ちょー偉そう』な人、ですかねー。ああ、だから『ちょー人』なのかも!」
「ま、また別解釈か!? まあ、それも脇に置いておくとして……」
(えー、またあ?)
「とにかく、そんな偉そうな人物が『体験する最大のこと』とまで言うこととは、自分の幸せと思っていることが実はそうではなく自己満足なだけだった。とか、理性と思っていたのは実は違っていた。なんていうふうに否定されることなのではないかな」
「そういうものなんですかねえ」
「そして、最後に、そんな大きな自己否定を君たちはしたことがあるか。と問うているわけだな」

「そうなんですかあ……」

ちっとも偉くなく、そしてしょっちゅう人から否定されているひとみにはいまひとつピンとこない。


頭の上にクエスチョンマークをつけて首をかしげていると、早乙女先輩が湯気の立つポットをもって帰ってきた。

「もどりましたわ。お紅茶いれてきましてよ」
「わーい! ありがとうございます!」
もちろんお茶菓子もある。ほわわ~と一服しながら、早乙女先輩に対し、よくわかっていないなりに『体験する最大のこと』を説明するひとみ。
「そうですわねぇ、以前お会いしたシスターに聞いたことがありますわ、人間関係や幸せはつみあげていくことが大切ですけれど、壊すのはとても簡単だと……」
「どういうことだい?」
「ええと、うまく説明できるかわかりませんけれど、そうですわね、ここにお茶会SNSがあったとしましょう」
「なんだか急に近代的!」
「うちの学校はスマホも禁止なんだがなぁ」
「まあ、あったとしたら、ですわ。そこで、お茶の写真を貼ったとして『いいね!』してもらうと、もちろんうれしいですわよね」
「あ、ああ」
どう話が進むのか考えながら聞いている栞理先輩と、興味深げに、でもあまり何も考えていないように紅茶と早乙女先輩を交互に見るひとみ。
「でも、そのSNSには『いいね』ボタンのほかに『嫌だね』ボタンがあったとしたらどうでしょう?」
「その『嫌だね』ボタンを押すと『いいね』が減るのかい?」
「いえ、両方別々にカウントする仕様ですわ」
「すると、『いいね』が10コあって、『嫌だね』も5コある、とかいう状態がつくれるわけか」
「そうですわね。そういうSNSってどう思われます?」
「えー、なんか『嫌だね』です、それー」
「そうだな、『いいね』がいくらあっても、『嫌だね』があると、あまりうれしくないだろうな」
「そうなんです。そのシスター、ご自身でもローカルSNSを運営されているらしくって、ITシスターなんて呼ばれてるそうなんですけれど」
「それはまた、ものすごい逸材だな……」
「それで、簡単に言うと、『いいね』や『+1』や『☆』が溜まるのが目に見えるのは良いことですけれど、悪い感情が可視化されてしまうと、積み上げた良い感情が一気にマイナスになってしまうのですって。積み上げた好意が高ければ高いほど、悪意で逆転してしまうことがあるそうなんです」

「なるほど、もしプラスが100あったとしても、マイナス1が掛け算されると、マイナス100になる。


 100×(-1)=-100


 ということか。面白いな」

「うわーん! ちんぷんかんぷんですー!」

「まあまあ、もうちょっとですわ。


 その、マイナス方向の掛け算が、先ほどの『体験する最大のこと』なのかしら。とおもったんですの」

「ふむ。プラスの増加は少しずつだが、マイナスは一気にいく、と。

 そうすると大きな値ほど、むしろ逆転してしまうということだな」

「そうですわ、ですから、いままで頑張ってプラスをためていたちょー偉そうなツァラちゃんも、マイナスをちょっと掛けてあげたら一気にマイナスなちょーダメ男になってしまうのですわ」
「なるほど、その衝撃が、『体験する最大のこと』。というわけか」
「そうなのではないかしら、と思っただけですけれども」
「ふむふむ、おもしろい」
「数字出てくるとわかりませーん!!」
小学校の算数の時代から計算はめっぽう苦手なひとみである。

とにかく数字がでてくると脳は緊急停止してしまうのだ。

「ええと、さっきのSNSで、ひとみちゃんの写真にたくさんの『いいね』があったけれど、ある日『嫌だね』がひとつでもついたらどうおもう? ってことですわ」
「あ、めっちゃわかりました」
「も、もう?」
「おみごと。さすがわかりやすいな」
「よかったですわ~。


 それでは、おみごとついでにひとつ、これ、なんですけど」

そう言いながら、早乙女先輩は紅茶のトレイに重ねるようにもってきていた薄い緑色の本をとりだす。
「あら、絵本?」
「こ、これは!?」
「ご存じ、シェル・シルヴァスタインの絵本『おおきな木』ですわ。これは閉架ではなくて上の一般書架にありましたわ」
「へえ、どんなお話なんですか?」
「あら、ご存じないのです? とても良いお話だから、あとで読んでみると良いわよ。きっと泣いちゃうから」
「ええっ! 悲しいお話なんですか?」
「悲しい、とも言えるかもしれませんけど……、どちらかと言うと、大きな愛に感動するお話、ですかしらね」
「くっ……。す、すまん」
とだけ言って栞理先輩は急に席をたたれ、部屋の向こうへ行ってしまった。
「え? どうしちゃったのですか?」
「あらやっぱり……」
「ええ? いったい何がどうしちゃったのです?」
「以前ね、この絵本、栞理に読んでもらいたくて渡したことがあったのだけれど、その時もとっても様子がおかしかったのよ。もしかしたら、と思ったのだけれど」
「もしかしたら?」
「この本ね……。小さな男の子がおおきな木から無償の愛を受け取るお話なの」
といって声をひそめる早乙女先輩。
「もしかしたら、この子。栞理の前世かもしれない……」
「えええええええっ!?」

もちろんキリスト教には「前世」という概念はない。

しかし転生モノが流行っている昨今、何が起きるかわからない。

もしほんとうに前世だとしたら、栞理先輩の男の子だった時代の姿が読めるんだわ。なんて、ひとみの微妙な胸はなぜだか高鳴るのだった。


〈つづく〉

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