オーバー・ザ・フェンス~十字架と罪過は誰が為

第六章(修正) シラ書六章二六節

エピソードの総文字数=2,107文字

『心を尽くして知恵に近づき、力を尽くして知恵の道を歩み続けよ』シラ書六章二六節

 
 恐怖は楔のように穿たれ、俺の心を震わせた。その震えは水面に広がる波紋のように広がっていく。俺は目に見えるものすべてを怖れた。特に人を。
 子供は無知だ。だからこそ直接的な痛みやいつか来る死に恐怖する。実際に痛めつけられずともそうされるというだけでも震えあがる。それは支配だ、奴隷にするために子供たちは痛めつけられ、無視され、冷たい言葉を無造作にぶつけられる。だが肉体の傷はいずれ治る、精神の傷は膿のように腐臭を放つ。
 俺は他人を怖れた、だが生きていくには彼らと向き合わなければならなかった。他人全員が傷つけようとする連中ではないのはわかっている、だが頭で理解しても刻み込まれた恐怖は簡単に離れやしない。自らの内側に埋没させた後ではなおさらだ。
 行き着いたのは心理学だった。最初に見たのは簡単な心理テストだ。赤色を選ぶのは情熱的な性格を持つとか、そういう眉唾物の類だ。だが俺はそこに活路を見出した。他人が何を考えているのかを先んじて知れば対策がとれる。つまりそれは生き残るための手段となりえる。
 俺は本をむさぼり読んだ、ムショにぶち込まれた連中が読み漁ったように。時間はいくらでも費やした、どうせ苦痛に満ちるものだから。そして犯罪心理学に手を出した、辞書を片手に読み漁り実際の事件に照らし合わせつづけた。自らが何者になったであろうかもそこで知った。そしてなんであるかも。FBIのプロファイリングや調査マニュアルも俺の手に渡り、その知識は俺を満たした。知識が満たされ、知恵を生み、俺を生かし続けた。俺を育てた連中は俺の集めた本を根こそぎ燃やした。庭に投げ捨てマッチを擦って。だが奴らも俺の頭から消し去ることは出来やしなかった。
 だからこそ、俺はあの時、異変に気付いた。その男はあまりにもこの場に似つかわしくなかった。アパートや低いマンションが密集する宅地の十字路でのことだった。
 彼は禿頭で白と水色のストライプシャツ、大きめのリュックサックに紺色のズボンを身に着けていた。奴の顔は見えなかった。だがその男が十字路脇にある街灯の当たらぬ電柱の陰に隠れているようだった。奴は両手をポケットに入れ電柱に貼られた広告を見つめているようだった。奴はぴくりとも動かなかった。まるで目立たないように振舞っていた。
 俺はそれを上から見つけた。バイトで脂ぎった会社員の部屋に郵便物を運び終えた後、何気なく下を覗き込み、そいつを見つけた。
 別に気にすることでもなかっただろう、実際にはた目からすれば電柱の広告を読んでいるサラリーマンに見えなくも無かった。だが俺の勘がそれを一蹴した。何かがおかしいと警報が鳴ったのだ。俺は男の足元を見た。影で目立たなかったが黒皮靴のつま先は俺のいるマンション向かいの古いアパートに向けられていた。男は三階の通路から見え散る俺に気づいていなかった。俺もまた息を殺し、身じろぎもせずに見下ろしていた。
 問題のアパートメントは三階建てでむき出しの階段が壁に無造作に取り付けられ、茶色のドアは薄っぺらい板で作られているように見えた。ほぼすべての扉から光が漏れ出ていた。
 その時、二階の扉から白のスーツを着たコナーが出てきた。彼女は部屋の中に何かを言い残して外に出るとゆっくりと腕を上に伸ばしながら階段を下りて俺から見て左手の路地を歩き始めた。そこは街灯と街灯の距離があり、薄暗かった。禿頭は彼女に顔を向け、ゆっくりとその後を追い始めた。 
 俺は急いで、しかし足音を立てないように階段を下りて外に飛び出した。彼らの言った先を見ると、先を行くコナーの五m手前に奴がいた。奴の手が伸びてリュックの底を撫でたかと思うと、何か棒状の物が握られていた。さらにそれは瞬く間に伸びた。俺はそれが携帯用の警棒であると理解した、もはや一刻の猶予も無い。俺は決断を下した、奴が強盗をしようと言うなら未練がましい男として振舞ってやろうじゃないか。
「待ってくれ、彩!まだ言いたいことがあるんだ!」夜の宅地で俺の声はあまりにも響いた。男がぎょっとしてこちらに振り返った。奴はメガネをかけた無精ひげを生やしていた、その顔には驚きと自らの失敗を悟ったような表情が浮かんでいた。コナーも振り返って俺を見た。しかしそれよりも禿頭を見て「あっ」と大きな声を出して指差した。
 それからは何が起きたのかは後でわかったことだ。禿頭が俺よりもコナーに向かって警棒を振りかざし、飛び掛かったのだ。だがそれよりも彼女が速かった。一歩踏み込んで奴の腕を掴むとねじりあげ警棒を叩き落としたのだ。禿頭は彼女の手から逃れ一歩退いて、一瞬止まった。このまま襲うか道路に転がる警棒を取り返すか。
 それが命取りだった。さらに踏み込んだコナーが気合の入ったアッパーカットを奴の顎に叩きこんだのだ。奴はまるで吊り上げられた魚のようにのけ反った。それで決着はついていた。だが俺は知らなかった。ただ無我夢中で駆け寄ってのけ反る男の股倉を、後ろから力任せに蹴り上げていた。

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