ある青年の異世界順応記

はじまり:主人公、面倒事に巻き込まれる 1

エピソードの総文字数=3,658文字

 生きていくのは大変だと思うようになるタイミングは、人それぞれ違うのだろうと、そう思う。
 言葉が悪いかもしれないが、貧乏な家庭に生まれれば常日頃からそう感じていくのだろうし、中流――今ではもう死語だろうか――以上の特段問題らしい問題のない家庭であれば、社会に出るタイミングで、つまりは社会人として働くようになるか働き出してから実感するようになるのではないだろうか。
 要は庇護がどのタイミングで外れるか、卵の殻が割られて外ときちんと向き合うのが何時になるのかによって違うのだろう。
 私の場合は社会人になってから、だった。
 一人暮らしを始めてからどれだけ親に頼って生きていたのかを知り、会社で先輩社員に不出来を責められながら自分で金を稼ぐ大変さを実感した。
 それでもまぁ幸運なことに、就業環境は悪いものではなかったから、これから色々と大変かもしれないけれど仕事を続けて一人で生きていけるようになろうと考えていたのだ。
 夢はあったけれど、リスクをとる覚悟が無かったから諦めて。
 それでも誰かに認められたいという思いだけは残ったから、生活のための仕事とどうやって両立させていこうかと考えていた。
 しかし。
 人生というやつは、そんな小さな目標さえ守れなくなるような出来事があっさりと起こってしまうのだから、本当にやっていられない。





 毎朝意識が覚醒すると同時に思うことは、大抵の場合、今何時だろうという疑問だった。そして、時刻を確認しないと、なんて行動すると同時に、寝る直前のことを思い出す。
 ああ、昨日も昨日で先輩に叱られながら、言い渡されたちっぽけな仕事をようやっとやり切ってから帰宅して、ぱったりと電池が切れたように眠ってしまったんだっけ。今日も平日。まだ今週は半分以上残っている。やだなぁ仕事行きたくないなぁ――
 いつものことだ。そう思いながら時刻を確認して、朝食をさっと食べて仕事に行くための支度を開始する。
 今日もそのつもりだった。そうするはずだった。
 しかし、今日はそんないつも通りにはならなかった。
 意識が覚醒してまず感じたのは、布団の柔らかく温かい感触ではなく、ざらざらと肌に刺さるような固い感触だった。次に来たのは青臭い植物の匂いで、部屋にこんな匂いがするようなものを置いた覚えはないぞと驚いて跳ね起きることになり――唖然とした。
 そりゃそうだろう。
 眠って起きたら、見慣れた自分の部屋じゃなくてどことも知れない木々に溢れた場所だった、なんて出来事が起こればそうならないわけがない。
 最初はああこれはまだ夢を見ているんだなと思ったが、頬を軽くつねってみれば痛さがある。まぁこの方法って実際はあまり意味がないらしいのだけど、これで完全に眠気が吹き飛んで目覚めた五感が、これは夢じゃなさそうだという判断を寄越してきた。
 にわかには信じがたいことだが、どうやら本当に、自分はここに居るらしいと思ってしまう。
 なんだか漫画や小説みたいだなぁなんて考えもちらっと浮かんできたが、そう考えた直後に色々な不安の種が芽吹いて胸の中心がずんと重くなるような気持ちになった。
 最初に思ったのは、ここが異世界であってもなくても、折角獲得した就職先がおじゃんになるということに対する落胆だった。
 今自分の手元には何もない。服は着ている。普段着だ。寝る直前に着た覚えなど全くないがなぜかこの格好だった。それはそれで不思議だが、重要なのは着の身着のままであることだ。連絡手段が無いのだ。
 連絡が出来なければ、無断欠勤扱いになる。まだ試用期間の身だったのに、そうなれば容易く試用も取り消されることだろう。
 こんな状況になってもまずは最初に仕事の心配をする辺り、我ながら随分と肝が据わっているように思う。
 もっとも、これはある種の現実逃避であったのかもしれない。
 次の瞬間には、もっと具体的な不安が頭を過ぎるようになって、仕事のことなんて頭の片隅からさえ追い出されるようになったからだ。
 まず頭に浮かんだのは食料の問題だった。
 荷物が無いということは、当然食料や水も無いのだから、このままここに居れば死ぬ以外に道はない。いや、それにしたって綺麗に――楽に死ねるのかも怪しいものだ。餓死ならまだ幸いなほうかもしれないのだ。周囲を見れば見えるのは緑ばかりで、要は森やら林、山の中に居るということなのだ。つまりは、ここには獣やらなにやらが居るのだから、それらに食われて死ぬということも当然ありうる。
 次に考えたのは、ここがどこかということだ。自分の居た世界――相談する相手が居るわけじゃないから正しい表現かは知らないが――と同じであるのかそうでないのかすらわからない。いずれにしたって知らない場所であることに変わりは無いのだが、違う世界であれば更にまずい問題が生じる。
 小説やらなにやらでは当然のように異世界の人間が受け入れられているが、普通に考えれば、そんなことは有り得ないだろうことに気付くことだろう。そもそも、同じ国の過去にタイムスリップしたとしたって言語が全く違うのだ。その上、明らかに見慣れない人間の、行動のあれやそれやに垣間見える違いは隠せないだろう。人間というものは、そんな違いを容易く受け入れられるようには出来ていない。違うものは排斥するものだ。なぜなら、違うものは怖いからだ。何をするかわからないのであれば、とりあえず遠ざけておく、排除しておくことが一番の対策になる。その排除が殺害であるか否かは、そこに栄える社会の余裕の程度によるのだろう。もしも、その違いを覆すほどの利益が見込めるのであれば話は別なのだろうが、生憎とそんなものは持ち合わせていなかった。
 動かなくても死ぬが、動いたって死んでしまう。八方塞とはまさにこのことだと、最早笑いすら浮かんできた。
 なんで自分がこんな目にあわなければならないんだと思ったが、ぼやいたところで何も始まらない。始まったところでどうなるんだという話ではあるが、まぁ何もしないよりは何かしていたほうがきっとマシだと、そう思ったから、とりあえずその場から離れることにした。
 当てなどない。どちらに行けば何があるのかもわからない。不安ばかりが募る。その上、足場も決して良くは無いから、ほんの少し歩いただけだろうに疲労ですぐに足が痛くなってきた。日頃運動しないせいもあるだろうが、こんなことになるならと考えて運動をする人間はそういないだろうから、運が無かったのだと諦めて無理矢理足を動かし続けるしかない。
 どれくらい歩いていたのかはわからない。ただ、そうこうしている内に、木々の隙間に人影を見た――気がした。
 固唾を吞む。緊張しないわけがない。自分の身がどうなるのかすらわからないのだから当たり前だ。それは果たして自分が知っている人間の形をしているのかどうかから始まって、言語が通じるのかという疑問に繋がり、それをきっかけとして様々な益体の無い思考がぐるぐると頭の中を回り始める。
 パニックに近い思考状態の中で、それでもと可能な限り音を立てずに、しかし急いで人影を見た方向に進んでいく。そのまましばらく進んで何も見つからなかったので勘違いだったかと諦めかけた頃になって、自分の五感が正しかったことが証明されることとなった。
 五十メートルくらい先の木々の陰に、人影を二つ見つけることができたのだ。
 緑が薄い場所なので、視界は通っている。まだ日も出ていて明るいから、二人の容姿も確認することができた。着ているものや、体の形はどうやら自分の知っているものと同じらしい。
 少しずつ距離を詰めていけば、二人の会話が耳に入ってくるようになる。聞こえる声はなにやら聞いたことのない音ではあったが、同時翻訳――外人が喋ってる横で通訳が喋る感じで、自分の知っている言語で内容が頭に入ってきたので意味はわかった。そして同時に、ここがどうやら自分のいた世界では無いということも理解する。一気に色々なハードルが上がった気がしたが、最初から許容限界を突破しているから大して差はないと開き直るしかなかった。
 さて、住民は見つかったのだが、これからどう行動するべきだろうか? と自問する。選択肢は声をかけるか、かけないか。
 ……考えるまでもないか。
 逡巡は一瞬だった。何もしないよりも何かした方がマシ、でしかない状況なのだ。迷う理由も大してない。躊躇う理由があるとすれば、拷問の類にかけられる可能性くらいだが、こればっかりは居るかどうかもわからない神様に祈るしかない。それが例え、こんな状況に放り込んでくれやがったかもしれない相手だったとしても、である。
 結論が出れば、後は行動あるのみである。
 うし、と両頬を両手で挟むように叩いて気合を入れる。そして、出目が悪い方に出ないことに期待しつつ、目の前の二人に近づいていった。


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