オーバー・ザ・フェンス~十字架と罪過は誰が為

第二十一章 マカバイ記三章四節 (修正)

エピソードの総文字数=2,995文字

『その働きは、獅子にも似て、獲物に吠え掛かる子獅子のようだ。』マカバイ記三章四節


 
 奴はハンカチブラックジャックを脳天に食らってそのまま膝をつき、俺はだめ押しで横っ面に叩きこんだ。ナイフだったならば逆に伸されていたのは俺だったろう。こいつは荒事に慣れている、だがそれだけだ。経験を生かすための知識が無い。俺は経験をカバーするだけの知識がある、その差だ。
 人を実際に殺した事は無い、だが空想の中で幾度となく殺した。かつて自分はいつか人を殺すのだろうとぼんやりと思い込んでいたが、まだ手を汚していないのは感謝すべき所だった。躊躇なく殺せるだけの冷酷さは誰でも持つことは出来る、だが自らを律するだけの冷静さを持っているかどうかはまた別問題だ。スマホとハンカチを取り出し、ハンカチで後ろ手に奴の両手の親指を縛り上げた。その男の名前は田中幸助という男だった。年は四十三でS玉のK日部に住んでいた。奴の運転免許書からわかったことだ。財布の中の五万円とスマホは俺のポケットに消え、俺は息を整えて深呼吸をした。唇を舌で軽く濡らして両手を軽く揉んで自分を落ち着かせた。田中の髪は血で汚れているが頭には毛細血管が多くあり、怪我をすると一気に流れ出す、だが血が止まるのも早い。もっとも骨にひびが入っているかもしれないが、俺のではない。
「おい、起きろ」田中の張れた頬を平手打ちすると奴は呻いて頭を振り俺を見上げた。焦点が合ってない目だったが、俺の顔を理解すると奴は悪態をついた。
「くそったれ、頭が割れそうだ……」
「実際に割っても良かったが、そうしない理由があったからな。さて、どういうわけだ?」
 顔を背けて口を閉ざす田中の髪を掴んでこちらに向かせ、晴れ始めた横っ面にもう一度平手打ちを食らわせた。そしてそのまま見下した。
「あぁっ、……っは、なんだ、そうやっていたぶり続けたら俺が話すと思っているのか?俺はな、お前が探偵ごっこする前からずっとこの道でやってきたんだ」
「ってことはだ、お前は探偵か?ようし、依頼主は誰だ?」奴は一瞬しまったと鼻白んだがすぐに嘲笑を浮かべた。
「守秘義務がある、お前だって知っているはずだ」奴の髪を放して一歩引き、俺は腰に手を当てた。そして奴の眼を覗きこみながら低く重い声で口を開いた。
「二つ道がある。一つ、お前は俺に丁寧になにがどういうわけでこういうことになったのかを正直に話して家に帰るのが一つ。こいつは穏便だ」俺はここで一歩歩み寄って奴の胸を小突いた。
「二つ、お前の無駄に長い経験でも味わったことのない痛みを味わうことになる。そしてお前は苦痛のあまりにしゃべりだす。しゃべり終わった後、お前ははやく教えなかったことを後悔することになるぞ」
「あのな、そんなセリフを聞かされたところで怖くもなんともないぞ」
「じゃあ二つ目の道だ」俺は左手の親指と人差し指で奴の喉元をさぐった。首と一言で言ってもいくつもの軟骨が密集している。喉仏をさぐっているとその軟骨の隙間を見つけ出した。俺は人差し指と親指でつまむように指を突っ込んだ。奴はぎょっとして眼を見開いたが口から出てくるのはむさ苦しい喘ぎと腐った生ものに匂いだ。俺は表情を変えずに言った。
「俺は人を殴るのは嫌いだ、手がいたくなって仕方ないからな。それにこっちのほうが手っ取り早い」空いている右手でライターを掴み奴の目の前で火をつけて見せた。特徴的なシュッという音、火花が散ったかと思えば小さい灯火が現れた。奴の瞳の中でライターの炎が揺らめく、そして目玉が飛び出るんじゃないかと思うくらいに目を見開いた。顔の表面を油汗が濡らしている。
「叫びたければそうすればいい。だが話すまでやめるつもりはない」俺はその火を近づけて奴の右頬を炙った。田中は調子の狂ったバグパイプのような喘ぎが漏れ、狂ったように暴れ、ライターから逃れようとしたが、奴をベンチに押し付けた。奴の頬がライターの火でじゅくじゅくとした火傷を帯びていく。俺は一度火を消した。奴は俺を睨み付けようとしたがもはやあふれ出る涙でそれどころではなかった。奴はベンチからうつぶせに転がり落ちた。
「さて、誰の依頼で、頼みごとだ?」
「こ、こんなはずじゃ……ない。こんなはずじゃ……」田中は震える声でつぶやいた。奴は震えていた、主導権を握ろうとしたら相手に命綱を握られたのだ。もっとも、殺すつもりはとっくにないし、いたぶるつもりも無い。この手のことは好きではないがやる時はやるしかない。
 俺は傍に跪き、耳元でライターを鳴らした。奴はぎゃっと叫んだ。
「わかった!荒川さんだよ、荒川タクミから頼まれたんだ!」
「荒川?」俺が眉をひそめると奴は何度も頷いた。
「ああ、そうだよ。お前ら東京の馬鹿共が会社に不利な事をしようとしているって聞いて俺が一肌脱ぐことにしたんだ。荒川さんとは昔から付き合いがぁっ!?」
 奴の耳をライターで軽く炙っている間に考えた。そして陸にあげられた魚のように悶える奴を見た。
「会社っていうと荒川運輸か?」
「そうに決まっているだろが……なあ、俺はほんとのことを話しているんだ、だからもうやめてくれ……」奴の声音に何の力も無かった。俺の頭の中で霞が湧いたが今は無視した。
「だとしたら妙な話だな、俺たちは会社の方にちょっかいを出すつもりはないんだ。その中の一人の従業員について調べていただけなんだから」
「な、なんだって……?」
「今度社長に会ったら今の言葉を伝えるんだな、会社についてはノータッチだってね」
 俺は立ち上がってライターを仕舞った。田中は呻きながらその場に座り込み、俺を見上げた。右頬と耳が火傷で爛れていた。
「お前、いつか覚えてろよ……俺は受けた恩も仇も二倍で返すのが信条なんだ……」
「あぁ、そうかい」と、俺は言った。踵を返してその場を離れることにした。
 奴が後ろから襲ってくるのではないかと思えた。だからスーツの内側の裾に縫い付けてあるカーアンテナに手を伸ばした。教師の使う指し棒のように小さく収納でき、一振りで三十センチも伸びるこれは意外にも人の肌を切り裂くくらいは容易にできる。
 だが奴は襲ってこなかった。公園から出る時に振り返ると奴はじっとその場にへたり込んでいた。多分、精いっぱいの強がりで疲れ果てたのだろう、あるいは火傷の痛みでそれどころじゃなかったのかもしれない。
 スーツの裾から手を離した。俺は何事も無かったかのように歩き続けた。ちょっと散歩をしているサラリーマンと言う感じで、だ。もっとも最近のサラリーマンが何をしているのか定かではない、むしろ最近は社畜と呼ばれているのか。
 奴のスマホを調べればなにかわかるかもしれない、そうではないかもしれない。だが一つ言えるのはそのまま持ち続けるのはあまりにもリスキーだということだ。
 都心にはどういうわけか街中を流れる川がいくつか存在している。両岸をコンクリートで塗り固めたそれは一体何が沈んでいるのか誰もわからない、探ったとしてもヘドロとガラクタをより分けるところから始めなければならない。
 だから俺は田中のスマホをその川に投げ入れた。着水した音が小さく響き、水面を波紋が広がって消えていった。そして残ったのはただ不透明で揺らめく水面だけだった。

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